真田一族のイメージイラスト

真田家

真田家臣団40人超を一気に整理|幸綱・昌幸・信之・信繁は誰を従えた?

10月23日にテレ朝で『真田十勇士』が主人公のドラマが始まりました。

猿飛佐助や霧隠才蔵、三好清海入道など。

真田幸村を支え、徳川家康に立ち向かう姿は心を痺れさせてくれますが、それも全ては史実における真田家があってこそでしょう。

信玄に仕えた真田幸綱をはじめ、真田昌幸と信之・信繁の父子たち。

そして、今回注目したいのが、彼らを支えていた家臣団です。

真田家のもとには、一体どんな武将たちがいたのか?

一門や一族から国衆、奉行、そして大坂の牢人まで、40人以上の面子をまとめましたので、さっそく振り返ってみましょう。

 


幸綱時代:一門を束ねて武田家の先方衆へ

まずは真田再興の祖である真田幸綱から簡単に見てまいります。

幸綱はもともと、信濃小県郡(長野県上田市周辺)の小さな国衆でした。

真田幸綱(真田幸隆)の肖像画

真田幸綱(真田幸隆)/wikipediaより引用

その幸綱の跡は、まず長男の信綱が継ぎます。大河ドラマ『真田丸』で草刈正雄さんが演じた真田昌幸ではありません。

しかし信綱と昌輝の真田兄弟が天正三年(1575年)長篠の戦いで討死したため、三男の昌幸に当主の座が回ってきました。

ご存知のとおりその次男である信繁(幸村)は家督を継いでおらず、大坂の陣で軍勢を率いた人物です。

幸綱は武田信玄に従い、川中島や上野吾妻郡(群馬県)の攻略で目覚ましい働きをしました。

研究者の丸島和洋氏は著書『真田一族と家臣団のすべて』の中で、「先方衆」とは武田家における外様の国衆の呼び名で、真田父子はその功績によって「信州先方衆」の筆頭に位置づけられたと述べています。

このころの真田勢は、整った家臣団というより、一門と地域武士(地侍)の集まりでした。

幸綱の近親とされる矢沢頼綱(やざわよりつな)が与力として指揮下に入り、息子の真田信綱・昌輝も武田家の軍勢として兵を率いています。

血縁と地縁を、そのまま武田家の軍事力に変える――それが幸綱の統率力でした。

そんな幸綱の家臣たちとは?

 

幸綱家臣団

幸綱の時代に真田家を支えた主な一門・家臣は、次のとおりです。

・真田信綱(幸綱の長男)

父から家督と岩櫃城将の地位を継承。

弟の昌輝と合わせた知行は1万5000貫文と、信濃の国衆で最大に達したとされる。

天正三年(1575年)の長篠の戦いで討死。

真田信綱の肖像画

真田信綱/wikimedia commons

・真田昌輝(幸綱の次男)

兄とは別に家を興し、戦では兄の指揮下で戦ったとされる。

長篠の戦いで兄とともに討死し、長篠の古戦場には兄弟の墓が残る。

・常田隆永(幸綱の弟)

信州先方衆の一人として『甲陽軍鑑』に掲載。

隆永が開いた月窓寺は第一次上田合戦で焼け、のちに信繁が上田城下に再興したと伝わる。

・河原隆正(幸綱の妻の兄)

古くからの真田家臣で、妹が幸綱に嫁いで信綱・昌輝・昌幸・信尹・高勝の5人を産んだ。

長篠の戦いでは、3人の息子が信綱・昌輝に従って討死している。

・鎌原重澄(吾妻郡の国衆)

滋野一族で、祖父は幸綱の弟と伝わる。

吾妻郡の大戸浦野氏を武田方に従わせる大功を立て、のちに真田氏の相備えとなったが、長篠の戦いで討死。

・池田長門守(吾妻郡の武士)

真田氏に早くから登用された数少ない吾妻郡の武士。

吾妻郡・斎藤氏の家臣だったが、幸綱の調略で武田方に転じ、真田家臣として扱われた。

★

では、二人の兄を長篠の戦いで亡くし、思いがけず家督を継いだ昌幸は、この一門をどう率いたのでしょうか?

 


昌幸時代:沼田は矢沢頼綱に任せ

真田昌幸の強みは、自分ですべてを動かそうとせず、要の城を任せられる人物を置いたことにあります。

その筆頭が矢沢頼綱でした。

矢沢頼綱のイメージイラスト

矢沢頼綱のイメージイラスト

頼綱は、はじめ「綱頼」と名乗り、のちに武田勝頼から一字を受けて「頼綱」に改名。

幸綱の弟とされる一方、甥ではないか?とする見方もあり、続柄ははっきりしません。

天正八年(1580年)、昌幸が進めた沼田城(群馬県沼田市)の攻略では、駿河に出陣していた昌幸に代わり、頼綱が北上野の軍勢を指揮しました。

武田家が滅んだあとも、頼綱は沼田城代として後北条氏との最前線を守り続けます。

昌幸にとって、これほど頼れる城代はいなかったでしょう。

群馬県立文書館が公開している「矢澤頼忠家文書」には、天正十四年(1586年)と推定される3月14日付で、昌幸が沼田城在番の功績により頼綱と頼幸へ海野領1000貫文を与えた判物も含まれています。

天正十三年(1585年)の第一次上田合戦で昌幸が徳川軍を退けたときも、沼田の守りは頼綱に任されていました。

沼田城

沼田城

頼綱の嫡男・矢沢頼幸も、昌幸から同心17人を預けられ、部隊を率いる「一手役」を命じられています。

なお、昌幸の弟・真田信尹は一門で、家臣とは立場が異なります。

城を任せられる一門が、昌幸の大胆な外交を背後で支えていたのです。

では、昌幸配下の者たちとは?

 

昌幸家臣団

昌幸のもとで働いた主な一門・家臣も、並べてみましょう。

真田昌幸の肖像画

真田昌幸/wikimedia commons

・矢沢頼綱(幸綱の近親)

天正十一年(1583年)には、沼田城を受け取りに来た北条氏邦の使者を斬り捨て、上杉景勝と結んで城を守った。

慶長二年(1597年)没。

・真田信尹(昌幸の弟)

武田時代、駿河深沢城攻めの功で、北条綱成が落とした「黄八幡」の旗を与えられる。

のちに徳川家康に仕えて昌幸を徳川方に引き入れる交渉に加わり、大坂の陣では甥・信繁の寝返り工作を担ったが失敗した。

・金井高勝(幸綱の五男)

武田氏滅亡後は上田で暮らし、病弱で信之から見舞いの書状を受けた。

信繁が高野山で供養した一門は高勝ただ一人で、親しい間柄だったと伝わる。

・河原綱家(昌幸の従兄弟)

信綱の加冠で元服し、兄3人の討死で家督を継いだ家老・奉行で、人質になっていた少年時代の信繁とも書状を交わした。

関ヶ原の際は大坂の留守居役で、昌幸の正室を守って大坂を脱出したという。

・鎌原重春(吾妻郡の国衆)

父・重澄の跡を18歳で継承。

昌幸からは弟・信尹の娘を養女として嫁がされるなど、丁重に扱われた。

・海野幸光と輝幸(吾妻郡の国衆)

羽尾氏出身の兄弟で、真田信綱らの調略に応じて岩下城を武田方に引き渡した。

昌幸の沼田攻めでも名胡桃城・沼田城の守りについたが、天正九年(1581年)、謀叛の疑いをかけられて昌幸に討たれた。

・湯本三郎右衛門尉(草津の土豪)

草津の湯を管理した一族で、羽根尾城将を務めた。

一時は上杉方に通じて謀叛を起こしたが、のちに復帰して信之のもとで家老格となり、草津の湯銭(入湯料)の上納も免除された。

・金子泰清(沼田衆)

沼田攻めで早くに昌幸に従い、のちに沼田城代の矢沢頼綱を支えた。

武田勝頼の求めに応じ、甥の沼田景義を謀殺したとも伝わる。

・恩田伊賀守(沼田衆)

本能寺の変の直後にいち早く昌幸に従い、第一次上田合戦では留守を預かった。

沼田が北条領になると一時北条方に移ったが、北条氏の滅亡後に帰参。

・鈴木主水(名胡桃城将)

天正十七年(1589年)、家臣の裏切りで名胡桃城を北条方に奪われ、責任を取って自害したと伝わる。

この「名胡桃城事件」は、秀吉が北条征伐を決断する直接の契機となったが、一次史料に主水の名は見えない。

名胡桃城事件

名胡桃城址

・大熊靱負尉(家老)

早くからの家臣で、武田時代の検地帳では家臣中最大の知行を持つ。

北条氏直からも700貫文を約束されるなど、家臣団のトップとして扱われた。

・丸山綱成(奉行人)

上野の直轄地を管理した奉行人。

所領をめぐる争いが決着するまで、昌幸の命令でも引き渡しを止め、昌幸もその判断を認めた。

・日置五右衛門尉(へきごえもんのじょう/外交の使者)

昌幸の使者として北条氏直、続いて徳川家康のもとへ赴き、従属を申し入れた。

のちに信之の重臣となる。

・原昌貞(勘定方)

武田家の足軽大将・原虎胤の孫と伝わる。

勘定方として信繁の知行地の経営を担い、九度山の昌幸との連絡役も務めた。

浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「武田二十四将図」の原虎胤
傷だらけの猛将・原虎胤|信玄に信頼され武田軍を支えた不屈の生涯とは?

続きを見る

・池田綱重(家老)

池田長門守の子で、関ヶ原のあと昌幸・信繁の高野山行きに供をした家臣の筆頭に名が見える。

九度山と上田を行き来し、のちに信之の家老となった。

・神尾淡路守(海野衆)

遠江出身で、武田氏滅亡後に昌幸に仕えた。

子孫は上田宿の旅籠屋となり、「遠州屋」を名乗って松代移封後も上田の問屋として続いた。

・真田右馬允(一族)

昌幸の家臣として重く扱われた。

のちに真田家を離れ、小諸城主・仙石秀久に300貫文で仕える。

仙石秀久の肖像画

仙石秀久/wikimedia commons

・飯島市之丞(2代)

初代は丸子攻めの軍功で昌幸に賞された。

2代目は高野山行きの供に加わったものの上田へ戻り、大坂夏の陣で討死。

★

以上、真田昌幸の家臣団は、関ヶ原で父と別れた信之の手にどう渡ったのか?

 

信之時代:戦う家臣団を近世の藩士へ

関ヶ原の戦いで東軍についた真田信之。

それまでの沼田領に加え、家康から父・昌幸の旧領である上田領も認められました。

真田信之の肖像画

真田信之/wikipediaより引用

昌幸に従って九度山へ移った家臣の中には、その死後、上田へ戻って信之に仕えた者もいます。

信之は、家臣に預ける同心(配下の兵)を、鑓なら鑓、鉄砲なら鉄砲と種類ごとにそろえ、人数も10人単位に整理。

さらに主要地域に「職方」を置き、警察・裁判にあたる検断権を家臣へ委ねます。

慶長十九年(1614年)、吾妻郡の職方を任されたのが、大河ドラマ『真田丸』で寺島進さんが演じて注目された出浦昌相(いでうらまさすけ)でした。

出浦昌相のイメージイラスト

出浦昌相のイメージイラスト

武田旧臣の昌相は後世「忍びの棟梁」とも伝えられましたが、丸島氏は、信之の朱印状を補う黒印状を出し続けた家老としての活動と合わない伝承とみています。

矢沢頼幸も上田領の支配に加わり、昌幸の娘婿・小山田茂誠は真田姓を許された一門待遇で、信之に仕えています。

大きな転機は、元和八年(1622年)の松代移封でした。

信之は上田6万5000石から松代10万石へ移り、長男・信吉の沼田3万石は据え置かれました。これにより真田家は松代藩と沼田藩に分かれ、一族全体では計13万石となります。

加増を伴う移封とはいえ、家臣たちにとっては先祖以来の土地を離れる国替えです。

信之は、「自分は老いた身だが、上意であり、子孫のためでもあるので松代へ移る」と述べたうえで、出浦昌相へこう書き添えました。

【意訳】事情については安心してほしい。

【原文】様子に於ては心易かるべく候

出典:元和八年10月13日 出浦対馬守宛真田信之書状

上田市立博物館は、この追伸を、先祖以来の地を離れる家臣団の動揺を思いやって書き添えたものではないか、と解説しています。

戦場で勝つことより、古参の家臣をまとめて藩の組織へ移したところに、信之の統率力があったのです。

松代城

松代城

そんな信之の時代に名前の見える主な一門・家臣は、次のとおりです。

 

信之家臣団

・矢沢頼幸(頼綱の嫡男)

人質として越後へ行く信繁に同行し、信繁に代わって新発田重家との戦いで軍功を立てた。

松代移封後の知行2125石は家臣団で最大で、子孫は松代藩の筆頭家老を務める。

・小山田茂誠(しげまさ/昌幸の娘婿)

甲斐の郡内小山田氏の一門出身で、関ヶ原では昌幸とともに上田城に籠城し、その後は信之のもとへ。

九度山の信繁から「歯も抜け、ひげも白くなった」と老いを嘆く手紙を受け取っている。

小山田茂誠のイメージイラスト

小山田茂誠のイメージイラスト

・出浦昌相(家老)

武田氏滅亡後は織田家臣・森長可に従い、本能寺の変で諸将が離れるなか、最後まで長可を守ったという。

昌幸の陣立てでは武者奉行を務めた。

・禰津(ねつ)幸直

滋野三氏の一つ・禰津氏の出身で、信之の乳兄弟・遊び友達と伝わる。

信之の正室・小松殿の輿入れでは奉行を務め、奉行人・近臣として重く用いられた。

・大熊五郎左衛門尉(重臣)

大熊靱負尉の跡を継いだとみられる重臣で、知行311貫文余り、鑓の者40人を預かる大身。

慶長八年(1603年)に急死し、信之は「力落」と嘆いた。

・木村綱円(家老)

今川氏真の旧臣で、武田の駿河侵攻で捕らえられたのち信綱に仕えたという。

信之の家老として、大坂夏の陣では嫡男・信吉を補佐した。

・石井喜左衛門尉(勘定方)

勘定方を務めた信之の家老。

徳川家光の傅役・青山忠俊から礼状を送られるなど、他藩にも知られた存在だった。

・宮下藤右衛門尉(家老)

勘定奉行より上に立つ信之の家老。

大坂の陣のあと、信繁に金銀や弾薬を送った内通の疑いをかけられ、処刑されたという。

・安中繁太(江戸詰)

長く江戸に詰め、幕府の重臣との連絡役を務めた。

大坂夏の陣では、小松殿から信吉の補佐を頼まれている。

・海野三右衛門尉(元国衆)

小県郡の国衆・丸子氏の元当主で、海野氏の名跡を継いだという。

403貫文余りを安堵された大身。

・鈴木右近(鈴木主水の子)

名胡桃城事件で父を失ったときは6歳。

いったん真田家を離れたが信之に召し返され、万治元年(1658年)、信之の死の翌々日に殉死した。

・真田信吉と信政(信之の息子)

大坂の陣では、病の父に代わって出陣した。

この陣では信吉に従った常田永之や、海野幸貞の遺児・原郷左衛門尉らが討死し、禰津幸直の嫡男・幸豊も夏の陣で命を落としている。

★

それでは、領国を失い少数の家臣だけが残った信繁は、いったい大坂でどう戦ったのか?

 

信繁時代:九度山以来の家臣と共に

関ヶ原以前の信繁は、秀吉の直臣として上田を中心に1万9000石を領していました。

しかし九度山配流によって領国を喪失。

大坂入城時には、兄のような代々の大きな家臣団もありません。

慶長十九年(1614年)10月、信繁は九度山を抜け出して大坂城に入りますが、従っていたのは、九度山で暮らしをともにしたわずかな家臣です。

研究者の平山優氏は著書『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』の中で、入城当初の兵は九度山以来の家臣を物頭とし、その多くは九度山周辺の地侍で、上田の旧臣は後から少しずつ集まったとみています。

では、信繁のもとで戦った一族・家臣とは?

 

信繁家臣団

・高梨内記

信繁の傅役だったとされ、娘が信繁の妻になったとも伝わる。

九度山から大坂へ従い、夏の陣で討死した模様。

・高梨采女(内記の嫡男)

父とともに九度山で昌幸・信繁を支えた。

大坂では信繁の嫡男・大助の傅役を務め、夏の陣で討死したとみられる。

・青柳清庵

昌幸に同行した家臣のうち、昌幸の死後も高梨内記とともに九度山へ残ったと伝わる。大坂入城では物頭として兵を率いた。

・三井豊前

高梨采女・青柳千弥らとともに九度山へ残ったとも伝わり、大坂入城にも従った。

・堀田作兵衛

妹が信繁の妻だったとされる。上田から大坂へ駆けつけ、夏の陣で討死したと伝わる。

・真田大助(信繁の嫡男)

九度山で生まれ、14歳ほどで大坂に入った。

真田丸の戦いでは木戸から討って出て徳川方を混乱させ、落城の際に豊臣秀頼に殉じて自害。

真田大助(幸昌)の浮世絵/月岡芳年作

真田大助(幸昌)の浮世絵/月岡芳年作/wikimedia commons

★

丸島氏は、大坂に赴いた真田家臣は少なくとも50人はいたとしています。

一方、兄の真田信之は、弟とのつながりを疑われないよう、残された者たちを厳しく詮議しました。

そして大坂冬の陣では信繁隊が真田丸に入り、長宗我部勢などとともに、攻め寄せた前田勢らへ大きな損害を与えたことはドラマでもお馴染みですね。

出自も、仕えた年数もばらばらの兵を、短い期間で戦える集団にまとめた――それが信繁の統率力でした。

こうして並べると、4人を支えた家臣団には、どんな共通点があったのでしょうか?

 

真田家臣団を支えたのは血縁と役割分担

真田幸綱にはじまり昌幸、信之、信繁まで。

4人の統率力をまとめると、次のようになります。

◆真田家4人の統率力

真田幸綱:一門と地域の武士を束ねた

真田昌幸:重要な城を一門・家臣に任せた

真田信之:戦国の家臣団を藩の組織へ作り替えた

真田信繁:大坂で集まった素性不明な兵を戦える集団にまとめた

真田家の強さは、天才軍師一人の奇策ではありません。

一門、国衆、城代、行政を担う家臣、そして牢人。

時代や場所、つまりTPOごとに必要な人材を組み合わせたところに、真田家の本当の強さがあったのではないでしょうか。

なお、猿飛佐助や霧隠才蔵で知られる「真田十勇士」は、江戸時代の軍記物に登場した家臣をもとに、明治末から大正期の立川文庫で10人に整えられた創作です。

以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

ドラマ真田十勇士イメージイラスト
真田十勇士の10人とは一体誰のことだ? 忍者は猿飛佐助と霧隠才蔵の2人

続きを見る

真田幸隆(真田幸綱)
真田幸綱(幸隆)の生涯|信玄の快進撃を陰で支え 真田氏の礎を築いた昌幸父

続きを見る

真田昌幸
真田昌幸の生涯|三成に“表裏比興の者”と評された謀将 その実力とは?

続きを見る

真田信之の生涯を史実から振り返る|父の真田昌幸、弟の真田信繁(幸村)と離れ、徳川家康のもとで真田の血筋を守り抜いた生き残り術に注目
真田信之の生涯|父の昌幸や弟の信繁(幸村)と別れ 戦国を生き抜いた知略とは?

続きを見る

真田幸村(真田信繁)
真田信繁(幸村)の生涯|ドラマのような英雄だったのか 最新研究から実像を考察

続きを見る

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考文献

TOPページへ


 

    • この記事を書いた人
    • 最新記事

    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連からエンタメ書籍まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

    -真田家

    右クリックのご使用はできません