榊原康政・本多忠勝・酒井忠次の肖像画

左から榊原康政・本多忠勝・酒井忠次/wikipediaより引用

徳川家

家康は本当に6万騎もの徳川軍で上洛したのか|大坂へ進んだのは約3000人

ついに大坂城で、秀吉の前に平伏した徳川家康――。

大河ドラマ『豊臣兄弟』第41回では終盤クライマックスの一つである天下人二人の臣従シーンが描かれましたが、このとき非常に気になる描写がありました。

事前に家康から秀吉へ送られた書状の中で「六万の徳川軍を引き連れて大坂まで進む」と記されていたことです。

まるで戦でもするような大軍。

果たして史実でそんなことがありえたのか?

そもそも秀吉が許したのか?

家康による上洛の詳細を振り返ってみましょう。

 


家康の上洛勢は本当に6万騎だった?

天正十四年(1586年)10月14日、浜松城を出発した徳川家康は、途中の西尾城(現在の愛知県西尾市錦城町)でいったん足を止めました。

大政所(なか)の到着を待つためです。

大政所(なか)の肖像画

大政所(なか)/wikipediaより引用

妹のあさひに続き、徳川への人質として受け入れた秀吉の母は10月18日に岡崎城へ到着。

西尾城から出向いて彼女を迎えた家康は、20日に岡崎を発って京・大坂へ向かいました。

このときの人数が「六万騎程」だったと『多聞院日記』に書かれています。

ドラマで6万騎と描写されたのは、この日記が典拠だったのですね。

しかし研究者の藤井讓治氏は著書『徳川家康 人物叢書』の中で、この数字は「かなり過大」だと指摘しています。

『多聞院日記』は三河から遠く離れた奈良興福寺の僧侶による記録ですから、家康の勢いが実数以上に大きく伝わった可能性があるのでしょう。

ただし、デタラメと切り捨てるのも早計であり、少なくとも奈良では「六万」と受け取られるほどの規模だという噂が広まっていたのです。

では実際に大坂へ乗り込んだのは何人だったのでしょうか?

 

京都から大坂へ向かったのは約3000人

岡崎を発ってからの徳川家康の足取りは次の通りです。

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikimedia commons

◆家康の上洛から対面まで(天正十四年)

10月24日:京都に到着し、豪商・茶屋四郎次郎の屋敷に入る

10月26日:約3000人の軍勢を率いて大坂へ向かい、秀長の屋敷に入る

10月26日夜:秀吉が屋敷を訪れ、家康と内々に会う

10月27日:大坂城で秀吉と正式に対面する

藤井氏によれば、26日に京都から大坂へ下ったときの人数は3000ほど。

「なんだ、やっぱり6万は嘘で、実際は3000人だったんじゃないか」

そう思いたくなるところですが、実はそこまでも言い切れません。

二つの数字は同じ場面を指していない。

「六万騎程」は岡崎を発ったときの軍勢として伝わった数であり、約3000人は京都から大坂へ入ったときの人数。

実際のところ、小田原合戦のときの徳川軍は3万だったとされ、小牧・長久手の戦いでも1万5000規模と考えられますので、「六万騎」はやはり過大だったと言えるでしょう。

『小牧長久手合戦図屏風』

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用

ただし3000人規模でも挨拶回りとはまるで違う状況。

武装した軍勢で秀吉の本拠へ乗り込んだことに変わりはありません。

この行列には、いったいどんな武将が加わっていたのか?

 


誰が同行し誰が岡崎に残った?

ドラマでは本多忠勝が家康に同行して、秀長の屋敷で警固を担っていました。

しかし、上洛に従った家臣の完全な名簿は不明。

動向を確かめられる武将にスポットを当てますと、まずは徳川家康の筆頭家老・酒井忠次に注目です。

酒井忠次の肖像画

酒井忠次/wikipediaより引用

研究者の新行紀一氏は著書『シリーズ・織豊大名の研究10 徳川家康』の中で、あさひとの婚姻後も家康が上洛しなかったのは、忠次をはじめとする諸将が反対していたからだと記しています。

その忠次も、いざ上洛となると家康に従って京都へ上っていた。

しかも、このとき秀吉から近江に1000石を与えられ、従四位下・左衛門督となりました(参考:荘内酒井歴史文化振興会)。

大坂城での対面にまで忠次が付き従ったかどうかは不明です。

一方、岡崎城に残ったことがわかるのが、城代の本多重次、井伊直政、大久保忠世ら重臣たちでした。

研究者の野田浩子氏は著書『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』の中で、大政所を警固したのが井伊直政と本多重次だったと指摘。

そのためでしょう。この二人については、有名な逸話が残されています。

・本多重次は大政所の屋敷のまわりに柴や薪を積み上げ、家康に万一のことがあれば、すぐに火を放つと脅した

本多重次の肖像画

本多重次/wikipediaより引用

・井伊直政は、たびたび大政所のご機嫌うかがいに訪れ、果物や菓子を届けた

いずれも江戸時代の『落穂集(おちぼしゅう)』に見えるエピソードであり、史実かどうかは定かではありません。

すでに人質として囲んでいる以上、脅す必要は皆無ですので、本多重次もさすがにそんな失礼はしないと思うんですよね。

確かなのは、家康が無事に戻ったあとの11月12日、井伊直政が大政所を大坂まで送り届けたことです。

井伊の赤鬼の警固とは、大事な人質だけあって豪勢な対応。

井伊直政の肖像画

井伊直政/wikipediaより引用

なお、榊原康政も家康の上洛中に従五位下・式部大輔に任じられていますが、浜松から大坂まで同行したと示す史料は確認できません。

もちろん「同行していない」と記す史料などないわけで……個人的には後述する理由から一緒にいたのでは?とも思ってしまいます。

では3,000の軍勢と共に大坂へ入った家康を、秀吉はどう迎えたのか、見ておきましょう。

 

秀長邸で行われた臣従前夜の会談

10月26日の夜、秀吉は徳川家康の宿所である秀長の屋敷を自ら訪れました。

これもドラマ通りで、正式な対面は翌日の予定でしたから、待ちきれなかったのでしょう。

その様子を、徳川家臣の松平家忠が日記に書き留めています。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

秀吉は家康の手を取って奥の座敷へ招き、思うところを存分に語ったあと、酒盛りとなりました。

秀吉がまず酌をして家康に盃を勧め、今度は家康が酌をして秀吉に返す。

後に、そう伝え聞いた様子が日記に記されたものですが、こういう接待こそ秀吉の真骨頂だったと思えますよね。

前の晩に内々で話を整え、翌日の大坂城ではキッチリ臣従よろしくな!ということで。

大事な会談は食事会を利用して打ち解けてながら進める、というのは今も昔も変わらないのかもしれません。

そして翌27日、家康は大坂城に登って正式に秀吉と対面し、馬10疋、金子100枚、太刀などを献上して臣従を示しました。

28日には、秀長の屋敷で家康のための能も催されました(ドラマでも能の場面がありました)。

 

臣従にせよ武威は見せねばならない

家康が「6万騎」で上洛したという描写は、実数ではないでしょう。

しかし、約3000人の軍勢で大坂へ乗り込んだことは間違いない。

秀吉と戦うための出陣ではありませんが、それでも家康は自らの軍事力と家格を示しながら臣従の場に臨みました。

たとえ豊臣に屈するとしても、徳川の武威を見せる必要があった。

秀吉はあさひとの婚姻をめぐる使者として、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政のいずれかを送るよう求めたほど、徳川の重臣たちを意識していました。

榊原康政・本多忠勝の肖像画

榊原康政・本多忠勝/wikimedia commons

その詳細は以下の関連記事に譲りますが、

榊原康政・本多忠勝・酒井忠次の肖像画
秀吉に「徳川四天王を遣わせい!」と叱られた家康|徳川内と世間の家格ギャップよ

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ドラマの描写通り家康の側に忠勝がいて、画面には映らなかった康政も同行していたことは十分に考えられる。

むしろ秀吉にしてみれば、主君の家康が臣従するのですから「徳川の剛の者たちもどんどん連れてこい!」という心境だったのではないでしょうか。

なお、上洛まで8ヶ月もの時間がかかった理由については以下に詳細記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

家康と秀吉対面イメージイラスト
なぜ家康は秀吉への臣従と上洛を拒み続けたのか|豊臣兄弟第41回史実解説

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◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連からエンタメ書籍まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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