みなさんは「四神相応(しじんそうおう)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
東に川(青龍)、西に道(白虎)、南に窪地(朱雀)、北に山(玄武)というアレ。
奈良時代以来の陰陽の思想で、お城の世界でも度々登場いたしますが、実のところ後世の軍学者(江戸時代)による後付けに過ぎません。
中世に記された『築城記』で、戦国時代の城については攻撃精神の塊のような軍事的側面しか強調されていない。
とにかく乱世では「要害を構えて侵されない」ことが築城思想の基本なのです!
考えてみれば当たり前の話。
リアルに命を奪い合う場所ですから、城で大切だったのはとにかく軍事的な性能であり、城の立地の要点はこれ以上でも以下でもない――例を挙げながら、振り返ってみましょう。
戦国後期になると城下町ありきの考え方へ
戦国時代も後期に入ってくると、城の周囲を町割りして、城下町とセットで城の縄張を考えるようになります。
江戸時代の謙信流築城術の軍学者は
「西に原野、南に田畑、北に山林、もし東に流水がなければ水をひくこと」
が理想だと言っています。
このような地形は西北が高くて東南が低いので、夏は涼しく、冬は暖かい。
また物資に不足もしないのでその土地は繁昌するとしています。
そうです。これは既に城ではなく城下町ありきなのです。
また、この考えは四神相応の思想がなくても人間なら誰でも自然にそう願うところでしょう。
例えば現代でも物件を選ぶときは、南側が開放していれば日当り良好ですし、西北が陰になれば、真夏に西日が入りにくく、冬は北風もしのげます。
さらに南とは言わず、近くにコンビニ(田畑)があって、ついでに駅近だったらもう完璧な物件ですね(笑)。
この四神相応を日本の気候風土に都合よく合わせたような謙信流の立地さえもあくまで理想。
世の中そうそう良い物件……、おっと失礼、良い立地はありません。
では次に、具体的な城の縄張りを見ながら話を進めてまいりましょう。
◆駿府城
平城だけに完全な平野部。
城だけではなく駿府の城下町全体でみても四神相応は当てはまりません。北に山はありますが、安倍川は駿府の町の西を流れています。
ということで、城造りは合理的な判断に基づいた立地が第一で、これを後世の軍学者が後付けで四神相応などの思想に当てはめているに過ぎません。
うーん、夢も希望もない!
リアルなサバイバルをしている戦国時代の人々にとって、陰陽の呪術など既に頼るべきものではなくなっているんですね。
信長や秀吉に弾圧され姿を消した陰陽師
ちなみに、平安時代から室町時代まで存在した陰陽師は戦国時代の京の都の荒廃と共に、実質、日本の歴史から消えてゆきました。
そこに追い打ちをかけるように信長や秀吉が陰陽師を弾圧しまくったのですから、彼らはもうライフゼロ。
そんな陰陽思想を全国の戦国武将が知り得るはずがありません。
では最近の陰陽師ブームは何なんだ?
という疑問は当然湧いてきますが、多くは江戸時代に書かれた若干怪しげな文書に基づいています。
鬼門なんて怖くねーわ! by 戦国武将
そんな中でも、なぜか北東と南西の角を切り取る日本独特の鬼門と裏鬼門の思想だけは残ります。
鬼門だけは築城に携わった職人たちに、何となく継承された様式だったのかもしれません。
しかし戦国時代の城には鬼門に挑むように、あえて北東と南西に不浄なトイレを設置するような城もあり、戦国武将たちが鬼門などちっとも恐れてないことがわかります。
「鬼でも悪霊でも何でもかかってこいや!」的な戦国時代のノリは、とてもいいですね。
江戸時代の軍学者同様、現代の我々も陰陽思想がお城に見え隠れしていると確かにおもしろいので、「おぉ、東に川があって北に山があるぞ!」とか「北東の面がキレイに切り取ってるねえ。鬼門除けだよ、これは」なんて、つい陰陽思想をダブらせてしまいますが、戦国時代の人に言わせれば「陰陽? 何それ食えるの? こっちは生き死にがかかってんだぞ、このゆとりが!!」と怒られてしまうかもしれません。
結局、お城はその土地の地形をどう生かすか。
大原則は「要害を構えて侵されない」城であること――これが戦国時代の縄張、築城の基本なのです。
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