「調子に乗った平家を源氏がフルボッコにした」
ともすればそんなイメージを持たれるかもしれませんが、実際は一進一退だった時期も結構あったりします。
そもそも戦争というのは、どちらが勝つかわからないから始まるものであり、それが進んでいくうちに、何らかのキッカケでどちらかが優勢になっていく――。
源平合戦においては【一ノ谷の戦い】で平家がかなり劣勢になりますが、その後もスンナリやられたワケではなく、挽回しようと頑張ったことがありました。
そうして元暦2年/寿永4年(1185年)2月19日に起きたのが【屋島の戦い】です。
那須与一が『扇の的』で大活躍した一戦ですね。
それは一ノ谷の戦いから約一年後のことでした。
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日宋貿易で積み重ねた資産や航海技術
屋島は、現在の香川県高松市にあります。
平家はここを本拠として周辺諸国からの年貢を分捕って力を蓄えていました。さらには内裏(天皇の住まい)にあたるものも作っています。
もちろん大天狗こと後白河法皇がおkを出すわけもなく、「戦をやめんかい(そしてワシに従え)」という手紙を送りつけますが、平家が素直に聞くことはありません。
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そりゃあ、一ノ谷のときにハメられてますからね。
ならばなぜ「物資が集まる前に手を打たなかったんだ?」という気もしますが、これは平清盛の遺産みたいなものです。
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清盛の時代に日宋貿易(当時の中国・宋王朝との貿易)をやっていたので、平家は水軍(今でいう海軍)を持っており、航海技術もありました。
一方、源氏は、まとまったのがつい最近のこと。
対抗できる水軍はなく、新たに組織することもできず、攻めあぐねていたのです。
範頼は鎌倉へ戻り、義経は京へ
その間、平家は、ますます物資を得て、一ノ谷ですっからかんになっていた人材を物量で補おうとしていました。
「こりゃ、一筋縄ではいかんわ」
そう判断した源氏側は、いったん進軍を止めて二手に分かれます。
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範頼は鎌倉へ戻って源頼朝の指示を仰ぎ、義経は京へ残って市街ごと皇居を守ることにしました。
義経というと、後に頼朝との仲違いで京から出たとき、静かに出て行ったため、ありがたがられたという話がありますが、民衆からの人気はこの頃得たものかと思われます。
まぁ木曽義仲(源義仲)のアレコレがあった後ですから、余計よく見えたのかもしれません。
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頼朝は、源範頼を総大将として派遣したが
さて、範頼から経過を聞いた源頼朝は、改めて平家打倒の作戦を練ります。
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そして「義経を総大将とした追討軍を認めてください」という手紙を後白河法皇に送りますが、ここで平家の地元かつ都の近所である伊賀と伊勢で大規模な反乱が起き、すぐに動けた義経がしばらくこの方面を担当せざるを得なくなりました。
頼朝はさぞ歯噛みしたでしょう。
代わりに範頼を総大将として平家を追わせます。
しかし、九州にまで延々と伸びた戦線と船の不足で追い込みきれず、兵糧も減り続け、逆に源氏がヤバい状態になってしまいました。
士気はガタ落ちしますし、ヘタをすれば範頼の身すら危うくなる。
そこで範頼は頼朝にかくかくしかじかを報告する手紙を書きました。ホントまめなお人やで。
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