アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ/wikipediaより引用

作家

アレクサンドル・デュマ『三銃士』作家の破茶滅茶だけどきっぷの良い生き方が最高だ

1802年7月24日、アレクサンドル・デュマ(大デュマ)が誕生しました。

『三銃士』や『モンテ・クリスト伯(厳窟王)』といった作品で日本でもよく知られた作家ですね。

作家というと、いかにもインテリなイメージがありますが、この人に限ってはウルトラCな経緯で創作の世界に入り、実に破天荒な生活を続け、最後まで豪快に散ってゆきます。

早速、その生涯を……といきたいところですが、この方のお父上が面白い生い立ちですので、最初にそこから見てまいりましょう。

デュマ本人の前半生にも大きく影響しています。

アレクサンドル・デュマ・ペール/wikipediaより引用

 


「デュマ」は祖父のあだ名だった

話は、デュマの祖父母時代に戻ります。

デュマは当時比較的珍しい黒人と白人のクウォーターでした。

祖父がフランス貴族でハイチの富裕層であり、祖母はその彼に手を付けられてしまった現地の黒人女性マリだったことによります。

マリは身分が低く名字を持っていなかったため、「農家のマリ」=Marie du masと呼ばれていました。

この”du mas”という通称をそのまま名字として使ったのが、デュマの父であるトマ=アレクサンドルです。

彼のことは以下「トマ」と呼ばせていただきますね。

トマ=アレクサンドル・デュマ
ナポレオンに背いた猛将トマ=アレクサンドル・デュマはあの文豪の父だった

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マリが亡くなった後、トマを含めた四人兄弟は一時奴隷として売り飛ばされてしまいました。

しかし祖父はフランス帰国時に息子たちを呼び集め、その後はきちんと教育を受けさせていました。賢いといえば賢い立ち回りですが、人道的にどうなの?という気もしますね。

トマは陸軍に入り、ルイ16世やナポレオンに仕えました。

体格に恵まれていた彼は戦場でまさに無双ぶりを披露し、町を歩けば女性たちの視線を集め……と、どこでも注目。

そしてヴィレール=コトレというパリ北東の町で、のちにデュマを産むマリ=ルイーズと出会います。

彼らの結婚は1792年のことで、フランス革命真っ最中でした。

しかしトマは、エジプト遠征のナポレオンを真っ向から批判し、関係が悪化。

ナポリ王国(現在のイタリア南部にあった国)で捕まってしまい、二年間ひどい環境で監禁されてしまいます。

どうやらヒ素を少しずつ盛られていたようで、視力や聴力の悪化に加え、手足の麻痺もあったとか。

当然、これでは戦場には戻れません。

やっと帰国したはいいものの、フランスの制度が変わったことやナポレオンに「役に立たなくなったヤツはいらない」と言われてしまったため、軍を去ることになります。

真面目に仕事してたのにひどい話ですね。

これが1801年のことなので、デュマが生まれる前年にあたります。

トマは1806年に43歳で亡くなっています。もっと詳しい生涯を知りたい方は以下の記事をご参照ください。

トマ=アレクサンドル・デュマ
ナポレオンに背いた猛将トマ=アレクサンドル・デュマはあの文豪の父だった

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教育を受けられず公証人役場で働きながら

そんな感じでデュマが生まれる前からかなりドラマチックな物語があり、生まれてからもダイナミックな展開が続きます。

ナポレオンはトマを嫌っていたので、遺族に年金を支給してくれませんでした。

そのため、大黒柱を亡くした母子はとても貧しい生活を強いられ、デュマはまともな教育を得る機会がないまま育ち、15歳で公証人役場へ勤めることとなります。

公証人は「法律関連の公的書面を作る」仕事で、たとえば遺言書の作成などがお役目です。

いかにも専門知識が必要な仕事っぽいですが、デュマは書類を届けるメッセンジャーのようなことをしていたと考えられています。

この頃には銃の扱いを覚えており、ウサギなどを狩って食費の足しにしていたとか。

デュマはもともと勉強が好きなタイプでもありませんでしたが、それでもある程度は真面目に働いていたようです。

次第に、観劇などの娯楽にお金を使える程度の収入は得られるようになりました。

現代ではお芝居というとなかなかお金のかかる娯楽ですけれども、デュマの時代は識字率がまだ低かったため、書物よりも観劇のほうがリーズナブルだったのです。

そしてデュマはシェイクスピアの「ハムレット」に出会い、大感激!

観劇だけに……なんでもありません。

「俺もシェイクスピアみたいな劇を書きたい!」と奮い立ち、劇作家への道を歩み始めます。

この頃、しばらくパリへ行っていた友人のアドルフ=ド=ルーヴァンという男が戻ってきて、演劇に関する話をたくさん聞かせてくれたことも影響したようです。

アドルフはスウェーデンから亡命してきた貴族の息子で、社交界にも顔が利きました。デュマをパリに連れていき、俳優に紹介してくれたこともあります。

こうして演劇の世界へのやる気を出していった一方で、公証人の仕事ではあまり進歩がありませんでした。

母マリも薄々わかっていたようで、デュマが「パリで働きたい」といったとき、引き止めずにお金を出してくれたといいます。

ニュートンなども当てはまりますけれども、「堅実な仕事が向いていなさそうな子ならば、いっそ好きにさせてやる」というのが結果として成功に結びつくのかもしれません。

 


ノディエに才能を見出され

こうして晴れてパリへ出たデュマ。

父の友人のツテをたどって就職先を探しましたが、なかなか仕事が見つかりません。

しかし運良く、文字の美しさを見込まれてオルレアン公(のちのフランス国王ルイ=フィリップ)の文書係にありつけました。

このころ幸運な出会いも得ています。ラサーニュという文書係の同僚で、歴史や文学の手ほどきをしてくれたのです。

オルレアン公邸では多くの蔵書に触れることもでき、劇のネタをたくさん仕入れられています。

こうして、わずかなお金をためて観劇に行く生活を送っていたある日、劇場でシャルル・ノディエという作家に出会いました。

ノディエは作家としての成功もさることながら、新人作家の発掘にも情熱を燃やしていた人物で、時折サロンを開催。

有名どころでは『レ・ミゼラブル(ああ無情)』の作者ヴィクトル・ユーゴーなどがノディエのもとに出入りしていたことがあります。

そして後日デュマが戯曲の台本を書き、「なんとかしてコメディ・フランセーズで上演してもらいたい」と考えたとき、力になってくれたのもノディエでした。

今日のコメディ・フランセーズは名門劇場ですが、当時は古典作品だけでなく新作も積極的に上演していました。

つまり、デュマのような新人にもチャンスがあったのです。

こうして1827年、デュマは17世紀のスウェーデン王妃クリスティーヌをテーマにし、友人と競作することにしました。

デュマの台本は、当初コメディ・フランセーズ付きの劇作家によって酷評されながらも、ノディエの口添えで無事上演準備まで進みます。

しかし主演女優がセリフに文句をつけたため、結局コメディ・フランセーズでの上演はできず。

結局、デュマの『クリスティーヌ』上演は1830年までずれ込むことになります。

その前年に別の戯曲が上演され、デュマの名が高まっていたことも影響したのかもしれません。

1829年に上演されたのは、フランス王アンリ3世をテーマにした『アンリ3世とその宮廷』でした。

アンリ3世はデュマの時代から250年ほど前の王様で、ヴァロワ朝最後の王。

イングランド王エリザベス1世との縁談が持ち上がって白紙になったり、プロテスタント問題で右往左往したりと、なかなか苦労の多い人でした。

なおこの頃、デュマはまだオルレアン公邸の仕事も辞めていません。

それをチクチクつつかれたこともありましたが、デュマはオルレアン公が文学を愛好していることをうまく利用します。

この作品の初日公演に、オルレアン公を臨席させたのです。

「副業先に本業の上司を来させた」という構図になりますので、現代人からすると「よくやったな」という感じがしますね。

内容としても史実ベースにフィクションのロマンスを盛り込んだ作風がウケて、『アンリ3世とその宮廷』は瞬く間に大ヒットしました。

こうしてデュマは戯曲作家として食べていけるようになったのです。

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