昭和十七年(1942年)11月2日は、詩人・北原白秋が亡くなった日です。
『あめふり』や『待ちぼうけ』など、多くの日本人が知っている童謡の歌詞を書いた人として有名ですね。
が、本人の生涯は童謡という穏やかなイメージとはかけ離れていたようです。
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中学を無断で退学し、早稲田の英文科へ
白秋は、明治十八年(1885年)に熊本で生まれました。
すぐに福岡へ行ってそこで育っているので、出身地については判断難しいところがありますね。
お家は江戸時代から続く問屋さんの家で、当時は酒造を主にしていました。
同時代の一般人としては、比較的裕福だったと思われます。
成長とともに尋常小学校・高等小学校・中学(順にだいたい現代の小・中・高)に進み、中学では成績が振るわず落第。
このころ文学誌を乱読しはじめたそうなので、そのせいで成績が落ちてしまったのかもしれません。
突出した才能の持ち主にありがちな「興味あることしか全力を出さない」タイプだったんでしょうか。
ほぼ同時期に火事で家の酒蔵が全焼してしまい、家計が傾くという割と重大な事件があったのですが、白秋は気にせず詩に熱中していたそうです。
しかも、詩が雑誌に掲載されたのをきっかけに中学を親に無断で退学し、早稲田大学の英文科に入るという、この時代にしては随分とダイナミックな親不孝をしています。
ということは、やはり上記の落第は勉強ができなかったのではなくて、ただ単にサボってたんでしょう。
官能的表現がけしからん!で発禁
20代に入ると与謝野鉄幹・晶子夫婦や石川啄木など、文学界の人々と関わるようになっていきます。
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24歳の時には初の詩集も出しました。
が、官能的な表現がけしからんということで、白秋の詩が掲載された雑誌が発禁になったりもしています。
与謝野晶子のお話のときもそんな感じでしたね。禁じればいいというものでもない気がしますが。
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その影響か、次は故郷や実家を想った詩をまとめた詩集を出し、こちらの評価が高くなったため、無事に詩人としての活動を続けていくことができました。
27歳の時には家族を東京に呼び寄せているくらいなので、そこそこまとまった収入になったのでしょう。
しかし、です。
この頃、隣家の人妻・松下俊子とアレな関係になってしまい、一時警察にしょっぴかれるという、これまた家族の立場が辛くなるようなこともしています。
当時は「夫のある女性が他の男性と関係をもつ」ことは犯罪だったからです。
とはいっても、相手の女性は別居していたので、白秋のほうが独身と勘違いしてもおかしくはないのですが。
白秋は弟たちの弁明によって釈放されたのですけれども、上京して早々こんなことに巻き込まれた弟さんカワイソス(´・ω・`)
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