庶民から天下人にまで出世した、日本史上最強の成り上がり――豊臣秀吉。
大の女好きでもある秀吉、最大の不幸は子供に恵まれなかったことでしょう。
片っ端から色んな女性に手を出しながら、「秀吉を父とする子」を産んだのは、晩年に側室になった淀殿ただ一人です。
現代の医療なら、男性側の生殖能力に問題があると判断して、海外では精子をもらって体外受精したりすることもあるケース。
歴史学者の服部英雄九大名誉教授は、その著書『河原ノ者・非人・秀吉(→amazon)』でこう断言しています。
長男の鶴松はもちろんのこと、次男・豊臣秀頼の父親も秀吉ではない――。
そんな秀頼の誕生日が文禄2年(1593年)8月3日。
戦国ファンの皆様も、そんな疑惑あるいは確信は以前からあったでしょうか。
本書をレビューしながら、秀頼の生誕に注目してみましょう。
※以下は豊臣秀吉の生涯まとめ記事となります
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実際に子を産んだのは淀殿だけ
まずは該当の部分から引用させていただきます。
『河原ノ者・非人・秀吉(→amazon)』では、いきなり「秀吉は父親ではない」とほぼ断言です。
最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロなのである。
正確な数はともかくとして、秀吉が常人に比すれば、はるかに多くの女性と愛し合うことができたことは間違いない。
けれど、こうした環境にもかかわらず、秀吉は一人の子も授からなかった。
この二人の組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのか。秘密があるとみるべきだろう。
数多くの側室がいた秀吉。
実際に子供を産んだのは浅井三姉妹の長女・淀殿だけです。
過去に他の男性との間に子供を産んだ女性も側室となっておりますが、彼女らにはその後、秀吉との間に宿した形跡はありません。
また、秀吉との離別後、別の男性との間に子供を授かった女性もおります。
淀殿との間にだけ子供が生まれるというのは極めて不自然なのですね。
となると湧いてくる疑念がありましょう。
豊臣家の跡取りであり、淀殿の息子でもある秀頼は、一体誰の子なのか?と。
※浅井三姉妹=浅井長政とお市の方の間に生まれた三人の娘(次女の初は京極高次に、三女の江は徳川秀忠に嫁いでいる)
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「家」の維持を重んじて行われた公認の浮気
かつての日本では、こうしたケースは決して稀ではなく、その際にはイベントで各家の子宝を分けあっていました。
舞台は夜祭です。
「家」の維持が大事だった昔は、祭りなどで体外受精の場を求めたのです。
いってみればダンナ公認で、浮気してしまうというわけ。神社や寺のお祭りなので、神様仏様、つまり社会の公認でもありました。
その際に、重要なのは、驚くべきことに複数と交わることでした。
再び本書から引用させていただきますと。
秀吉自身がかかわり、秀吉が命令して、生物学的には秀吉の子ではない子を、茶々に産ませた。それならば不義でも密通でもない。断罪もされない。
子ができない夫婦に、どのようにして子ができるのか。
民俗事例でいえば参籠(さんろう)がある。
参籠の場がしばしば男女交情の場になったと指摘している。
どうしても子に恵まれない夫婦にも、いよいよのときは子が授かる仕組み・可能性が民間につくられていた。
通夜参籠と同じ装置が設定された。聚楽城または大坂城の城内持仏堂が参籠堂となったか。宗教者が関与したと想定する。
宗教的陶酔をつくり出すプロは僧侶ないし陰陽師だった。
(服部前掲書)
なぜ複数と交わるのか?
それは後のトラブルを回避するためでした。
父親が特定の誰かと分かってしまうと、後に「◯◯は私の子供だ」あるいは「◯◯はアイツの子供だから私に養育義務はない」などと問題になってしまう。
そのため「複数の無名の男性」が対象になったのです。
淀君は、こうしたイベントにより、二度、(表向きは)秀吉の子を産むことになりますね。
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