しかし世の中は、人の気持ちが何かを大きく動かすのも事実。
「他者から強制されて嫌々」ではなく、自らの思いに衝き動かされて取り組んだことが社会を変えることも多々あるでしょう。
今回は、そんな女性のお話です。
明治四年(1871年)4月29日は、東京女医学校・東京女子医学専門学校の創設者である、吉岡彌生(やよい)の誕生日です。
現在は東京女子医科大学ですね。
彌生=弥生=旧暦3月ですが、4月29日は旧暦だと3月10日になるので、そこから名づけられたものと思われます。風流ですよね、こういうの。
明治初頭の女子教育、しかも医学関連というとなかなかに大変そうですが、一体どういった経緯で学校を創設するまでになったのか。
さっそく見て参りましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
済生学舎では野口英世の先輩にあたる
彌生は旧姓を鷲山といい、現在の静岡県掛川市に生まれました。
鷲山家は掛川の名家で、思想家や医師、蔵元などさまざまな分野に秀でた人が出ている家です。
彌生の実家は鷲山家の分家筋ではありましたが、父親が漢方医だったとのことなので、やはり全体的に優れた頭脳を持った血筋なんでしょうね。
当時は女子の高等教育や就業について少しずつ理解が進みはじめた頃で、彌生も18歳のときに上京。済生学舎(現・日本医科大学)に入っています。
このとき「済生学舎に女子が入学できた理由」が、後々、彌生を奮起させる理由になるのですが、それはまた後ほど。
済生学舎には後に野口英世も通っていましたので、彌生は野口の先輩ということになります。
所属していた年は重なっていないため、お互いに知っていたかどうかはビミョーなところです。
ドイツ語を習うための私塾で吉岡荒太と出会う
地道に学び、21歳のときめでたく試験に合格。
晴れて医師免許を取得した彌生は、一度地元に帰って父とともに仕事をしていました。
これは私見ですが、彌生の父・養斎は、
「これからは西洋医学も重視せねばならん。そのほうが患者のためになる」
といったようなことを考えて、娘の知識や技術を取り入れようとしたのではないでしょうか。
三年ほど地元で診察をした後、彌生は再び上京します。
別にお父さんと仲違いしたわけではなく、ドイツ留学のためドイツ語を学ぼうと考えたのです。
東京で開業し、昼間は診察をしてお金を稼ぎながら、ドイツ語を教える私塾で勉強。
同時期に女学校にも通っています。
彼女は旧制小学校から直接済生学舎に進んだため、女子教育の現場を知らなかったからだと思われます。
もしかしたら、このあたりから将来は女子教育に携わりたいと考えていたのかもしれません。
さらに、二回目の上京と同じ年の秋に、ドイツ語を習いに行っていた私塾の院長である吉岡荒太(あらた)と結婚しています。
院長先生というと何となくお年寄りを想像しますけれども、荒太は彌生より4歳年上。
彼もまた医学の道を志して、地元の佐賀から上京していたのですが、学問のため後からやって来た弟二人と自分の生活を切り盛りすべく、医師を諦めて私塾を開いていたのだとか。
「縁は異なもの味なもの」といいます。
もしどれかひとつでも違っていたら、彼らが夫婦にならなかったばかりでなく、彌生が大学を作ることはできず、女性の医師が増えるのももっと遅くなっていたのかもしれませんね。
※続きは【次のページへ】をclick!