天正十年(1582年)5月28日、愛宕山連歌会が開かれました。
そこで詠まれた連歌が「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」と呼ばれ、明智光秀が本能寺の変前に、その本心を語っていた――なんて歴史ミステリーではたびたび話題になります。
「ときは今 あめが下知る 五月かな」というやつですね。
大河ドラマ『麒麟がくる』では触れられず、『どうする家康』では高々と声にしていましたが、光秀は本当に謀反の心境を読みたかったのか?
万が一、バレたらどうすんのよ?
そんな疑問を解消するため、本稿では歌と同時に、愛宕山連歌会や当時の様子を時系列順に見ていきましょう。
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家康の接待役を外され、秀吉の援軍へ
愛宕山連歌会が開かれた当時の光秀は、徳川家康の接待役から外され、豊臣秀吉の援軍に向かうことになっていました。
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「中国攻めがなかなか進まないので、援軍をいただけるとありがたいのですが(´・ω・`)」(※イメージです)という要望が秀吉から織田信長へ届けられ、その先鋒という形で光秀が出陣を命じられたのですね。
そこで安土城からいったん居城の丹波亀山城(現・京都府亀岡市)へ帰陣。
新たに兵を整えると、そのまま中国地方へ出発するのではなく、5月27日、近所の愛宕神社に登りました。
愛宕神社は軍神として武家に信仰されており、光秀もまた自らの武運を祈願するために訪問したのです。
そしてその翌日、連歌師の里村紹巴たちと連歌会を開きました。
「ときは今 あめが下知る 五月かな」
連歌会は当時の社交習慣として行われていたものです。
ゆえに、それだけなら特筆すべきことはありません。
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問題は、ここで光秀が詠んだ歌です。
連歌なので、正しくは発句ですね。
発句とは、連歌の始めの【五・七・五】のこと。つまり歌の方向性を決める大切な役目でもあります。
このとき光秀の詠んだ発句が、有名なこちらです。
「ときは今 あめが下知る 五月(さつき)かな」
現代ではこんな風に解釈されたりします。
「とき」→「土岐氏=光秀の出身」
「あめ」→「天=天下」
「下知る」→「命令」
要は、土岐氏出身の明智光秀が「天下」に向かって命令をくだす=「ワシが天下人になる!」ということ。
つまりは信長に代わって天下人となる「謀反の予告」ということで有名になったのです。しかし……。
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