慶長五年(1600年)10月3日は、長束正家(なつかまさいえ)が切腹した日です。
関ヶ原の戦いで西軍についていた豊臣五奉行の一人ですね。
【豊臣五奉行】
浅野長政
石田三成
増田長盛
長束正家
前田玄以
と言っても、西軍で五奉行となると、やはり石田三成の存在感がデカすぎて、他のメンバーが霞がち。
特に長束正家なんかは、下手すりゃ三成配下の島左近より印象が薄いかもしれません。
むろん、だからといって能力が低いワケじゃありません。
むしろ高いからこそトップ官吏の五奉行にも名を連ねるのであり、実際、長束正家も若かりし頃からその才能は注目されておりました。

早速、その生涯を振り返ってみましょう。
丹羽家に仕えていた長束正家 秀吉に気に入られ
長束正家は永禄五年(1562年)、近江あるいは尾張で生まれました。
いきなりあやふやですが、確たる記録がありません。生まれた時点では、あまり高い身分でなかったということがわかりますね。
はじめは織田家の「米五郎左」こと丹羽長秀に仕え、本能寺の変後、秀吉から特に算術の才能を見込まれて豊臣家に移ります。
この時の経緯が正家の性格をよく表している気がします。

丹羽長秀/wikipediaより引用
実は長秀が亡くなった後、丹羽家でお金の問題が持ち上がったことがありました。
秀吉は「何かヤバイことしてたんだって? 潰す前に、言い訳があるなら聞くよ^^」(※イメージです)という態度を取りました。
正家は丹羽家で銭勘定を任されており、帳簿をきちんとつけていたので、それを提出して秀吉の疑いを解きます。確定申告みたいですね。
結局、丹羽家の領地は減らされてしまうのですが……。
天下人になったからには、一人でも多くの有能な家臣が欲しい秀吉。
さっそく正家に目をつけ、
「ウチに来てほしいんだけどどうよ? 給料はずむよ」(※イメージです)
と誘いました。
正家はまだ14歳の主・丹羽長重が心配でしたが、最終的には秀吉に仕えることを選びます。
秀吉からの圧も強く、状況的に「選ばざるを得なかった」というほうが正しいかもしれません。
小田原遠征では20万石を滞りなく差配
根が真面目な正家は、くさくさせずに仕事をします。
太閤検地や豊臣家の直轄地の管理など。
お財布面から秀吉を支える立場であり、この手の仕事が三成だけというイメージでしたが、決して一人ではなかったことがわかりますね。
九州征伐、および小田原征伐では兵糧輸送を担当しました。
小田原のときは、20万石もの米を順調に送り届けています。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)
こうした兵站は非常に重要で、特に大軍の場合は消費量もハンパじゃないので命がけ。十分な才能と言えるでしょう。
一方で、正家本人の武働きは目立ちませんが、家臣の何人かが忍城(おしじょう/現・埼玉県行田市)攻めで武功を挙げました。
特に弟の長束直吉は秀吉の目に留まり、直参に取り立てられるほど。
長束正家は、朝鮮の役でも兵糧奉行を務めています。
これも三成とかぶってますね。
だからこそ正家の知名度が上がらないんでしょうか……(´・ω・`)
忠勝の妹を正室に迎えている
文禄・慶長の役(1592~1598年)では、特筆すべきエピソードはありませんが、三成と協力して仕事をしていたのかもしれませんね。
そして、同じ仕事をしているはずなのに周囲からの好感度の差は何たることや。
話が前後しますが、九州征伐の年(1586~1587年)、長束正家は本多忠勝の妹・栄子を正室に迎えました。

本多忠勝/wikipediaより引用
三年後には長男が生まれていますので、夫婦仲はそこそこ良かったのではないでしょうか。
おそらくは、徳川家との関係を良くしておきたいという秀吉の方針でしょう。
秀忠が人質としてやってきたときには、正家が出迎えを務めるだけでなく、外交役も任されておりますので、かなり人当たりのいい性格だったのかもしれません。
また、正家は内政にも関心を持っていました。
文禄の役と慶長の役の間に、豊臣秀次に相談の上で豊後(現・大分県)の荒れた農村を再建すべく、手を講じています。
いろいろと細かいところに気が回る人っぽい感じがしますね。
関ヶ原では東端に位置しすぎてどうにもならんかと
このように地道な仕事を積み重ねた結果、長束正家は、秀吉に認められて近江水口城五万石を賜りました。
二年後には12万石に加増され、領内の寺を保護したり、蒲生家の浪人を召し抱えたりもしています(蒲生秀行の代で蒲生騒動が起き、92万石→18万石の大幅減封となっていた)。
本人が意識していたかどうかはわかりませんが、関ヶ原の戦い前【会津征伐(上杉征伐)】の頃からやや西軍よりの行動を見せ始め、徳川家康には警戒されています。
正家はともかく、
「正家の息子と家臣が水口城で家康暗殺を企てている」
という噂が立ち、家康は水口城には立ち寄らずに東へ抜けました。
武働きや計略はさほど得意ではない(と思われる)正家ですが、関ヶ原の前哨戦である【伏見城の戦い】や、【安濃津城の戦い】では成果を上げています。

『洛中洛外図』徳川時代の伏見城/wikipediaより引用
伊勢では、家康の本隊と東軍の小規模な船団を間違えて退却する――そんな、うっかりすぎるミスもしています。
このころ家康はまだ江戸を出てすらおりませんので、なぜ勘違いしたんですかね。
いくら情報の伝達速度が現在とは比べものにならないとはいえ、ここはちょっと疑問符がつきます。
そして関ヶ原の戦い本戦へ。
島津の退き口実行中の義弘に道案内をつけたとか
正家の布陣場所は、東端の毛利軍のさらに東という極端な場所でした。
以下の地図をご参照ください(右端にいる)。

関ヶ原の戦い布陣/photo by Jimho wikipediaより引用
この布陣図は江戸時代の二次史料などをベースに作成されたもので鵜呑みにはできませんが、長束軍が極端な配置であったことはおそらく間違いないのでしょう。
戦場全体から見ても東の端にあたり、毛利軍の長すぎるランチタイム(「宰相殿の空弁当」)によって、他の友軍との連携ができないまま、撤退を余儀なくされます。
戦いそのものは正家にとって不完全燃焼だったはずです。
が、このとき彼の性格がうかがえそうな逸話があります。
水口城への帰り道で島津義弘隊と出会ったとき、正家が「このあたりには不慣れだろうから」と配慮して、自分の家臣を案内役につけたのだとか。

島津義弘/wikipediaより引用
真偽のほどはわかりませんが、彼が日頃細かいことによく気がつく性格だったからこそ、このような話ができた可能性は感じます。
島津隊は無事に薩摩へ帰る一方、正家は水口城の直前で弟を失ってしまいました。
正家自身も、一度は入場できたものの、東軍にだまされて縄を受け、切腹させられてしまいます。
このとき、介錯を担当した家臣について、東軍の武将に「あいつは忠義者だから殉死しようとするだろうが、止めてやってくれ」とお願いしたとか。
こういう思いやりのある性格や、後方支援のうまさが、多方面で重用された理由でしょうね。
もしも正家が徹底抗戦派して大坂城に入っていたら、相当のスピードで兵糧の確保をやってのけた気がします。
三成よりも人当たりが良いと思われる正家にそうされると、家康としては非常に面倒なことになったのではないでしょうか。
有能な敵が、味方に付かないならば、さっさと始末するに限る――徳川家康もそう思ったはずです。
生き残った三男は徳川家光に気に入られたとか
正家には少なくとも男児が三人おり、長男・長束助信は妻の実家や、その縁戚にあたる細川家に匿われました。
細川家が小倉藩に行ってからは家臣として仕え、「田中半左衛門」と名を改めて家を存続させています。
関ヶ原の後に生まれた末っ子は、生まれてすぐに母(正家の正室)にも死に別れ、家臣の山本浅右衛門に育てられました。
その後、かつて長束正家が保護していた水口城下の大徳寺というお寺に入り、後に住職を継いで還誉岌閑(げんよきゅうかん)と名乗っています。
隣に栄照寺というお寺を新しくを建てて、両親の冥福を祈ったとか。
顔を知らない親を弔うとは、何とも切なく健気な話です。
それが気に入られたのか。
三代将軍・徳川家光がたびたび岌閑の元を訪れ、一筆書いてやったり、いろいろな物を贈ったりしたとか。

徳川家光/wikipediaより引用
家光というと「武辺話が好き」というイメージですが、そういう優しい面もあったんですね。そこが徳川家綱に遺伝したんでしょうか。
長束正家には、この他にもう一人男児がいたようですが、生没年不詳の上どこにいたのかはっきりしていません。
どこぞで子孫を残し、そして穏やかに子孫繁栄していればいいのですが……。
なお、関ヶ原敗戦直後の石田三成や石田家の悲劇については以下の記事をご参照ください。
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【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
長束正家/wikipedia
本多栄子/滋賀・びわ湖観光情報(→link)





