敗戦直後、吉田茂の側近・白洲次郎が言ったとされる言葉の一つです。
「敗者になったというだけで、相手から見下されるいわれはない」ということを、白洲なりに表現したものでしょう。
しかし、戦後しばらく(今も?)日本人は、欧米に対して異様に下手に出ていました。
本日はそういう時代に「西洋何するものぞ」と抵抗してみせた、痛快な一件のお話です。
昭和二十八年(1953年)10月29日は、日章丸事件に関する裁判の提訴がとりやめられた日です。
何だかややこしそうなぬ話ですが、これは当時の国内や世界の世情が大きく絡んだ事件でした。
この事件をモデルにした小説『海賊とよばれた男』が映画化されましたね。
一体どんな事件だったのか。
振り返ってみましょう。
英国の横暴に対しイランは石油国有化を宣言す
当時の日本は、まだまだGHQの占領から解放されたばかり。
経済発展のためには、上から下までありとあらゆる手段を講じなければなりませんが、同時に外国からは「敗戦国のくせに」という見方をされていますので、どうにかこうにか波風を立てないようにやりくりをする必要がありました。
発展のために必要なものの中で、日本国内ではどうしても需要を満たせないものがあります。
現在も経済の一角を担うもの。
それは石油。
日本国内にも油田があるにはありますが、需要に対してとても産出量が追いつきません。
当然、どこかから輸入しないといけないわけですね。
そして石油や油田といえば中東ですよね。「アラブの石油王」なんて俗語もありますし。
しかし、当時の中東、特にイランの油田はイギリス資本が介入しており、勝手に石油を売ることができませんでした。
イランにしてみれば「金のなる木が我が家にあるのに、よそ者が見張りをしていて実が取れない」という状態です。「ぐぬぬ」どころではありません。
そこでイラン政府は、国民を養うため、1951年に自国内の石油を国有化することを宣言しました。
これに対し、今までウマい汁を吸っていたイギリスは当然断固拒否。
「そっちがその気なら、イランまで石油を買いに来る船(タンカー)は全部沈めてやんよ!」(意訳)という横暴にも程がある表明をします。
よその財産で金儲けした挙句に脅迫とか、ジャイアンもびっくりなレベルですね。
そもそも油田の周辺でドンパチをおっぱじめたら、引火して自分たちも吹っ飛びそうな気がするんですが……その辺は気にしてなかったんですかね。
こっそりタンカーを送るから、石油を売ってね
この動きはイランの油田付近の地名を取って「アーバーダーン危機」と呼ばれ、「マジで戦争になるかも……」と、世界中が固唾を呑むことになります。
これに対し、日本のとある企業家が疑問を抱きました。
「イギリスの言い分はおかしい。国際法に照らし合わせても、正当な主張ではない」
出光興産社長・出光佐三でした。
おそらく同じように考えていた人は他にもいたでしょうが、この社長ときたら行動の速さが違います。
「ウチのタンカーをこっそりイランに派遣して、直接石油を買ってこよう! そうすれば日本人もイラン人もお互いにいい商売ができてみんな助かるよね! でも日本とイギリスの間で揉め事になるとマズイから、こっそりやろうね!」(超略)
なんて大胆にも程がある計画を立て、交渉のために自分の会社の専務をイランに派遣し、お偉いさんと交渉をさせたのです。
出光氏は明治生まれで、終戦時は一人も従業員をクビにせず、仕事が見つからなくても「しばらく寝て待っておれ」と言うような、豪放磊落な人物でした。
そういう人じゃなきゃ、こんなことは思いつかないでしょうねぇ。そして、そういう態度が日頃から会社幹部や従業員にも信頼されていたからこそ、実行に移せたのでしょう。
当然、イラン側はいろんな意味でびっくり仰天しました。
第二次世界大戦後は影響力を弱めたとはいえ、まだまだ幅を利かせているイギリスの目をかいくぐることができるのか?
バレたとき、自国にどんな災難が降りかかるか?
そもそも、この前敗戦したばかりの国の、小さな企業を信用していいのか?
こういったさまざまな疑問が渦巻いたことでしょう。
交渉は難航しましたが、あらゆる方面からの対策を慎重に行った結果、ついに合意がなされ、タンカー派遣が決定します。
この時使われたタンカーの名前が「日章丸」です。
英国にバレ、世界のマスコミにバレ、そしてアメリカは?
派遣に際しては、航路の偽装など、現代なら間違いなくアウトなこともやっていますので、出光もイラン側もさぞハラハラしたことでしょう。
幸い、日章丸は約2週間ほどで無事イランに到着。
しかし、同時に世界中のマスコミにバレました。
「敗戦国のアホが、世界第二の海軍国イギリスにケンカを売った」
そんな風に報じるメディアもあったそうです。
ともかく、船がイランに着いてしまえばこっちのもの。
5日間ほどで急いで石油を積み、日章丸は帰国の途につきます。
そして浅瀬や機雷、イギリス海軍の警備をかいくぐって、無事日本へ戻ってくることができました。
もちろん、これだけでは終わりません。
イギリスの石油会社は「ウチの石油を盗んだあの会社を訴えてやる!」と裁判を起こし、日本政府にも「あのナメた奴らを処分してくれますよね?^^” ^^” ^^”」(超訳)という圧力をかけました。
やってることがどう見ても海賊です、本当にありがとうございました。
イギリスとしては「前からウチが権利を主張してるんだから、これでウチの勝ちだな!」と思っていたのでしょう。
ここで日本に思わぬ味方が現れます。
なんとアメリカがこの件に対し、日本を積極的に非難しなかったのです。
石油の自由貿易が始まるキッカケに……
すでに占領期間は終わっていたとはいえ、GHQの主体はアメリカでしたから、イギリスは当然「米国も日本を批難するだろう」と思っていたでしょう。
そうならなかったのは、アメリカにとってもイギリス資本が石油を独占している状況が面白くなかったからです。
アメリカは言わずと知れた大国ですから、もちろん石油をたくさん使います。
ということは、石油を必要とすればするだけ、イギリスに首根っこを押さえられているも同然なわけです。そんなのイヤに決まってますよね。
世論の後押しもあり、裁判でも出光に好意的な判決が出て、イギリス資本の言い分は却下されました。
それでもしつこく控訴をしましたが、10月になって諦めがついたらしく、提訴を取り下げた……というわけです。
出光氏は福岡出身だそうです。
なので「九州男児がイギリスに一矢報いて認めさせた」という意味では、薩英戦争を連想……しませんね、スミマセン。
何はともあれ、この一件により、イギリスはイランの石油に対してつべこべ言えなくなり、石油の自由貿易が始まるきっかけになりました。それによってまた新たな揉め事が出てきてしまうわけですが……まあその辺は別の話ということで。
ちなみに、第二次世界大戦中は日本とイランは断交していて、日章丸事件の翌月(1953年11月)に国交を再開させています。
イランが日章丸事件について好意的に見てくれたから……かもしれませんね。
核問題を抱えたイランは、アメリカとの関係も含めて何かと微妙なポジションではありますが、日本との文化面での交流は盛んですし、良い関係を保ちたいものです。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『海賊とよばれた男 文庫 (上)(下)セット(講談社)』(→amazon)
日章丸事件/Wikipedia
出光
前坂俊之アーカイブス
イラン・イスラム共和国/外務省