世の中なんでもデカけりゃいい――ってもんではなく、例えば国の大きさと歴史の長さなんかはその一例のような気もします。
国土面積の上位はロシア・カナダ・中国・アメリカですが、このうち千年単位の歴史を持つのは中国だけですしね。内部の王朝の変わり方や民族の変化を考えると、それもビミョーなところであり……。
逆に言えば小さい国だからって歴史が浅いとも限らないわけで、その例で思い出すのがヴァチカン市国に次いで面積の小さなあの国です。
1297年(日本では鎌倉時代・永仁五年)1月8日は、モナコが独立したとされる日です。
経緯からすると実はビミョーに違うんじゃないかという気もするのですが、まあ細かいことは気にせず、同国の歴史を見ていきましょう。
ギリシャ語のMonoikos(一軒家)が語源となった
「モナコ」という国名は、ギリシア語の「Monoikos」からきています。
これは「一軒家」という意味です。
ギリシア神話の中に「ヘラクレスがこの辺にいた神々を追い出したので記念に神殿を建てた」という割と身も蓋もない話があり、そのうちこの神殿が「一軒家」と呼ばれるようになったことからついた名前なんだとか。
当時、このあたりで目立つ建物がその神殿しかなかったのでしょうね。
その後、時代が下り、当初はローマ帝国、そして分裂した後は西ローマ帝国の一部となりました。
さらに東ローマ帝国によって西ローマ帝国が滅んだ後、他のイタリア各所同様、しばらく放置されたと思われます。めぼしい記録がないんです(´・ω・`)
現在のモナコの原型となる都市が作られたのは、さらに時間が経った1228年ごろ。この時期、モナコ周辺は神聖ローマ帝国皇帝からジェノヴァ共和国に与えられていました。
ドイツを中心とする神聖ローマ帝国が、なぜこの地の去就を決めるのかというと、神聖ローマ帝国皇帝が「ローマ帝国の正当な後継者」を名乗っていたからです。
これをローマ教皇が認め、神聖ローマ帝国はイタリアにも影響力を持っていました。
一方、ジェノヴァ共和国は当時、地中海貿易の覇権を巡って、ヴェネツィアやピサといった他の港湾都市と相争っていました。
さらに、神聖ローマ帝国とローマ教皇の対立も起きています。ケンカしすぎ。
こんな感じで、モナコは東vs西、北vs南という二つの対立の渦中にあったといえるでしょう。
そして1297年のこの日、ジェノヴァ出身のフランソワ・グリマルディという教皇派の人物が、聖職者に扮してモナコに築かれていた要塞に潜入し、占拠するという事件が起きました。
これがモナコという国の始まりとされ、建国記念日となったわけです。
しかし、フランソワはその後数年でモナコを追われたため、統治はしていません。
その後1309年にフランソワの従弟・レーニエ1世がモナコを統治したため、「最初にモナコに入った同じ家の人」としてフランソワが家祖ということになっているのです。
建国から現在までグリマルディ家が大公を務めている
レーニエ1世の後、モナコは現代までずっと同じグリマルディ家が大公を務めています。
日本でいえば、元寇が終わって鎌倉幕府が怪しい感じになってきた頃から、同じ家が王様をやっているような感じですから、一つの王朝としてみると屈指の長さですよね。
ジェノヴァ共和国はその後スペインの支配下に置かれましたが、グリマルディ家はモナコの土地を購入し、名実ともに正式な支配者となりました。金の力で何とかする方針が既にこの時代からゲフンゲフン。
17世紀にはフランス王ルイ13世の保護下に入り、フランス王家の家臣となります。
モナコ大公は王政時代にはフランス宮廷で高い地位につくことができましたが、それだけにフランス革命の影響も少なからず受けました。
1793年にモナコは革命軍に占領され、ナポレオン時代を挟んで1814年にグリマルディ家が復活。モナコも激動の近代に入っていきます。
ナポレオン戦争の後始末であるウィーン会議で、モナコはサルデーニャ王国の保護下に入りました。
サルデーニャ王国は後々イタリア統一運動(リソルジメント)の中心となる国です。これがモナコにとっては幸にも不幸にもなりました。
というのも、サルデーニャ王国は国内統一を後押ししてもらうために、フランスへ「統一を手伝ってくれたら、モナコとニースとサヴォワあげるよ!」(意訳)と言ってしまったのです。
さらに、当時はモナコの一部だったマントンやロクブリュヌ(両方ともモナコの西にある町)が「モナコ税金高すぎバロス。フランス領になったほうがまだマシ」(※イメージです)と言いだしました。
ですが、モナコ大公はめげません。むしろこれを好機とみなし、「マントンとロクブリュヌあげるから、ウチの主権返して」(※イメージです)とフランスにもちかけ、見事主権を回復させるのです。
こうしてフランスとイタリアの間を行ったり来たりした後、最終的にフランスの影響を多く受ける立場が固まります。
エルメスのバッグでおなじみの女優が結婚
第一次世界大戦時には大公の跡継ぎがフランス軍に志願して功績を挙げ、将軍になっていました。
戦後にはフランス・モナコ保護友好条約が締結。これはモナコ大公の候補者(グリマルディ家の跡継ぎ)がいなくなった場合にどうするか、という取り決めで、2002年に更新されました。
新しいほうでは「モナコ大公の継承者が断絶した場合は、モナコはフランスの保護国となる」となっています。
そして戦間期に、モナコは現在のような文化と観光で国を立てていく方針を固めました。今日でも有名なモナコ・グランプリはこの頃に始められたものです。
第二次世界大戦ではイタリア軍やドイツ軍に占領され、ファシストによる支配やユダヤ人迫害なども行われたといいます。
近年では、やはり先代のモナコ大公・レーニエ3世がハリウッド女優グレース・ケリーと結婚したのが最大のニュースでしょうか。
その陰で、1962年に新憲法の制定が行われています。
死刑廃止はヨーロッパの国らしいといえば国らしいですが、このときまで女性参政権や最高裁判所がなかったというのは逆に驚きですね。
まあ、モナコ市民になるための条件からして、現在でも結構差別的というかなんというか……。治安維持のため、というのもあるのですが。
世界の人権団体は、なぜ日本の死刑や女性関連にはうんぬんかんぬん言うくせに、モナコの国籍法にはツッコまないんでしょうか。
なお日本との関係は2006年に外交関係を樹立したばかりなので、まだまだこれからというところです。
現在のモナコ大公アルベール2世は柔道で初段をとってらっしゃいますから、そのうちスポーツ関連での交流が多くなる……かもしれませんね。某大統領みたいに。
長月 七紀・記
【参考】
モナコ/Wikipedia
フランソワ・グリマルディ/Wikipedia
Franco-Monégasque_Treaties/Wikipedia
外務省
モナコ日本庭園/Wikipedia