東海であれば桶狭間の戦い。
中国だと厳島の戦い。
東北では人取橋の戦いですかね。
関東は、秀吉の小田原征伐まで群雄割拠でしたが、一つ挙げるとすれば河越城の戦いあたりでしょうか。
そして九州では?
天正六年(1578年)11月12日に【耳川の戦い】が決着しました。
場所は現在の宮崎県中央部にあたり、当時、九州で大勢力だった大友軍と島津軍が真正面からぶつかったのです。
凄まじい激戦は、薩摩隼人たち島津勢の勝利で終わりますが、この合戦は単純に結果だけでなく、勝利に至るまでの経過もかなり見どころがあります。
さっそく振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
中央では謙信亡くなり織田家が優位
まずは当時の中央情勢から確認させていただきますね。
天正六年(1578年)は上杉謙信が亡くなった年です。
上杉家は跡取りを決めてなかったことから上杉景勝と上杉景虎によるお家騒動の【御館の乱】が勃発。
北条と上杉の間に立たされた武田勝頼が、外交判断ミスとも言える対応で北条を怒らせてしまい、滅亡へのキッカケを歩んでしまった年とも言えます。
一方で謙信の死は、北陸方面にも劇的な変化をもたらしました。
前年の1577年、織田家の柴田勝家が【手取川の戦い】で謙信にフルボッコにされ、北陸戦線で危機を迎えていたのですが、その矢先に謙信が亡くなり、プレッシャーが一気に激減。
要は、織田家が圧倒的有利な状況に躍り出たのです。
では【耳川の戦い】があった九州はどうだったのか?
一言で言えば三国志状態です。
薩摩の(鬼)島津、長崎近辺で成り上がった龍造寺、そして九州北部の名門・大友の三つ巴で覇権を競っていたのですね。
この他の勢力は、上記三家のいずれかに属するなどして存続を図っていて、そもそも【耳川の戦い】のキッカケも宮崎県の伊東氏が大友家へ助けを求めたことから始まりました。
伊東家に頼られた宗麟 キリスト教の楽園へ
当時の伊東家は、南からやってきた島津家に領地の半分を奪われてしまった状況。
そこで北にある大友家へ助けを求めます。
その条件が「取り返していただければ、アナタに領地を半分差し上げます!」というもので、家臣になるも同然の内容でした。
竜造寺家に突っつかれて、あちこちの領地を失っていた大友家の当主・大友宗麟は、好機とばかりにこれを受け入れます。
ここだけだと一見「宗麟いい奴じゃん」なんて思えますが、彼には彼で黒い思惑があったのです。
当時、宗麟はキリスト教にどっぷり漬かっていて、
「キリスト教徒の楽園を作ろう!」
なんてお花畑計画を実行しようとしていました。
そこへわざわざ土地を提供してくれる人が出てきたのですから、これは話に乗らなきゃ損というわけです。
しかし、いくら主君が「デウス万歳!」でも、家臣全員がキリスト教徒というわけではありません。
そのため、このアホな出兵に嫌々参加している武将もいました。
士気はイマイチですし、武将同士の仲もこじれる。これが大友軍の命取りになってしまい……。
何より相手は鬼の島津軍です。
このコワモテ軍団が絶好調の時期であり、大友家が万全の体制で臨んだってそう簡単には勝たせてくれない相手でした。
「国崩し」と呼ばれた最新兵器フランキ砲!
大友軍はまず取られた高城(たかじょう)を奪い返すため、周りを取り囲みました。
といってもこの高城という城は三方を崖に囲まれたところで、唯一空いていた西側は掘が設けられているという鉄壁ぶり。
遠巻きに布陣するしか方法がありません。
敵が打って出てくるのを待って攻めようというわけです。
しかし、敵もノコノコ出てくるほど馬鹿なワケはありません。
兵糧や武器など、篭城に必要な物資・準備が整っていたとすれば、攻め手側の苦戦は必至。
そこで大友軍が引っ張り出してきたのが、当時最新の兵器【国崩し】でした。
キリスト教の宣教師が持ってきた【フランキ砲】というタイプの大砲です。
発射音が異様にでかく、破壊力が凄まじかったことに感動した宗麟が
「こいつなら敵の国を丸ごとぶっ潰せるぜヒャッフー!!」
とハイテンションで命名したといわれています。
とはいえ家臣からは「使い方よくわからないし、高かったし、ウチの国も崩されなきゃいいけど……」なんて皮肉られていたそうで。
※続きは【次のページへ】をclick!