歴史の授業で誰もが最初に習う日本の外交政策は、やっぱり「遣隋使」でありましょう。
600年から614年に渡って計6回。
日本側の記録ですと607年の小野妹子から計5回となりますが、随の倭国伝にその記述があり、「えっ、妹子が最初じゃないんかーい!」と軽くサプライズですね。
んで、その後はどうなったのか?
618年に随が滅びて、次に「遣唐使」となるのは皆さんご存知だと思われますが、意外にも随が滅びた割とスグの630年に送られております。
犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)という、日本史受験ではそこそこメジャーな方。
興味深いのは8世紀に入ってから。そのトップバッターは、701年の粟田真人さんでありました。
第11話、スタート!!!
いったん海に出れば到着まで気の休まるところがない「遣唐使」。
630年から数えて8度目となる一団を率いていたのが粟田真人さんでした。618年に随が滅びて、中国は唐王朝に突入していたんすね。
なお「執節使」という役割は「大使」よりも格上であり。あまり知られてないかもしれません。この機会にゼヒ!
粟田真人さんの渡航(701年)は、いったん延期となりましたが、翌702年に高橋さんはその任から外されます。
中国王朝ってほんっとややこしい!
受験で世界史を選択する人はホント大変かと思われますが、唐王朝の合間に史上初の女性皇帝となった武則天さんは「周」王朝を樹立し、後にまた唐に戻ります。
唐(周)の都を見た粟田真人はビックリ仰天!
藤原京は都の中心に宮殿が置かれておりましたが、長安では北端に――と、こうした都市計画の仕組みだけでなく、律令とそれを補佐するための格式など、色々と学んで帰国するのでした。
それはもちろん日本でも活かされます。
かなり後のことになりますが「延喜式」なんかはその一つですね。
歴史はまさに連綿と繋がっているのでありました。
著者:アニィたかはし
武将ジャパンで新感覚の戦国武将を描いた『戦国ブギウギ』を連載。
従来の歴史マンガでは見られない角度やキャラ設定で、日本史の中に斬新すぎる空気を送り続けている。間もなく爆発予感の描き手である(編集部評)