幕末・維新

東北最強のイケメン名将・酒井了恒~戊辰戦争では「鬼玄蕃」と恐れられ

源平時代の源義経

戦国時代に姫若子と呼ばれた長宗我部元親

容姿端麗、イケメンにして戦上手な武将は、いつの時代も際立って畏敬の念を持たれますが、幕末維新の頃にも東北にそんな美丈夫がおりました。

庄内藩の酒井了恒(のりつね)――。

薩摩の剣豪・大山綱良をして「おなごのようなよか稚児」と言わしめた優しげな外見に反し、新政府軍との戦いでは連戦連勝を重ねて「鬼玄蕃」として恐れられた武士(もののふ)

戦にめっぽう強く、見た目は中性的な美青年でありながら、さらには人格も高潔という、まるでマンガのチートキャラです。

もし彼が新政府サイドで活躍していれば、その後の史実は、坂本龍馬勝海舟、あるいは西郷隆盛すら凌駕する人気だったかもしれません。

何もかもが美しき敗者・酒井了恒(酒井玄蕃)。

知られざるその生涯を追ってみました――。

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鬼かと思えばよかちごじゃった!

『西郷どん』で、北村有起哉さんが演じている大山綱良(大山格之助)。

戊辰戦争で出羽方面(東北の日本海側)を転戦し、戦果はいまひとつ冴えないものでした。

なぜならその行く手に庄内藩が立ちはだかったからです。

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庄内藩は名将・酒井了恒(さかい のりつね)以下、高い士気を誇っていました。

彼のあまりの強さ、大胆不敵さに、いつしか敵は彼を“鬼玄蕃”と呼び始めたほどです。

「また鬼玄蕃にやられたか!」

味方の敗走報告を聞くたび、おそらく大山は苛立ったことでしょう。

戊辰戦争が終結した維新後の東京。

かつての宿敵“鬼玄蕃”と対峙した大山は、思わず目を丸くして言いました。

「容貌かくも温和で、おなごのようなよか稚児じゃったとは……」

そう。
目の前にいたのは、まるで女性のようにほっそりとしていて美しい、そんな青年だったのです。

美青年という意味の“よかにせ(若者)”ではなく、美少年を意味する“よか稚児”というフレーズを使ってしまったところに、大山の「好みのタイプじゃ!」という本音が出ている気がします。

では庄内藩とは一体どんな存在だったのか?

幕末では如何なる役割を果たしたか?

本稿の主役・酒井了恒の前に少し触れておきたいと思います。

 

海坂藩のモデルとなった庄内藩

現在の山形県庄内地方にあった庄内藩は、藤沢周平の時代小説の舞台となる「海坂藩」のモデルとして有名です。

統治したのは酒井家。

あの徳川四天王の一人・酒井忠次を祖とする御家です。

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しかし元々、置賜(おきたま)地方をのぞく山形県は、最上義光の最上家が支配する57万石の大藩でした。

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それが江戸時代初期のころの最上騒動がもとで同藩が改易(1622年)に追い込まれ、領地が4つに分けられると、そのうちの一つが庄内藩(約14万石)として、酒井家に受け継がれていきました。

最上義光による善政が行き届いていたためか。

当時からこの地方は色々と恵まれていました。

例えば「北楯大堰」による農業生産の増大です(以下の関連記事に詳細)。

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夕暮れの庄内平野と最上川

農業面だけでなく商業面でも以下のように恵まれておりました。

・紅花栽培によってもたらされる「のこぎり商法」の恩恵(往路で紅花を売り、復路は西日本で仕入れた品物を売ること/押しても引いても利益が出ることから“のこぎり”と呼ばれました)

・最上川開削による船運発達

・東日本最大の港「酒田港」による貿易促進

村山地方は藩主交替が安定しなかった中、庄内藩は家臣領民一丸となって信頼関係を持つ、比較的統治が安定した藩であったのです。

山形県には、古い由緒ある、そしてとても豪華な雛人形がたくさん残されています。

これも、紅花貿易による豊かな暮らしの名残です。

※同じ山形県でも、置賜地方は全国的にも財政難で有名な米沢藩でした

 

幕末庄内藩の受難

幕末において悲運の藩といえば、会津藩が真っ先に思い浮かぶかでしょう。

しかし庄内藩も、当時は会津藩と並んで敵意を集めるほど、追い詰められています。

会津藩が憎悪をぶつけられた一因として、お抱えの新選組が京都警備の際、倒幕派相手に猛威を振るったことがあげられます。

新選組の母体となった浪士組は、その大半が江戸へと引き揚げました。

そして彼らは【庄内藩御預かり】となり、江戸の警護を担当したのです。

文久3年(1863年)から、庄内藩は江戸市中の警備しておりました。

のちに西軍から憎悪をぶつけられることになる会津藩と庄内藩。

江戸はじめ東日本では、悪から市民を守る力強い存在でした。

それは

【京で肥後様(松平容保)、江戸で酒井様、どちら梅やら桜やら】

と、花に譬えられたほどの人気ぶり。

物騒な事件が頻発する京都と比べ、当時の江戸は治安が守られておりました。

しかし、慶応3年(1867年)の終わりから状況が変化します。

相楽総三、益満休之助ら、西郷の密命を帯びた者たちが暗躍しだしたのです。

殺人、強奪、暴行……現代でいうならばテロリズムと呼べる、そんな悪事をはたらいた彼らは、薩摩屋敷へと姿を消しました。

薩摩御用盗――江戸の人々は彼らをそう呼び、ふるえあがります。

しかし、それこそ一派の狙い。

彼らの目的は武力衝突を誘発するため、挑発行為を繰り返したのでした。

そして庄内藩も、ついに堪忍袋の緒が切れます。

慶応3年12月25日(1868年1月19日)、彼らは薩摩藩邸に乗り込み、焼き討ちにしたのです。

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戊辰戦争への幕は、こうして切って落とされたのですから、庄内藩が敵意を向けられないはずがありません。

江戸の治安維持をマジメに行い、凶悪なテロリスト相手に戦っただけ。

にもかかわらず、あまりに酷な仕打ちでした。

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