大河ドラマ『青天を衝け』で注目された徳川斉昭。
竹中直人さんが演じられ、
「攘夷!」
「夷狄はぶっ殺せ!」
という過激な言動を繰り返しては、江戸幕府を困らせていました。
しかし、なぜ彼はそこまでエキセントリックになったのか?
そこでもう一人注目したいのが、安政2年(1855年)10月2日に亡くなられた藤田東湖です。
大河ドラマでは渡辺いっけいさんが演じられ、いかにも好々爺といった印象でしたが、そもそも史実で徳川斉昭の思想に強く影響を与えたのが、この藤田東湖です。
人の好さそうなあの方が、そんな過激なことを? 嘘でしょ?
と、ドラマでは誤解が生じてしまいそうな藤田東湖は、史実でどんな人物だったのか?
早速見て参りましょう。
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水戸藩という特殊な立ち位置
江戸時代末期――。
黒船来航より前に外国勢力の力をひしひしと感じる人々がいました。
地理的に黒船を目撃しやすいところ……と言えば、真っ先にアタマに浮かぶのは薩摩藩でしょう。
島津斉興とその右腕・調所広郷は、鹿児島湾や琉球にたびたび押し寄せる黒船を目にしており、
「黒船に勝つこたあできもはん」
と、彼らは早い段階から、外国を追い払う【攘夷】が荒唐無稽だと悟っておりました。
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そのころ関東でも黒船の脅威をひしひしと感じる藩がありました。
水戸藩です。
彼らの領国は、太平洋に接する海岸線が長く、しばしば黒船が目撃されていたのです。
ところが、水戸藩の場合、薩摩とは全く違う道を模索します。
すなわち攘夷論。
徹底的に外国を追い払おう!という考えであり、そんな水戸藩で思想をリードしたのが前述の通り藤田東湖です。
彼の生涯は、尋常ならざるコダワリにありました。
水戸学の家に生まれて
尊皇攘夷――。
幕末に頻出するこの言葉の意味は「外国人および外国かぶれの者を排斥する(時には殺害もありうる)」と、同時に「尊皇」(天皇を尊ぶ)思想のことです。
現代人から見れば過激に映るかもしれませんが、外国に侵略されかねない危機感の時代には、一つの有効的な考え方であったでしょう。
藤田東湖(本稿はこれで統一)は文化3年(1806年)、水戸学中興の祖とされる藤田幽谷の子として誕生しました。
そもそも幽谷も商家の子として生まれ、幼い頃から神童として有名。長じて後は水戸藩を代表する学者となっております。
その子・東湖は、兄が夭折していたため、幽谷にとっては実質的な長男でした。
文政7年(1824年)。
水戸藩内の大津浜にイギリスの捕鯨船12名が上陸しました(大津浜事件)。
船員たちは航海の間に真水と野菜が不足してしまい、壊血病を発生。そのため、やむなく上陸したのでした。
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これを知った幽谷は、当時19才の我が子にこう命じます。
「異人を斬ってこい。そして裁きを待て」
藤田が意を決して浜に向かうと、既にイギリス人はおりません。
彼らは物資を補給し、水戸藩から解放されて立ち去っていました。
同年、薩摩藩領宝島において、イギリス人が牛を強奪しようとして射殺された「宝島事件」が発生しました。
この二件の事件が、「異国船打払令」のきっかけとなります。
外国船に対する処分に「生ぬるい」と激昂したのが幽谷の門下生たち。
門下の会沢正志斎は、尊王攘夷の思想をまとめ、水戸学の教典となった『新論』を発表します。
「断固として攘夷を行うべし!」
彼らはそう主張するとともに、藩政改革を行うよう求めたのでした。
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