島津家久

島津家

島津家久は四兄弟最強! 次々に大軍を撃ち破った軍神 41年の生涯

戦国期の九州を破竹の勢いで制した島津家。

飛躍の中心にいたのは島津貴久の息子たち、

四兄弟であったことはつとに有名ですが、その中でも天才的な合戦術で数多の大軍を撃ち破ったのは誰か、ご存知でしょうか。

島津の退き口】で武勇轟く島津義弘――ではありません。

末弟の島津家久です。

家久の武勲は、戦歴おそろしい四兄弟の中でもアタマ一つ抜けています。

島津家躍進のカギとなった3つの大戦、

耳川の戦い

・沖田畷の戦い

戸次川の戦い

すべてで大活躍を果たしており、人気漫画『センゴク』でも、人知を超えた軍神のごとく「鬼かスサノヲか」と描かれるほど異色の存在でした(→amazon)。

要は、漫画家にとっても「まるでマンガ」としか言いようのない戦歴なんですね。

では一体どんな活躍だったのか?

島津家久の生涯を追ってみましょう。

 


末弟・島津家久は継室の生まれに非ず

島津家久は天文16年(1547年)、島津家当主・島津貴久の四男として生まれました。

※以下は島津貴久の生涯まとめ記事となります

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前述のとおり3人の偉大な兄たちである義久・義弘・歳久と並んで「島津四兄弟」と評され、薩摩を盛り立てたというのは有名ですね。

その中でも家久は、戦歴が際立っているだけでなく、他の三兄弟と決定的な違いがありました。

母親です。

三兄弟の母親は入来院重聡(いりきいんしげさと)という人物の娘で、父・貴久の継室にあたる女性でした。

継室とは「正妻と何らかの形で別れた後に迎える後妻」という立場であり、身分的な格としては正室に並びます。さらに、父の入来院重聡も四兄弟の祖父・島津忠良や父の島津貴久に仕え続けた重臣であり、家内における身分も高いものでした。

一方、家久の母親は?

本田親康という人物の娘であり、そもそも親康の身分が非常に低いものでした。確かに本田氏は薩摩周辺の有力国人の一人ではありましたが、鎌倉以来の伝統を持つ入来院氏と比べれば明らかに格落ちです。

その証拠に、家久の母と貴久の間には正式な婚姻関係が結ばれていませんでした。

一言でいえば身分の低い愛人の子。

当時の血統社会では致命的なハンディであります。

そんな家久は、初陣から後の活躍を彷彿させる戦功を挙げました。

 


祖父・忠良「軍法戦術に妙を得たり」

家久の初陣は永禄4年(1561年)。

大隅国・肝付氏との間に勃発した【廻城の戦い(めぐりじょうのたたかい)】でした。

このとき家久はまだ15歳の若さでしたが、一説には偶然鉢合わせした敵の武将を討ちとるという大功を挙げたと伝わっています。

さらに永禄10年(1567年)からは、敵対していた菱刈氏が本拠とする大口城の攻略を担当。

後年、彼の代名詞となる「寡兵で多数の敵を誘き寄せ、伏兵で討ち取る」という戦術が垣間見える戦いぶりを披露し、ここでも度々戦功を挙げました。

他の三兄弟も初陣(天文23年=1554年)から戦場を駆け回り、度々戦功を挙げておりましたが、遅れてきた家久も負けてはいなかったんですね。

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史実かどうかはともかく、家久の才能が幼少期から評価されていたという逸話もいくつか存在します。

有名なところでは、祖父・忠良が若き日の四兄弟を評した言葉があり、家久は

「軍法戦術に妙を得たり」

とその能力を認められています。

また、身分的に劣っていることを自覚していた家久は、昼夜を問わず武芸に励んで努力を重ね、他の三兄弟に並ぶに至ったというエピソードもあります。

逆境をバネに飛躍を果たしたのでしょう。

こうして身分的なハンデを覆した家久の能力は貴久らにも認められ、かつての重臣である入来院氏を含んだ渋谷氏一族という敵対国衆を打倒した際に、彼らから奪った隅城を与えられています。

同時に拝領した串木野という地に入り、この地の領主となりました。

その後、天正3年(1575年)に5か月ほど上洛しているのですが、その際のエピソードや行動が非常に興味深いものでした。

 


光秀や信長に接した上洛旅が微笑ましい

家久は天正3年(1575年)、初の上京を果たしました。

島津氏の三州平定に伴う神仏加護を伊勢神宮・愛宕山より得るためです。

この旅については『中書家久公御上京日記』という文書に詳細な記載が残されており、史料的にもエピソード的にも見どころの多いものです。

まず、上洛の途中で八女(現在の福岡県八女市)のあたりに到着した際、難癖をつけてきた関守を部下に命じて殴打させると、室津(現在の兵庫県たつの市)では口うるさい水夫をまたもや殴打しました。

この行動を見た家久は、諫めるでも叱るでもなく「素晴らしい振舞いだ!」と部下を絶賛。さすがは薩摩人といったところでしょうか……。

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些細なトラブルを経ながら都へ入った家久は、当時名を馳せていた連歌師の里村紹巴と交流し、また彼のツテで公家や商人とも盛んに交流しました。

それだけではありません。

当時、同じく上洛を果たしていた織田信長の軍勢や城をいくつか見学し、その様子を日記にしたためていたようです。

このとき目撃した信長の軍勢が豪勢であったことを記録すると同時に、お茶目なことも記しています。

「信長、馬上で居眠りしてたぜ(笑)」

当時、信長は42歳頃でありながら、相変わらず戦場を駆け回っていて、よほど疲れていたのでしょう。

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ジワリ……と家久の文才を感じてしまいますが、実は教養面に関しては疎かったようで、明智光秀と面会した際に茶を勧められるとこう答えています。

「申し訳ない。茶道の礼儀は存じ上げぬゆえ、白湯にしていただけないだろうか」

教養溢れる人物として知られる光秀からは連歌会にも誘われますが、これも辞退しています。

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こうして日記に自分の教養不足を書き残してしまう家久が非常に身近に感じられますし、大都会・京都への旅で新鮮に驚く様は微笑ましい限りです。

しかし、家久とて薩摩・島津の代表として出向いているのですから、遊びだけではなかったことでしょう。

光秀と交流していることから、真の狙いは織田信長との関係作り、中央の情報収集であったと考えるほうが自然ですし、そのために逐一記録をつけていたのも合点がいきます。

こうしてわずかの期間ながら京都を満喫した家久。

薩摩へ帰還すると、彼の伝説的な活躍が開幕するのです。

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