絵・小久ヒロ

明智家

藤田伝吾とは?麒麟がくるで徳重聡さん演じる光秀の腹心【戦国明智譚】

生まれや経歴、サッパリ不明。
それでも戦国史の物語に欠かせない武将がおります。

大河ドラマ『麒麟がくる』で、その一人に該当するのが藤田伝吾でしょう。

明智光秀に最期まで付き従った重臣の一人で、ドラマのキャスト発表でも、かなり早い段階から徳重聡さんの名前が公表されておりました。しかし……。

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出自がナゾだらけの明智家臣団においても、この藤田伝吾は特に素性がわからない一人であります。

江戸時代の軍記物(小説)にすら登場しない。

それでも【本能寺の変】から、明智家の命運に関わる大きな使命を帯び、さらには光秀の最期まで付き従った――。

一体、藤田伝吾とは何者なのか?

 

藤田伝吾は信長の上洛前後から光秀家臣だった?

史実においては、出自と前半生がまるで不明の藤田伝吾。
あくまで私の考えですが、それなりに早い段階から光秀に仕えていたのではないかと思います。

明智秀満や明智光忠のように美濃脱出からとは言わないまでも、光秀が足利義昭に仕えたあたりでは家臣になっていた可能性を感じます。

理由は、後の筒井順慶との関わりです。

この筒井との関わりから伝吾も史料に登場するのですが、それまでの流れを説明させていただきますと……。

明智光秀は、義昭のもとで幕臣として働く傍ら、1568年の上洛事業を推し進める織田信長への接近を試みました。
信長が、義昭を将軍とするため上洛したのですね。

しかし、いざ京都で義昭が室町幕府の15代将軍に就任すると、信長と義昭の関係は綻んでいきます。

理由は様々考えられますが、例えば『信長公記』によれば、義昭がお気に入りの家臣ばかり贔屓して、真面目にシゴトをしなかったことが指摘されています。

義昭がどれだけ怠慢だったか?
その詳細については以下の記事をご参照ください。

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義昭は、家臣である信長に「きちんと将軍の職務を務めてください」と諌められ、気分を悪くしていったんですね。

 

筒井とのパイプ役になったのが伝吾だった

義昭と信長の両者が対立を深めていくと、光秀は、完全に信長配下の武将として行動するようになりました。

そして畿内平定作業に尽力するわけですが、ここでその一環だった大和国の筒井順慶に着目したいと思います。

藤田伝吾の記録を伝えることになる筒井順慶。
この順慶は、もともと大和国の有力国衆(大名クラス)であり、同地方で活動していた松永久秀や三好三人衆らと支配権を争っておりました。

もとより大和国は、興福寺や東大寺などの寺院勢力が根強いエリアです。

筒井家も、寺院と関係の深い有力武家の一つであり、クセの強い大和国を任せるのに相応しい人物ではありました。

信長もそこに目をつけたのでしょう。
織田軍が畿内を掌握していく中、筒井順慶を光秀に服属させ、家臣にします。

※松永久秀との関係性が非常に複雑化するのですが、ここでは割愛させていただきます

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大和守護・塙直政の討死で存在感が増した順慶と伝吾

織田家の傘下に名を連ねた後は、1573年に大和守護に任ぜられた塙直政の下、大和衆として大活躍。

長篠の戦い(1575年)】や【本願寺との戦い(1570-1580年)】にも参加するのですが、1576年、本願寺軍との戦いでその塙直政が討死してしまいます。

直政の戦死は、結果的に順慶へ「漁夫の利」をもたらしました。
大和守護が失われたことで、地元・順慶の存在感が日増しに高まっていったのです。

結果、順慶はすでに重臣となっていた光秀の与力に列せられ、信長と連絡を取りあうようになるのですが、このとき光秀と順慶を取り次いだのが藤田伝吾でした。

伝吾の行動は、ほとんどが奈良興福寺に残された『多聞院日記』で後世に伝わっています。

以後、藤田伝吾は、順慶と光秀の取次役として奔走し、両者の躍進を支えていくのです。

 

極めて良好だった筒井と明智の関係だが

天正(1573-1593年)に入ってからの光秀は、丹波攻めなどで優れた功績を残します。

一方の順慶も明智に従う形で大和を平定。
両者の関係は極めて良好だったようで、主従関係にありながら友人に近い仲の良さだったとも伝わります。

残念ながら、伝吾が二人の仲を近づけた具体的なエピソードは残されていませんが、両者の関係が良好であり、伝吾が重臣として光秀に信頼されていることから、取次役として大いに活躍したのは間違いないでしょう。

ただし、その一方で藤田伝吾の軍事的功績は、ほとんどよくわかっていません。
順慶の取次だけを担っていたとは考えられないので、おそらく光秀の丹波攻めなどには従軍していたでしょう。

丹波における光秀の合戦で代表的なものが【黒井城の戦い】です。

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一度は敗走させられながら、後に調略で崩して制覇――その働きは織田信長にも認められ、明智光秀は綺羅星の如き織田家臣団の中でも、アタマ一つ抜けている状態でした。

当然ながら明智の重臣らも出世を果たし明智秀満や斎藤利三らも城を与えられています。

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もしかしたら藤田伝吾もあと少しで城持ちになれていたかもしれません。

しかし、その時期は永遠にやってきませんでした。

そうです。
他ならぬ明智軍が【本能寺の変】を起こしたからです。

 

光忠を大将とする第二陣の将として襲撃

天正10年(1582年)6月2日――。
光秀は突如として信長に反旗を翻し【本能寺の変】を引き起こしました。

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決行にあたって親しい家臣らには事前に計画を打ち明け、そのうちの一人が藤田伝吾だったとされます。

後世に伝わる伝吾の功績は極めて少ないものの、この点から光秀の信任を得る人物だったことはわかります。
また、記録によっては「明智姓」の名乗りも認められていたと言われています。

本能寺の変での伝吾は、明智光忠を大将とする第二陣の将として襲撃部隊を指揮。
信長だけでなく、後継者である織田信忠も自刃に追い込み、ひとまずクーデターを成功させました。

その後、光秀は自身の勢力を増大させ、来るべき織田家臣団らとの戦に備えようとしました。

そこで最初に目を付けたのが、姻戚関係にあり親交も厚い細川藤孝と、何度も名前が登場している筒井順慶です。

順慶と光秀の関係性については、本能寺直前、順慶が東国に国替えされるという通達が内々にあり、それに反感を抱いた光秀がクーデターを起こした――そう推測されるほど強固なものです。

順慶も当然ながら本能寺の一件についてはすぐに情報をキャッチしており、上京を切り上げて即座に大和へ帰還しました。

間もなく光秀から誘いがあったと推測され、ここで取次を務めたのもやはり藤田伝吾でしょう。

混乱の中、記録は残されておりませんが、明智政権の左右を占う大事な局面で、伝吾ほど妥当な人物はいなかったに違いありません。
しかし……。
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