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本圀寺の変で将軍・義昭を襲撃(麒麟がくる第28回)信長公記ではどんな話?

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本圀寺の変(六条合戦)
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「最も優れた兵をいつでも一万ほど出せる家」

池田勝正は、もともと信長の上洛戦では最後まで抵抗していた人でしたが、いったん傘下についてからは実直で、このときも直ちに将軍の救援に駆けつけています。

彼らの家は元々、摂津(大坂府北部~兵庫県南東部)の有力な大名です。

歴史書『日本史』を著したルイス・フロイスにも

「最も優れた兵をいつでも一万ほど出せる家」

と評されていた家ですので、大いに奮戦したと思われます。

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この池田と三好義継らが、桂川周辺で反将軍方を攻め、名のある敵を何人か討ち取り、無事に義昭を守り切ることができました。

本圀寺自体も、何とか損傷を免れています。

というか、防衛設備が整っていなかった場所(本圀寺)、しかも兵力も充分でなかった将軍という絶好の獲物を取りそこねた反将軍方の戦闘能力が疑問ですね。

明智光秀などが火器で奮戦したともいわれていますので、相手を見誤ったというのもありそうですが。

とはいえ、やっと上洛と将軍宣下を成功させたばかりの義昭が襲われた……となれば、信長に知らせないわけにはいきません。

過去の歴史を見ても、京都周辺での戦はグダグダと長引きやすいもの。

本圀寺の変についても、おそらく襲撃を受けてすぐに早馬が出発したのでしょう。

本圀寺の変(六条合戦)が起きた際。

信長は一体どんな対処をしたのか?

まずは地図で【本圀寺ー岐阜城】の距離から確認しておきましょう。

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現代の地図で徒歩117km

「将軍が襲撃された」

その知らせは、京都から岐阜へ直ちに届けられました。

そこで地図を確認してみますと……。

現代の地図で徒歩117kmとありますので、当時でも早馬であれば2日間で問題ない距離でしょう。

徒歩だと、なかなか厳しい距離かと思われます。

ただし、このとき岐阜近辺は大雪が降っていたといいます。

早馬か飛脚かわかりませんが、将軍御所襲撃が1月4日で、信長がこの知らせを聞いたのが6日ですから、悪天候を物ともせずに駆けたのでしょう。

知らせを受けた信長は、直ちに出陣の命令を出しました。

終わりかけていた正月気分も、木っ端微塵にぶっ飛んだでしょう。

自身も身支度を手早く済ませ、馬に飛び乗ります。

……が、ここでちょっとしたトラブルが起きます。

日頃の信長の馬を駆る速さからして、こういうときはお供をするほうもかなりの好条件でなければ追いつけません。

そんなわけで、荷物運びをする馬借(馬を使う運送業者)の間で、ちょっとした言い争いが起きてしまいました。

「どっちの荷物が軽いか」で揉めたのです。

 

当然、荷物が軽ければ軽いほど馬も楽ですから、信長にぴったりついていける可能性が高まります。

良い働きを見せれば、今後も贔屓にしてもらえるかもしれないわけで……業者側としては、いいとこを見せたいですよね。

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