伊達稙宗/wikipediaより引用

伊達家

伊達稙宗(政宗の曾祖父)がカオス過ぎ!天文の乱を機に東北も戦国大混乱へ

更新日:

「手段と目的が入れ替わる」

他者からすればマヌケに見えるこの現象、世間ではままあること。
本日はシャレにならない事態を招いてしまった人のことを見てみましょう。

天文五年(1536年)4月14日は、伊達稙宗(たねむね)が塵芥集(じんかいしゅう)を制定した日です。

分国法の一例としてよく名前が挙げられますし、教科書や参考書にもだいたい載っていますので、見覚えのある方も多そうですね。
それだけだと何なので、本日は稙宗の生涯も合わせて振り返ってみたいと思います。

 

26歳で家督を継ぐとソッコーで最上義定を破り……

伊達稙宗は、長享二年(1488年)に伊達氏十三代・尚宗(ひさむね)の嫡子として生まれました。
初名は高宗といったのですが、後述の理由で改名しています。

若い頃からやる気満々だったらしく、26歳で家督を継いだその年のうちに羽州探題・最上義定を破り、妹を義定の正室に送り込んで同地域を支配しようとしました。
最上家からすれば、ぶん殴ってきたやつの妹を押し付けられた形になるわけです。踏んだり蹴ったり。

その辺が関係しているのかどうかわかりませんが、義定と稙宗の妹との間には子供ができず、結局、最上家では弟・義建(よしたつ)の孫・義守が後々家督を継ぐことになります。

義守は、後の時代に伊達家と強く関わってくる義光や義姫のトーチャンです。
何がどうなるかわからない――まさに歴史の醍醐味かもしれません。

稙宗29歳のとき10代将軍・義稙に進物を送り、その見返りに「稙」の字をもらいました。

実は、義稙は一度京を追われて将軍に返り咲いた人です。
その辺の話はややこしいので日を改めますが、縁起がいいかどうかでいえば、どちらかというと悪い気がします……が、当人たちは気にしなかったのでしょうか。それとも当時は縁起が良いと思われていた?

同時に、稙宗は左京大夫に任官されています。

左京太夫とは左京(京都の東半分・御所から見て左)の司法・行政・警察を司る「京職」のトップです。

東北においては、奥州探題・大崎氏が世襲する官位とされていました。
そのため、この官位を稙宗が得るということは、伊達氏>大崎氏という立ち位置が公的に認められたも同然ということになります。

 

正室1人&側室5人で「14男7女」という大所帯

こうして室町幕府や官位を利用しつつ、稙宗は自分の子供を養子や嫁として他家に送りつけ、勢力を広げていきました。

政略結婚というのはよくある話ですが、稙宗の場合はその規模が違います。
なんせ稙宗は、14男7女という子沢山だったのです。あひゃー!

正室は当然1人で、側室が5人。
そのうち正室の泰心院と側室1人(名前不明)が6人ずつ、他4人の側室が1~4人ずつ産んでいます。

子供ができやすい人をより寵愛したのでしょうか。
それにしても命中率高すぎ。
幼名しか伝わっていない人もいるので、夭折したと思われるのですが、それを差し引いても他家に送り込んだ人数はかなりのものです。

しかし、他家からすれば気に入らない手法であることは、なんとなく予想がつきますよね。
縁が繋がったとはいえ、よその家から口と手を出されるキッカケができてしまうのですから。

特に、最上家は上記のような経緯で伊達家から正室を迎えさせられているので、義定が亡くなった永正十七年(1520年)に家臣たちが「もう伊達家なんかに従わないんだから!」(※イメージです)と反旗を翻しています。

稙宗は最上家の支城を次々と落とし、最終的に最上家を支配下に置きました。

これにより、室町幕府初の陸奥守護に任じられます。
やっぱり能力は高かったんでしょうなぁ。

 

171条にも及ぶ「塵芥集」は庶民も読める

天文元年(1532年)。
稙宗は居城を梁川城(現・福島県伊達市)から西山城(現・福島県桑折町)に移し、ここでさまざまな掟や、税収を記録する台帳などを作って内政に力を入れます。

その中でも最も有名なのが「塵芥集」というわけです。

中身は、今でいうところの民法と刑法にあたります。
171条にも及ぶ詳細な法律で、一般庶民も読めるようにかなも使われているのが特徴です。

また、塵芥集の制定と同じ年に、大崎氏の内乱鎮圧のため、当主である大崎義直の要請に応じて兵を動かして収めました。

その代わりに次男・義宣を義直の娘婿として跡継ぎにさせています。
ここまで狙いがスケスケだといっそ清々しいですね。

こうして東北の大部分に影響を与えるようになった稙宗でしたが、その後二つの火種を作ってしまいました。

 

他家を勢力下に置くために自分ちで仲間割れ

一つは、三男・実元の越後守護・上杉定実への養子入りに関するトラブルです。

稙宗はこれによって、上杉家を大崎家と同じように実質的な傘下に置こうとしました。
当時の上杉家は(も)内紛状態だったため、「実元に伊達家の武士を100人つけて送り出そう」と言い出します。

しかし、伊達家から、デキる配下を大量に引き抜かれていってはたまらないので、息子・晴宗らに大反対されます。

もう一つは、娘婿である相馬顕胤への伊達領割譲でした。

特に理由もないのに「婿殿、気に入ったから領地あげちゃうよ♪」(超訳)などとのたまったので、やっぱり晴宗らが大反対します。当たり前ですね。

伊達晴宗/wikipediaより引用

上がそんなんなので、家臣たちも分裂していきます。
他家を勢力下に置くために自分ちで仲間割れしてどうするよ……とツッコむ人はいなかったんでしょうか。

この頃稙宗は50代になっているため、周りからすれば「耄碌した」としか思えなかったでしょうね。

 

天文の乱がなければ謙信の上杉家当主もなかった!?

こうして家中に不穏な空気が漂う中、天文十一年(1542年)、稙宗は鷹狩りの帰路で息子である晴宗に襲撃され、とっ捕まって幽閉されてしまいます。

おそらく晴宗としては、トーチャンを無理やり隠居させて当主になり、「代替わりしたから、親父がやろうとしてたことは全部帳消し!」とするつもりだったのでしょう。

が、今度は、家臣の小梁川宗朝(こやながわ むねとも)が稙宗を救出したため、話が余計こじれてしまいます。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-伊達家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.