北条氏政

北条氏政/wikipediaより引用

北条家

北条氏政の生涯|氏康の嫡男は信玄・謙信と互角に戦える名将だったのか

2025/07/10

勝てば官軍、負ければ賊軍――。

その評価が最も辛辣にくだされるのが、御家を滅ぼしてしまった戦国武将でしょう。

生涯の事績を見れば有能であるのに、最後の一手を誤ってしまったがために、現代においては愚将扱いされてしまう。

最たる例が北条氏政ではないでしょうか。

北条早雲から始まり、北条氏綱、氏康へとバトンが渡された後北条氏五代の四代目。

その実態は、単なるボンボンではなく、偉大だった父・氏康の跡を継ぎ、関東に覇権を確立させた名将とも言える存在です。

それが天正18年(1590年)7月11日、秀吉に敗れて自害させられたため、凡愚の烙印を押されがちな氏政ですが、果たして生前はいかなる功績があったのか?

北条氏政/wikipediaより引用

北条氏四代目・氏政の生涯に注目してみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

北条氏政の出自と彼を支えた優秀な兄弟衆たち

北条氏政は、天文8年(1539年)ごろに北条氏三代当主・北条氏康の次男として誕生しました。

母は氏康正室の瑞渓院。

彼には北条氏親という兄がいたため、当初は嫡男という扱いを受けてはいません。

ところが天文21年(1552年)に兄の氏親が16歳の若さで亡くなってしまい、氏政が彼に代わって嫡男となります。

歴代の当主候補が名乗る「新九郎」の仮名を背負った氏政は、その後、筋書き通りに家督を譲られることとなりました。

小田原城

ここで注目したいのが「兄弟衆」の存在です。

氏政が北条氏四代当主となってから、政治・軍事の両面で中心的な役割を果たしたのが、氏政の四人の弟たちでした。

三男・北条氏照

四男・北条氏邦

五男・北条氏規

彼等が北条家臣として活躍するのです。

さらに、「兄弟衆」として活躍することはなかったものの、六男にして氏政の異母弟である上杉景虎も重要な人物。

上杉氏の家督争いである【御館の乱】に北条氏が介入する際のキーマンになってくるので、名前だけでも覚えておいてください。

かくして氏政は父と母の残した兄弟たちとともに、猛者ひしめく関東地方において存在感を発揮していきます。

 


家督継承当時は限定的な役割にとどまるが

永禄2年(1559年)、北条氏政は父から家督を譲られ、北条氏四代当主として活動を開始します。

しかし、この家督継承には、ある理由がありました。

数年前から続く飢饉による領国の疲弊を受け、危機的状況に対応するため「新たな王」を形式的に用意したのです。

なぜこんなことをするのか?

というと、代替わりの「徳政令」を実施することにより、領民の不平不満を解消するのですね。

実際、就任の翌年、氏政の名において「領域に対する徳政令」が出され、名目的な当主の交代が重要であったことが理解できます。

つまり、氏康にしてみれば、上記の家督継承について「本当はもう少し後になってから家督を与えたかったんだけど…」という心もちであったと推測され、その証拠にしばらくは氏康が中心となって政治・軍事を主導しました。

北条氏康/wikipediaより引用

この間を通じて、氏政への政権移譲は少しずつ実施。

家中は図らずも「氏政の北条氏当主研修期間」のような状況になっていたと考えられます。

そして家督継承からおおよそ6年ほど経過した永禄8年(1565年)、氏政の活動量や活動内容が氏康を上回るようになり、同年末から彼は戦に出陣しないようになっていきます。

氏康が実質的な隠居状態になったことを示しており、いよいよ氏政が北条氏当主としての歩みをスタートさせていくことになります。

 

謙信の猛攻をしのぐも今度は信玄が裏切り

とはいえ戦国期ですから、北条氏政の「見習い当主」も決してラクではありません。

なんせこの頃の北条氏は上杉謙信の侵攻を受けており、

上杉謙信/wikipediaより引用

永禄4年(1561年)には一家の歴史上初めてとなる本拠・小田原城への攻撃を許してしまいます。

このときは謙信の攻勢をしのぎ切って撤退へと追い込み、その後、謙信へ協力した国衆を各個撃破していくことで優位性を確立。

関東での争いは地の利もあって、変わらず北条氏が一歩リードする形となりました。

氏政が本格的に家督を継承したのはちょうど上杉氏に対して優位な局面を迎えたこの段階であり、彼は父の路線を踏襲して謙信と対立するつもりであったことでしょう。

しかし天文23年(1554年)、突如、周辺のバランスが崩れます。

「甲相駿三国同盟」によって同盟関係にあった武田信玄が、同じく協定を結んでいた今川氏真へ攻め込んだのです。

今川氏真/wikipediaより引用

同盟相手が同盟相手に攻め込む――。

実質的な家督継承直後に舞い込んだ難題に、氏政は頭を抱えたかもしれません。

結局、彼は武田を捨て、今川への味方を決断しました。

武田氏との対立が決定的になったことで、これまでしのぎを削っていた上杉氏が武田と敵対していることに注目。

「敵の敵は味方」理論で永禄12年(1569年)には越相同盟を成立させます。

同盟締結に際しては「関東管領職」や「領土の割譲」および先に触れた「上杉景虎を養子として謙信のもとへ送る」など、氏政側が大幅な譲歩を強いられましたが、「全ては武田と戦うため!」と甘んじてこの条件を受け入れます。

ところが北条氏は、武田氏との抗争において、謙信からの支援を満足に得られません。

結果として謙信にしてやられた氏政は、武田信玄の猛攻によって危機的状況へと陥ってしまいます。

 

氏康の死をキッカケに武田と和解

謙信から期待した支援を引き出せず、信玄には戦で後れを取る状況にあった元亀2年(1571年)。

これまで三代目として絶大な存在感を放っていた父の北条氏康が亡くなりました。

偉大なる父の死を転機とし、北条氏政は外交の大転換を決断します。

先に結んだ謙信との越相同盟を破棄したうえで、武田氏との甲相同盟を復活させるのです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

極秘裏に進められた交渉の結果として持ち上がった同盟の再締結は「仰天プラン」ともいうべきもの。

同盟の目途が立った北条氏政は、北条氏邦に命じて上杉氏との間に協力関係破棄を知らせあい、武田氏との間では国境の策定および分国の相互不可侵を約束しました。

甲相同盟の復活は関東全域の勢力図に大きな変化をもたらし、北条氏は関東で上杉に味方する勢力との対決に臨むこととなります。

氏政は武蔵北部の木戸氏・深谷上杉氏・簗田氏らに対する攻略を進め、元亀3年(1572年)には氏政自身が出陣して攻撃を加えるほど力を入れていました。

また、並行して佐竹氏・結城氏・小山氏・宇都宮氏といった北関東の反北条勢力にも圧力を加えたことで、多くの敵を相手に戦を強いられます。

さらに、こうした勢力の救援要請に応じた謙信がふたたび関東へと侵攻してきたことで彼らの対処も懸念事項として浮上。

しかし、謙信の南下については首尾よくこれをしのぎ切り、彼はまたもや北条攻めを完遂することなく帰国を余儀なくされました。

 


父・氏康が重要視していた関宿城を確保!

謙信が北条攻めに本腰を入れなかったこともあり、北条氏政は、ある拠点をターゲットにしました。

父・氏康が「ここを落とすことは一国を得ることに等しい」として攻略を目論んでいた簗田氏の本拠・関宿城(せきやどじょう)です。

この時期には謙信の関心が関東を離れており、加えて上杉方の諸勢力にも内部分裂が発生したため、彼らの攻防はいったん北条氏の勝利という形でひと段落。

関宿城の制圧にも成功します。

その後も謙信の後ろ盾を得た里見氏・佐竹氏といった関東諸勢力との抗争は継続しますが、天正3年(1576年)ごろになると、これまで猛威を振るっていた謙信の関東進出がさほどの効果に繋がらなくなり、この翌年を最後に、上杉は同地域の攻略を諦めるようになります。

謙信という強力なライバルの猛攻を見事に乗り切った氏政。

そこには、後世で伝えられているような「暗君」の姿はありません。

一方、北条氏という強大な勢力に対して各個で立ち向かうことの困難さを痛感していた北関東の諸勢力は、佐竹氏を中心に「反北条」を合言葉として互いに姻戚関係を構築することで協力してこれに対処していきます。

これに対し、氏政も天正6年(1578年)には、東北の伊達氏や蘆名氏と連携する「遠交近攻」策によって佐竹氏攻略を本格化させます。

しかし、反北条勢力の粘り強い抵抗に決定的な攻勢を仕掛けることができず、にらみ合いの末に停戦しての退却を余儀なくされました。

 

上杉の後継争いに介入

北関東勢力の攻略に苦戦するさなか、これまで抗争を繰り広げてきた上杉氏が大きな転換点を迎えます。

天正6年(1578年)に一家の大黒柱である謙信が急死。

その後継争いである【御館の乱】が勃発したのです

家督の座を狙ったのは、謙信の養子たち二人でした。

一人は長尾政景の息子である上杉景勝で、そしてもう一人が、氏政の異母弟であり、上杉家に養子入りしていた上杉景虎でした。

上杉景勝/wikipediaより引用

春日山城での対立が避けられない情勢になると、景虎は実家の縁を頼って北条氏政に救援の要請を出し、氏政もこれに応じる構えを見せます。

しかし、現実には北関東制圧に手を焼いている最中であり、本格的な景虎救援を行う余裕はありません。

それでも弟の頼みを邪険に扱わなかった氏政は、同盟関係にあった信玄の後を継いでいた武田勝頼に出兵を要請するとともに、弟の北条氏邦らに命じて上杉方の北条高広や長尾憲景といった勢力を調略。

彼らを「北条軍先鋒」として越後へ派遣しました。

先鋒の戦力は景虎方の諸将とともに戦を優位に展開し、9月には越後上田荘まで侵入していきます。

氏政は現状で確保している拠点の維持を命じるとともに、来年の氏政自身による出兵を約束しました。

ところが、ここで景虎・氏政にとって想定外の事態が発生してしまいます。

 


御館の乱で周辺諸国との関係ガラリ一変

北条氏政が同盟の縁を利用して出兵を要請したはずの武田勝頼が、8月半ばに独断で上杉景勝と和議を交わし、月末に甲斐へとそそくさ帰国してしまったのです。

勝頼の急な変心は、景勝方から提示された多額の資金・領土に目がくらんだともいわれています。

武田勝頼/wikipediaより引用

氏政や景虎を裏切ったというわけではありません。

勝頼としては「景勝と氏政のどちらとも仲良くしていたい」と考えており、北条氏との同盟を破棄する意思はなかったようです。

実際、不調に終わったものの、勝頼は景虎と景勝の和睦をあっせんしており、いわば「日和見」に近い戦略を採用する運びとなりました。

しかし、上杉景虎と北条氏政にしてみれば、味方が突如として中立を表明した形となってしまい、景虎方の劣勢が決定的なものになったと考えられています。

さらに、冬季に突入したことで、北条勢は「雪」の影響によって退路が断たれるリスクが懸念されるようになり、攻勢が大きく鈍ってしまいました。

この機を逃さなかった景勝は翌年になると形勢を逆転。

景虎方の城を落としていき、3月には景虎が自害して御館の乱は景勝の勝利に終わります。

氏政としても、弟の危機を救えなかった以上に上杉氏との関係性を大きく後退させる手痛い敗北であったことでしょう。

加えて、御館の乱によって景虎が滅んだことにより、先の越相同盟で上杉へ譲った上野地域の領有権が北条氏に帰属すると主張したため、【その場所を景勝から譲られた勝頼】との間に領有権をめぐる不和が生じてしまいます。

結果として勝頼は氏政に対して公然と敵対するようになり、かねてより反北条の急先鋒であった佐竹氏と結んで攻撃を加えてくるようになりました。

一方の氏政も徳川家康と盟約を交わしてこれに対抗。

徳川家康/wikipediaより引用

両家は遠交近攻策によって本格的な抗争へと突入していきます。

以上の経緯から、上杉家中に甚大な影響を及ぼした御館の乱という騒動は、彼らだけにとどまらず周辺の諸勢力にとっても非常に大きな出来事であったことがわかるでしょう。

 

信長に従属して家督を息子・氏直に譲る

勝頼との抗争はやや劣勢に進行していき、北条氏政は対抗策を練る必要に駆られました。

そこで彼が選択したのは協力者である家康を通じて「天下人」織田信長へ接近することであり、何度も信長のもとへ使者を遣わします。

織田信長/wikipediaより引用

しかも氏政は同盟を申し出たわけではありません。

「あなたに従うから、共に武田と戦いましょう」と信長への従属を願い出るものであり、従来語られてきた「プライドの高さから北条家を滅亡に追い込んだ」という氏政のイメージからはかけ離れています。

必要とあらば低姿勢な振る舞いをすることもできる柔軟さを備えていたのですね。

こうした氏政の申し出に対し、織田信長も承認。

氏政は、織田との同盟関係を第一に考え、信長の娘を正室とすることが決まっていた嫡男の北条氏直に家督を譲りました。

北条氏直/wikipediaより引用

信長の娘婿をすみやかに当主とすることで、早急な関係性の構築を目指したのでしょう。

以上のように天正7年(1579年)に家督を譲った氏政でしたが、急な交代劇であり、しばらくは政治・軍事を主導しました。

かつて父・氏康に家督を譲られたときと同様の関係性が、今度は自身と息子・氏直との間でも構築され、氏政はこの後も「御隠居様」と称されて一定の権力を維持していきます。

天正9年(1581年)には武田氏の衰退が決定的なものとなり、翌天正10年(1582年)には瞬く間の電撃戦【甲州征伐】によって武田は滅亡。

織田に協力した氏政は、かねてより手を焼いてきた武田に対し、これほどまでに圧倒的な勝利を収めた織田家の恐ろしさを味方ながらに痛感したことでしょう。

しかし、です。

このタイミングで、日本を揺るがす一大事件が勃発します。

【本能寺の変】です。

 


本能寺で均衡が崩れた旧武田領

天正10年(1582年)6月2日未明。

近畿・東海エリアを中心に、圧倒的勢力であった織田家の実質的当主・織田信長と、その嫡男・織田信忠が明智光秀に討たれました。

本能寺の変

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用

こうなると織田家の勢力下であった旧武田領でも壮絶な所領争いが起き、同地域を任されていた織田家中・滝川一益と北条氏との間で【神流川の戦い(かんながわのたたかい)】が始まります。

勢いと地の利に勝る北条氏は、この滝川一益との戦いに勝利。

さらなる領土拡張を目指して徳川家康との間にも一戦を交えます。

徳川にせよ北条にせよ、双方共に力を有していた大国です。

全力で戦って疲弊するより、双方が狙いのエリアを分け合った方が得策だと悟ったのでしょう。

徳川と北条の両者は、こうして最終的に和睦を選びます(天正壬午の乱)。

天正壬午の乱
天正壬午の乱|滅亡後の武田領を巡り 徳川・上杉・北条・真田が激突した大戦乱

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この和睦をあっせんしたのが他ならぬ北条氏政であると考えられており、政治・軍事を氏直が主導していた時期においても、外交面では中心的な役割を果たしていたことがわかります。

武田家の旧領争いは、真田家や上杉家も絡んでいて、四方八方を敵に囲まれるより、徳川家と協力関係を築いた方が金銭的なメリットも高いと悟ったのでしょう。

 

外交で存在感を発揮するも秀吉に敗れ

甲信越のドタバタで徳川家康と同盟を結んだ北条氏政。

その家康が、織田政権後継者の座を巡って羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立を深めていく時期に入ると、氏政は出陣を自重するようになります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

しかし、依然として外交面を主導する役割を担っていたほか、古河公方足利氏が断絶したことによって彼らが領有していた諸地域の支配を行っていました。

その後、北条氏と秀吉がどのように対立していったか。

家康があっせんした秀吉従属への勧めを北条氏としては受け入れたものの、氏政はこれに強い拒否感を抱きました。

「この決定は了承できない!もう政務など知ったことか!」と実質的にも政務を放棄する形で隠居し、家中の分裂を招いてしまうのです。

しかし、天正17年(1589年)には冷静になったのか。

政務に復帰し、秀吉が命じた上洛の指示を受け入れる姿勢を表明しました。

氏政としては折れた形ですが、自身が上洛すれば最後であり、身柄の拘束や国替えの心配をした氏直が上洛を引き延ばしにかかります。

 

難攻不落の小田原城ついに陥落

そんな時間稼ぎをするような、北条氏直の姿勢が秀吉を激怒させてしまいました。

小田原攻め(小田原征伐)を決断したのです。

かつて謙信や信玄でさえ落とせなかった難攻不落の小田原城。

当初は豊臣軍を迎えうつ気まんまんの北条氏でしたが、圧倒的な兵力差の前になすすべはありません。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)

籠城は、城以外の外部勢力から援軍を得られないと勝利は非常に厳しく、このときは諸侯・諸国からの味方はほとんど期待できない状況です。

北条方の城は次々に落とされ、ときに開城を余儀なくされ、戦を主導した北条の権力者たちは降っていきます。そして……。

小田原城もついに陥落しました。

第一に責任を問われたのは、おそらく当主の北条氏直でしょう。

しかし氏直は、開城の際に「自分の命と引き換えに家臣ら全員の助命を申し出たこと」で秀吉の心をつかみ、高野山追放で済み、処刑を免れています。

ただし、秀吉の立場も決してお気楽ではありません。

自分に逆らった者たちを見せしめに処刑しないと、いつまたドコかで反乱が起きないとも限らない。

そこで氏直の代わりに処刑対象として浮上したのが、北条氏政・北条氏照兄弟と大道寺政繁、松田憲秀といった重臣たちです。

この中でも氏政は家康によって助命が嘆願されており、彼の家臣である井伊直政は「氏政の助命は実現しそうだ」と考えているほど微妙な判断となったようです。

しかし、結果的に秀吉の許しを得るには至らず、切腹を命じられました。

享年53。

 

氏政はなぜ秀吉に従わなかったのか

晩年における北条氏政の「反秀吉」的な思想は誰の目にも明らか。

古来より「なぜ氏政は秀吉への従属を拒んだのか」という問題は議論されてきました。

まず一般的な解釈として挙げられてきたのが【氏政無能説】です。

情勢をうまく判断できない上に、プライドばかりが高くてダメな奴――確かに晩年における彼の振る舞いは秀吉を軽んじているように見え、時流を読み切れていなかったと言われてしまうのはやむを得ないでしょう。

しかし、秀吉と対立したこの時期だけを切り出して「氏政はとにかく無能」という判断を下してしまうのは早計に思えます。

上記においても、彼が謙信や信玄を代表とする戦国関東の猛者たちに対して綱渡りのような軍事・外交を展開してきましたし、氏康の悲願であった関宿城を攻め落としたのも事実。

加えて信長の圧倒的な戦力を即座に見抜いて従属したことも評価に値しますし、その際の鮮やかな対応を考えれば、とても凡愚の将とは思えません。

北条氏政/wikipediaより引用

また、氏政の無能ぶりを象徴するとされる「汁かけ飯」の逸話ですが……。

【汁かけ飯の逸話】

氏政が米に汁を二度かけた際、それを見た氏康が「一度でかけるべき汁の量も図れないとは……北条は私の代で終わりかもしれない」という感想を漏らしたというエピソード。

「氏政が北条氏を滅ぼした暗君である」という風潮が生まれた後年になって創作されたものと考えられており、やはり彼のすべてを否定する判断材料としては弱いでしょう。

他にも「反秀吉」となった理由は色々と提示されています。

・東国武士団特有の独立的思考

・秀吉が初めから北条氏を許す気はなかった

・有力大名が中央政権と対立するのは当然で、徹底抗戦してしまったことこそが問題

いずれにせよ「なぜ氏政が秀吉を拒んだか」という疑問について、現状、発見されている史料から氏政の真意を確定させることは不可能です。

本能寺の変や山崎の戦い、小牧・長久手の戦いなど。

当時は誰にも想像し得なかった突発的事象が頻発しました。

織田家中ですら幾人もの武将が滅亡へ追いやられていて、非常に難しい舵取りが要求される中、結果的に北条氏も滅亡への道を歩んでしまった。

それでも悪く言われてしまう北条氏政に同情の念を抱かずにいられません。

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【参考文献】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
黒田基樹『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon
黒田基樹『戦国北条五代(星海社)』(→amazon

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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