大河ドラマ『おんな城主 直虎』で高橋一生さんが演じ、一躍お茶の間で話題になった戦国武将。
それが小野政次である。
直虎のことを想いながら叶わず、最期はその直虎に槍で胸を突き殺されて死ぬ――。
あまりに衝撃的なラストは視聴者の度肝を抜き、同時に『実際の小野政次もそんな死に方だったの?』という疑問を視聴者に喚起した。
では、史実における彼は一体どんな人物だったのか?
永禄12年(1569年)4月7日が命日となる小野政次の生涯を振り返ってみよう。
遠祖をたどると小野妹子!?
コトの真偽はさておき、井伊谷に勢力を保持していた小野氏は、小野篁(802-853)の後裔を主張していた。
小野篁は平安時代の公家であり、秀才として名を馳せ、遣唐使の副使に就任。
大使の藤原常嗣(つねつぐ)とケンカをして同職務を放棄すると、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐に流されたが、優秀な人材であったため再び京に呼び戻され、その後も和歌や学問の才をいかんなく発揮――ということで現代にまでその名を轟かせている。

小野篁/wikipediaより引用
政次の主筋である井伊氏の先祖は、1010年に生まれた井伊共保(ともやす・藤原共資の子)であるからして、歴史的には小野氏の方が200年長い。
※それぞれの遠祖をたどると小野妹子と藤原鎌足という日本史ビッグネームに突き当たる
そんな小野家で26代小野政直の長男として生まれた政次は、生年は不明ながら1554年に家督を継ぎ、井伊家の家老に就任した。
井伊直虎(柴咲コウさん)や井伊直親(三浦春馬さん)、直親の妻らと幼なじみであったという説もあるからして、同世代であったことは間違いないだろう。
ともかく政次が家老についたとき、井伊家は宗主・直盛が今川義元に仕えており、同家と共に勢力を伸さんとしている状況でもあった。
生前の父・政直は、今川の忠臣でもあったため井伊家の状況は逐一、義元に報告されており、跡を継いだ政次も同様のポジションで活躍しようとしていたことが窺える。
そして井伊家と小野家の間に火種が投下される。
弘治元年(1555年)のことだ。
桶狭間により御家安泰の神話が崩れた
その年、政次(推定20歳)のときに、亀之丞(井伊直親の幼名)が逃亡先から帰国。
宗主・井伊直盛の養子として井伊直親を名乗り、奥山朝利の娘・ひよ(ドラマではしの)と結婚すると、政次の立場は少しずつ複雑になっていく。
というのも井伊直親の父・直満は、小野政次の父・政直の讒言により殺されており、直親自身も命を狙われ、10年間におよぶ逃亡生活を余儀なくされているのである。
両者の仲がギクシャクすることは避けがたく、実際直親は、政次との接触を避けるため井伊谷から離れた祝田(ほうだ)に屋敷を建てたという。
そんな状況に拍車をかけたのが1560年5月のこと。
【桶狭間の戦い】で今川義元が織田信長に討ち取られたのである。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
今川方として合戦に参加していた井伊衆は約300人(研究者により200~500人)。その人的損害はかなり激しく、井伊家の主な家臣たちも16名が死亡し、宗主・井伊直盛も殉死している。
出陣せずに井伊谷城を守っていた政次も弟の朝直を失うほか、他にも井伊家の有力家臣・奥平家で宗主・朝宗が亡くなった。
絶対王者・今川義元についていればお家は安泰――。
そんな安全神話が崩れ、三河・遠江の両国は「忩劇(そうげき)」とよばれるカオス状態に突入したのである。
直盛死して井伊家の権力争い勃発
『井伊家伝記』によれば、井伊直盛は殉死する前に以下の様な遺言を残している。
「養子の井伊直親を宗主とするが、小野政次と仲が悪いので、井伊領は井伊家庶子家の中野家の中野直由(ドラマでは筧利夫さん)に預ける」
この遺言が、いささか不可解な内容であることは読者の皆様も何となく想像がつくであろうか。
井伊直親は宗主になっても領主になれず不満はくすぶり、中野直由は受領名を井伊直盛と同じ信濃守に変えて、やる気満々。
結果的に井伊領内では、井伊直親と小野政次の他に中野直由、奥山朝利というBIG4が一触即発の権力闘争へ投入してしまったのだ。
『奥山家旧記』※1
『濱松御在城記』※2
といった記録に当時の争いの様子が残されている。原文は記事末に掲載しておくので、ここではその内容をマトメで進めていこう。
まず今川氏真が小野政次を支援して奥山朝利を討ち取り、中野直由は三河国へ一時避難。

今川氏真/wikipediaより引用
さらに政次は「井伊直親が徳川家康と組んでいる」と氏真に告発し、直親も死に追いやる(討ち取ったのは今川忠臣の掛川城主・朝比奈泰朝)。
続けて永禄6年(1563)には井伊家の重鎮・井伊直平が亡くなり、そして翌1564年には逃亡から戻って合戦に参加していた中野直由も死んでしまった。
小野政次にとっては目の上のたんこぶであった【井伊直親・中野直由・奥山朝利】の3名が次々と亡くなり、いよいよ井伊家の天下は小野政次のもの!
というところで突如行動を起こしたのが井伊家の軍師・南渓和尚だった。
井伊直盛の子・次郎法師(井伊直虎)を還俗させて宗主とする
南渓和尚のこのアイデアにより『おんな城主 直虎』が誕生し、以降、政次と直虎による闘争が繰り広げられていく。
徳政令が施行されれば更なる混乱&貧困へ
直虎が地頭になった頃、今川氏真から「井伊谷徳政令」の催促が出された。
「徳政令」とは、銭主(高利貸し)から借りた借金を帳消しにするもの。
領主から発せられる命令であり、借金に苦しむ武士や農民は一時的には助かるが、施行後は金を借りれなくなるため、結局、生活が続けられなくなってしまう。
直虎が地頭に就任した時の井伊氏は、度重なる戦争で人も金も失い、田畑も荒れ、銭主に借金をして糊口を凌いでいる状況であった。
ここで徳政令が施行されれば、さらなる混乱、貧困を呼ぶため、直虎は銭主の商人・瀬戸方久(ドラマではムロツヨシさん)と結託して、「井伊谷徳政令」の施行を凍結してしまう。

家宝の刀を徳川家康に献上する瀬戸方久(方休)/国立国会図書館蔵
これに対し、銭主の出現を快く思っていなかった祝田禰宜(蜂前神社神主)は、農民や家老・小野政次を味方につけ、領主・直虎に徳政令の施行を迫った。
直虎は、徳政令を施行しても、被害が最小限になるように龍潭寺の所領を安堵、瀬戸方久も今川氏真に所領を安堵させる。
そして永禄11年(1568)11月9日、徳政令が施行されると、ついに井伊直虎は地頭職を解任されるのであった。
支配者の歓喜が逃亡者の悲劇に変わるとき
いよいよ小野家が井伊領を奪い取った───と政次も心の底から喜んだであろう。
井伊領の支配は、父あるいはずっと前の世代からの悲願だったのかもしれない。平安貴族・小野篁末裔としての誇りなども当然感じていたハズだ。
が、その歓喜はすぐに悲劇に変わる。
同年12月、三河国の徳川家康が遠江国侵攻を始め、13日には井伊谷城を攻めたてたのだ。

徳川家康/wikipediaより引用
城兵は戦うこと無く逃亡。城主としての力量不足を完全なまでに露見させてしまったのであろう。
小野政次の天下は、わずか34日間のことであった。
家康の追手から逃れるべく、竜ヶ岩洞(洞窟)に隠れた小野政次は近藤氏によって捕縛された。
そして永禄12年(1569)4月7日、井伊家の処刑場である「蟹淵」で処刑が行われる。
1535年生まれであれば、享年は34。
また、小野政次の2人の子も5月7日に処刑された(『南渓過去帳』より/龍潭寺蔵)。
蟹淵の現地へ出向いてみた
蟹淵の両岸は「大堰(おおせぎ)河原」と呼ばれ、その右岸が処刑場だったという。
ダムのことを「せき(堰、関)」というが、この付近では「せぎ」と言う。
実際に足を運んでみると、河川工事により、「淵」は広くも深くもなく、河原も左岸にしかなかった。
また、大堰河原にあったという小野政次の墓や複数の供養碑も、蟹淵近くの路傍に移動されていた。
かくして嫡男・小野政次の家系は絶えた。ただし、小野氏自体は、政次の弟・玄蕃の家系が与板藩の家老家となっており、浜北区尾野にはご子孫もおられる。
事件には、こんな後日譚がある。
小野政次が怨霊となって現れたので、これを鎮めるため、小野屋敷(井伊谷城の三之丸)に塚(墓)を築いた――。
江戸時代になって井伊氏が彦根に移住し、近藤氏が井伊谷の領主になると、小野屋敷を陣屋とした。
このとき誤って塚を平らに均してしまったので、二宮神社の神主・中井氏は、二宮神社の境内(鳥居付近)に但馬社(祭神:但馬明神=小野政次)を建てて、鎮魂した。
現在、この但馬社は、拝殿横の天王社に合祀されている。
あわせて読みたい関連記事
-

槍で左胸を突かれた戦国武将は最後の会話をできるのか?おんな城主直虎・政次の死因
続きを見る
-

野狂と呼ばれた小野篁は頭脳キレキレ書も無双!朝廷批判で流罪となるも悠々自適
続きを見る
-

浅井長政の生涯|信長を裏切り滅ぼされ その血脈は三姉妹から皇室へ続いた
続きを見る
-

井伊直虎の生涯|今川家や武田家などの強国に翻弄された女城主の生き様
続きを見る
-

井伊直親の生涯|直政の父が今川家に狙われ 歩んだ流浪の道とは
続きを見る
※1『奥山家旧記』
【原文】「外伝、私記。中野氏越後守、後改信濃守直由ト云フ者、親族相争発兵戦、於井伊谷敵軍不利走矣逐之至奥山襲城急今川出師救之、直由軍、疲不能当於今川ノ軍故、放火於気賀上下而去住参州加茂云云。永禄五戌、直親公討死。永禄六亥、直平公七十五歳ニテ有玉幡屋ニテ落馬逝去。按スル、直親公討死故、早々小野但馬押領シテ此時、直由トノ合戦(同所ニ在リ尤モツケ届)相成タルカ歟。親秀ハ為但馬障害トアリ。又、『忍家中同姓ノ記』ニ氏真ニ被押寄、討死トアレバ、何レ永禄五、六ノ頃、奥山城モ明ケ渡シタルカ。前件ノ直由忠房トモ云、七郎左衛門ト改名シタルカ、永禄七甲子九月十五日逝ス。墓、龍潭寺ニアリ。」
【大意】外伝や私記によれば、中野越後守直由(後に信濃守と改名)は、井伊一族の内紛が起こると、井伊谷城では不利だとして、奥山城に入った。中野軍は疲れていて、今川軍と戦える状況になかったので、気賀上村・下村に火を放って三河国へ逃げたという。考えてみるに、永禄5年に井伊直親が死ぬと、小野政次が井伊領を横領したので、領主・中野直由が戦ったのではないかと思う。また、「奥山親秀(朝利)は、永禄3年(1560)12月22日、小野但馬守政次に殺された」という。また、「奥山朝利は、今川氏真に攻められて討死した」ともいうから、永禄5,6年の頃、奥山城が明け渡さたのではないか。なお、中野直由は、永禄7年(1564)9月15日に亡くなり、墓は龍潭寺にある。
※2『濱松御在城記』
【原文】「永禄五年三月ハ井伊谷、同年四月ハ引間、同年七月ハ嵩山、此三城へ駿河ヨリ人数ヲ差向、被攻候。井伊谷、嵩山ハ落去。引間ノ城ニテハ、寄手ノ大将・新野左馬助、討死。」
【大意】永禄5年(1562)、今川氏は謀反の罪で、朝比奈軍に3月に井伊氏の井伊谷城、7月に奥山氏の市場城(豊橋市嵩山町)を攻め落とさせた。4月には新野軍に飯尾氏の引馬城を攻めさせたが、落とせず、逆に攻める側の大将・新野左馬助が討死した。








