大河ドラマ『おんな城主 直虎』で三浦春馬さんが演じ、一躍、全国区となった井伊直親(なおちか)。
井伊直虎の元許婚者であり、徳川四天王・井伊直政の実父でもある。
「赤鬼」として諸国に勇名を轟かせた直政の父だけに、直親もまた剛毅な武将として戦場を駆け回ったのだろう――と思われるかもしれないが実際はさにあらず。
その人生は苦難と逃亡の日々であった。
大まかに分けると以下の4期になる、直親の人生。
ポイント
亀之丞時代①【幼少期(1535-1544)0歳~9歳】
亀之丞時代②【逃亡期(1545-1554)10歳~19歳】
井伊直親時代①【祝田期(1555-1559)20歳~24歳】
井伊直親時代②【宗主期(1560-1562)25歳~27歳】
幼少期から一つずつ振り返ってみよう。
井伊直親の幼少期(1535-1544)0歳~9歳
亀之丞こと後の井伊直親は、天文4年(1535)に生まれた。
この頃、井伊家は今川の勢力下にあり、20代直平の孫に当たる直親は傍流として井伊宗家と今川家に仕える立場。
彼の生年は、後の逃亡先となる雲龍山松源寺(長野県下伊那郡高森町)の文叔和尚が示寂(じじゃく・僧侶の死であり享年69であった)したのと同じ年であった。
むろん直親は、生まれながらにして逃亡の運命に晒されていたワケではない。
当時の井伊家は、非常に微妙な情勢の中で揺れていた。22代宗主である井伊直盛の子が女性のおとわ(後の井伊直虎)だけで、跡取りとなる男児に恵まれなかったのだ。

イラスト・富永商太
───なぜ2人目の子ができなかったのか?
むろんこちらは記録になかっただけで、流産とか死産の子たちはいたかもしれない。
井平には、こんな伝承も残されている。
「直虎は、井平氏の娘との間に出来た子であったが、その娘は直虎を産んだ後に流行病で早逝した。直盛は娘を愛し続け、新しい嫁とは床を共にしなかった。そのDNAは直虎に受け継がれ、直虎は直親しか愛さなかった」
真贋のほどはさておき、「直虎が直親しか愛さなかった」というのはどういうことか?
普通、宗主の直盛に嫡男がいなければ、「側室をもうけて生んでもらう」か、あるいは「養子をもらう」という選択肢が考えられる。
しかし直盛の正室は、新野家(今川家の庶子家)の娘であり、「井伊家の上級権力者である今川家の面子を潰してしまう」ため、側室をもうけることは難しい状況であった。
そこで、井伊家のゴッドファーザー井伊直平は、
このまま、直盛に嫡男が生まれなかったら、亀之丞(直親)をおとわ(直虎)の婿養子にして井伊家を継がせる。
と宣言。
まだ幼すぎる亀之丞とおとわにかような判断が下された背景には、おとわが政略結婚の駒として見知らぬ他家に嫁がされることをを避けたのかもしれない。
2人が成年するまでに、新たに嫡男が生まれればそれでOK。
一方、この婚約を喜んだのは井伊家では傍流となっていた直親の父・井伊直満であり、彼は有頂天になって調子づき過ぎたため家老の小野政直と衝突する機会が増えたという。
出る釘や杭は打たれるということであろう。
逃亡期(1545-1554)10歳~19歳
婚約して小さな恋のメロディを奏でていた亀之丞とおとわの2名に事件が起きたのは1544年12月23日のことだ。
家老・小野政直の讒言によって父・直満が今川義元に誅殺されると、その子である亀之丞(直親)に対しても殺害命令が出される。
そこで井伊家の家臣・勝間田藤七郎は同年12月29日、「今村」と名を変えて猟師に変装、叺(かます・炭俵)に9歳の亀之丞を入れて背負子(しょいこ)に括りつけ、密かに井伊谷を出た。
藤七郎は後に「直親の隠れ岩」と呼ばれる岩陰(実際には猟師小屋か?)で1泊すると、峠を越えて黒田へ。
そこで【亀之丞は急病で病死し、今村は切腹した】というデマを流して、東光院(渋川)に逃げ込んだ。
このとき許婚者であったおとわは、亀之丞が死んだと思い込み、自ら髪を切ったという。
2人の逃亡を助けたのは直平の子(養子)にして、同家の参謀的僧侶であった南渓瑞聞だった。

南渓瑞聞(南渓和尚)
東光院の能仲和尚(新野出身・新野親矩の弟説あり)が南渓の弟子であり、両者の相談の結果、亀之丞は文叔和尚開山の松源寺へと向かうことになった。
翌天文14年(1545)1月3日のことである。
松源寺のある信州市田郷(長野県下伊那郡高森町)で直親は、領主・松岡氏の庇護のもと、その家臣や子達と共に文武に励んだという。
井伊家は、鎌倉時代に御家人として鶴岡八幡宮の弓始を務めるほどの「弓の家」であるが、実は、松岡氏も鶴岡八幡宮の弓始の射手を担っているので、もしかしたら両家は古くから交流があったのかもしれない。
また、地図で高森町(天竜川右岸(西側))を見ると、川向う(天竜川左岸(東側))は、豊丘村であり、その東の山を越せば大鹿村である。
大鹿村といえば、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)の活動拠点である「信濃宮」があった場所である。
つまり松源寺(伊那谷)は、井伊氏にとって、
①遠くて安心(三河・遠江・駿河国ではなく、信濃国であるから今川氏の手が届かない)
であるばかりか、
②親しくて安全(隠れ家は自浄院主・文叔和尚開山の寺、領主は鎌倉幕府の御家人であった松岡氏、宗良親王が隠れ通せた実
でもあった。
亀之丞が住んだ松源寺は「寺山」という場所にあった。
伊那谷がよく見える山腹にあり、今でこそ切り開かれているが、当時の雰囲気は薄暗く、かつて文叔和尚が逃れ住んだ「凌苔庵」に似ていたと想像される。
この松源寺は、織田信長によって焼かれて焼失し、現在は標柱と案内板だけがある。
織田信長による武田遺臣狩りについては、『信長公記』(巻15「天正10年」)に森可成の息子・森長可が行った一例がある。
【原文】二月十五日、森勝蔵、三里計り懸げ出し、市田と云ふ所にて、退後れ侯者十騎計り討ち止め侯ひキ。
【意訳】天正10年2月15日、織田方の森長可は、約12km進軍し、市田郷で、撤退に遅れた武田方の約10騎を討ち取った。
「畑中供養塚」は、この時に討たれた武田残兵の墓である。
約10騎というと、1騎を15人編成(騎馬(将)1人、徒武者4人、足軽10人)とすれば、約150人になる計算。
塚(実は古墳)の上に建てられた供養碑の碑文には、この時、狩られたのは「馬場美濃守の家来」とある。
武田四天王の1人・馬場美濃守は【長篠の戦い】で討死しており、その家臣たちなのであろう。
話を直親に戻そう。
美男子で笛の名人、しかも名門・井伊氏の亀之丞は、伊那谷では女性に人気があった。
そんな折、彼は
井伊家宗主の娘(婚約者のおとわこと直虎)が突然出家した
と風の噂に聞く。
尼となればもはや自分とは結婚できない。婚約破棄か。
そう考えたのだろうか。亀之丞が逃亡先で関係した女性の数や生まれた子の数ははっきりしない。
ただ、嶋田村(現在の長野県飯田市松尾)の代官・塩沢氏の娘との間に「吉直」、笛の師匠・お千代との間に「高瀬」という2人の息子と娘(つまり井伊直政の兄と姉)を儲けたことは広く知られている。
吉直は、亀之丞から渡された短刀を家宝として飯田井伊氏の祖となり、高瀬は井伊家家老・川手良則の正室となった。
正月に彦根藩主から筆頭家老の木俣氏よりも先に川手氏が酒をいただくのは、この血脈による。
祝田期(1555-1559)20歳~24歳
その後、伊那谷に武田信玄が侵攻。
松岡氏が武田の軍門に下ると、亀之丞を殺すべく画策したとされる家老の小野政直もタイミングよく病死し、井伊谷へ帰ることにした。
ただし、すぐに戻るのではなく様子をうかがうため、渋川に1ヶ月間滞在して井ノ八幡宮(井伊直盛改修の渋川八幡宮)に「青葉の笛」を奉納したとか、奥山に1ヶ月間滞在して奥山朝利の娘・ひよ(ドラマ『おんな城主 直虎』では「しの」として登場)と結婚したとも言われている。
首尾よく井伊谷に戻ると、亀之丞は元服して「井伊直親」と名乗り、宗主・井伊直盛の養子となった。
当然ながら直虎とは結婚しておらず、井伊谷城には宗主・井伊直盛もいたので、直親には祝田に1000石与えられた。
この「直親屋敷」(古文書では「祝田城」)では妻・ひよと共に住み、市田郷で10年間共に過ごした今村藤七郎が家老として付いていたが、「藤七郎は井伊谷の状況を知らない」として、井伊直盛は「井伊谷七人衆」の一人・松下源太郎清景(直親の死後、その妻・ひよと再婚)を家老として補佐させている。
そして帰国して5年後。
22代宗主・井伊直盛が【桶狭間の戦い】で今川義元に追い腹して果てると、井伊直親は第23代宗主となるのであった。
残念ながら、この帰国から宗主になるまでの5年間については、いくら史料を探しても直親の動向は不明である。
唯一、今川家分限帳に「小山城主」とあるだけで、その城は、井伊谷から遠く離れた静岡県榛原郡吉田町にあるので、
※分限帳は、江戸時代に書かれた偽物
宗主期(1560-1562)25歳~27歳
遠江に帰国して5年。
直盛の死で宗主になった直親であったが、帰国からの5年間は子に恵まれなかった。
そこで永禄3年(1560)1月1日、南渓和尚に子授けのご祈祷をしてもらい、観音様にも子授け祈願をしたところ、妻・ひよは妊娠、永禄4年(1561)2月9日、嫡男が生まれた。
第24代宗主になることが約束され、前宗主・直盛の幼名「虎松」を引き継いだ待望の嫡男。後の徳川四天王・井伊直政である。
※「虎松」は、直宗、直盛の幼名とされる一方で、直盛の幼名を「虎丸」とする古文書もある。
いずれにせよ、虎の目を持つ一族の子であることには間違いない。
さて、宗主になった井伊直親は、桶狭間で討たれた義元に替わって新しく今川家宗主になった氏真を見限り、徳川家康に付くことを決めた。
が、家老の小野政次(小野政直の子)によってその意が今川氏真に告げ口され、今川忠臣・朝比奈泰朝によって直親は掛川市十九首付近で討たれてしまう。
掛川城の城主・朝比奈泰朝には、今川氏真から井伊谷城攻めの命令が下され、泰朝は既に出陣の準備を終えて、鎧を身にまとっていた。
そこに井伊直親が「弁明だからと鎧を付けず、常装(侍烏帽子に直垂)でやって来た」ため、城下の西の入り口(現在の掛川市十九首)付近で簡単に殺すことが出来たという。
「此度は今川家之疑念を申被んが為なれば、六具等之用意はなし。皆々素肌武者なれば、主従廿五人、不残討死也。」(『礎石集』)
※六具(りくぐ):6種で一揃いの武具。「鎧の六具」は、胴・籠手・袖・脇楯・脛楯・脛当の6種というが、異説もある。また、「大将の六具」「単騎の六具」「歩兵の六具」もある。ここは「具体的にどの6つ?」と考えずに、「甲冑と武具」程度の押さえでよかろう。
永禄5年(1562)12月14日、井伊直親、討死。享年28。
この時、虎松は2歳であった。
直親の首は、掛川城下に晒された。
が、夜になって荻原藤左衛門が盗み出し、祝田へ持ち帰って埋めたと伝わる。
それが「直親の首塚」(首のない遺体を焼いて、その灰を埋めた「灰塚」
※直親の父親である直満の墓(「井殿ノ塚」)の横にも松が植えられたが、やはり江戸時代に枯死して、現在はタブノキが生えている。松の寿命は400年という。
一方、直親を追い込んだ小野政次は、後に徳川家康に処刑されている。
さらに家康は、虎松に会うと、
「實父直親ハ、家康カ遠州発向之隠謀露顕故、氏真障害為致。家康カ為ニ命を失ひ直親カ實子、取立不叶。」(『井伊家伝記』)
【大意】直親は私(家康)と組もうとしたせいで討たれたので、その子を取り立てないわけにはいかない。
と言って、虎松に「万千代」という名と300石を与えたという。
井伊直政の出世物語、その始まりであった。
蛇足であるが……。
家康と虎松(直政)の出会いシーンは、実に説得力があり、そして魅力的なストーリーである。
徳川&井伊ファンにとっては「家康、かっこいい!」「さすが井伊家の大恩人!」と絶賛したいところだが、同時に江戸時代に書かれた本が「徳川中心史観」であることも注意せねばならない。
すなわち
「徳川家康は善人であるから、彼に処刑された人を悪人にしなければならない」
「井伊家は早い時期から(徳川家康の遠江侵攻以前から)徳川に付いていたとアピールしたい」
そんな発想から考えだされたストーリーの可能性は否めないだろう。
当時、【小野政次の怨霊が出た】という風評が広まっており、それはつまり人々が『無実の罪で殺されから、怨霊になって出たんだな』と認識していたことに他ならない。
これも歴史の一つであろう。
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