皆さんは今川氏真(うじざね)に対して、どんな印象をお持ちであろうか?
初めて聞いた方もいるかもしれないが、彼のことを戦国ファンに尋ねると、かなり高い確率で「ダメな君主」と答えられる。
理由は単純。
父・今川義元の代には【海道一の弓取り(東海道で一番強い大名)】と称された今川家をあっという間に潰してしまったからだ。
そして、今では細川
彼が情けない武将だったから今川は滅びたのか?
慶長19年12月28日(1615年1月27日)はその命日。

今川氏真/wikipediaより引用
今川氏真の生涯を振り返ってみしょう。
父と違って意外に長生きな今川氏真
今川氏真は、戦国大名・今川義元の嫡男として1538年、駿河国で生まれた。
母は武田信虎(信玄の実父)の娘という当時バリバリの戦国サラブレッド。
実際、氏真は、人生の前期を大名として過ごし、後期は文化人という数奇な運命を辿っている。
しかも享年は77歳(1615年)という、当時としては格別な長生きも果たしており、これには「意外だ」という印象をお持ちの方も少なくない。

後に文化人として名を馳せたのには、それなりのバックボーンもある。
彼の出身地・駿河は京都から多くの公家や文化人が招かれる「東の京」であり、今川家は足利将軍家を継ぐ資格も有した家柄だった。
街は京都を模して作られ、その中には京都にある地名も用いられた。
この「小京都」づくりは、義元の母・寿桂尼が公家の出であることや、義元自身が若い頃に京都で過ごしたこと、さらには将軍家に準ずる家柄という自負も起因するのであろう。

寿桂尼/wikipediaより引用
『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)には以下のように記されている。
※先に【意訳】から記しておきます
【意訳】今川氏真は、母が信虎の娘で天文七年(1538年)に駿河で生まれた。
永禄三年(1560年)に従四位下となり、義元が戦死した後は今川領を引き継ぐ。
ところが永禄十一年(1568年)になって武田信玄に攻め入られ、これを必死に守ろうとして戦うも遠江の掛川城へ追いやられ、ついには北条氏康のもとへ逃げ去ることになった。
しかし元亀元年(1570年)、浜松の徳川家康を訪れるとその流落を憐れまれて、近江国の野洲に500石の領地を貰い、慶長19年(1615年)に亡くなる。77歳。
戒名は豊山栄公仙岩院であり、墓は萬昌院にある。妻は、北条氏康の娘(早川殿)だった。
【原文】「氏真 五郎、彦五郎、上総介、刑部大輔、従四位下、入道号宗誾。母は信虎が女。天文七年、駿河国に生る。永禄三年五月八日、従四位下に叙し、義元戦死の後、遺領を継。十一年十二月、武田信玄、駿府に出張し、急に居城を攻。氏真、防ぎ、戦ふといへども、勢い屈して、終に城をさけ、遠江国掛川にうつり、のち、北条氏康がもとにいたりて寓居す。元亀元年十二月、また浜松にのがれ来りて、東照宮を頼みたてまつりしかば、その流落を憐みたまひ、懇に御撫育あり。そのゝち近江国野洲郡のうちにして、旧地五百石をたまひ、慶長十九年十二月二十八日、卒す。年七十七。豊山栄公仙岩院と号す。市谷の万昌院に葬る。後、この寺を牛込にうつさる。室は北条左京大夫氏康が女。」(『寛政重修諸家譜』)
信玄に攻められるとあっという間に本領を逃げ、そして北条や徳川の慈悲でもって、逆に長生きをしてしまう――という冴えないストーリー。
実際のところはどうなのだろう。
仮に額面通りの暗愚だとすれば、なぜそう言われるようになったのか。
支配強化や経済政策に手腕を発揮か
今川氏真は、桶狭間の戦いで義元が討死したために家督を相続したと言われてきた。
しかし現在は、永禄元年頃(1558年頃・学者によって異なる)に義元の跡を継ぎ、駿河国の支配強化や経済政策に手腕を発揮したとされている。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
生前相続は当時特別に珍しいことではなく、お隣の北条家でも1559年に北条氏康が北条氏政に家督を譲って隠居している。
隠居とは、必ずしも一線から身を引くという意味ではない。
たとえば氏康の場合はそのまま小田原城で「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し、息子の氏政を後見するという「ニ御屋形」「御両殿」と称される形態をとった。
今川氏の場合は、隠居した義元が軍事担当(将来の構想を練る役)、宗主の氏真が駿河国を中心とする政治担当(現在の領国を運営する役)であったのだ。
家督を譲られた氏真は、最近は、為政者としての評価が見直されつつある。
これまでは前述の通り政治や戦よりも文芸(和歌、連歌、蹴鞠など)に興味を持つ愚者だと評価されてきた。
特に江戸時代中期以降に書かれた文献では、政治を寿桂尼や三浦右衛門佐に任せて遊興にふけっていた暗君として描かれていることが多い。
【寛政の改革】を推進した老中・松平定信は、自著の随筆『閑なるあまり』の中で、次のように記している。
「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」
【意訳】日本を治める立場になったとしたら、足利義政がお茶にハマったように、大内義隆が学問に没頭したように、今川氏真が和歌を作り続けたようにしてはならない
約1700首の和歌「文化人」的性格は後期の話
確かに今川氏真は約1700首※の和歌を残した。
※観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館)に1658首掲載
しかし、そういった「文化人」的性格は主に後期の話であり、前期では戦国大名であった(ただし、人生前期の駿府今川館には、京都から下向した優れた歌人や蹴鞠の名手がいて、直接指導を受けられる環境にはあった)。
実は「暗君」という評価は、氏真自身だけで片付けられるのではなく、側近にも問題があるのではなかろうか?
義元の側近は、黒衣の宰相・太原雪斎であった。
氏真の側近とは前述の三浦右衛門佐である。
太原雪斎については軒並み高評価が与えられ、実績も十分に残しているが、一方の三浦右衛門佐については、例えば武田四天王の一人として知られる高坂弾正忠信昌が『甲陽軍鑑』の中で以下のように取り上げている。
「今川氏滅亡の要因は、山本勘介という優れた人物が9年間も駿河国にいたのに、評判が悪かったので採用せず、三浦義鎮のような「愚者」「佞人」(ねいじん・表向きは従順にし、腹の中ではあくどいことを考えている人)を重用して政務を任せたことにある」
更には菊池寛も次のように酷評した。
「彼(三浦右衛門佐)は今川家のキャンサーだといわれている。氏真が豪奢遊蕩の中心は彼だといわれている。義元の時よりは二、三倍の誅求があるのも、皆彼のためだといわれている。義元恩顧の忠臣が続々と退転したのも彼のためだといわれている。今川家の心ある人々は彼の名を呪っている。彼の悪評は駿河一国の隅々にまで響いている」
※菊池寛『三浦右衛門の最後』より(青空文庫)
駿河で起きた政治的混乱の原因は、むろん氏真が暗君であったことは否めない。
しかし一人っきりで何もかも国をおかしくできるわけではなく、側に仕えた配下の者(三浦右衛門佐)も原因があったようだ。そしてこのとき氏真に対して追い打ちをかけるようなことが起きている。
徳川家康の独立だ。
信玄の駿河侵攻に対して大慌て
桶狭間の戦いで織田信長に敗れた後、徳川家康は駿府に戻らず、岡崎に留まった。
そして三河国を統一。
今川傘下の生活から解き放たれて、俄然、家康は勢いづく。

徳川家康/wikipediaより引用
三河国の東と接していた今川領の遠江国でも、井伊谷城主の井伊直親や引馬城主の飯尾連龍がなびき、また、北遠の天野氏が武田信玄に付き「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」状態となった。
そしてこの対処として、今川氏真はあろうことか直親や連龍を誅殺したのである。
父の敵である信長を討とうと兵を挙げるならまだしも、その最中に配下の者たちに手をかける所業は見せしめとしての効果を期待したものであったのかもしれないが、決して上策とはいえない。
そうこうするうちに家中を支えてきた祖母の寿桂尼(義元の母)が永禄11年(1568年)3月14日に死去。
同年12月、満を持して武田信玄が駿河国へ、徳川家康が遠江国へ同時に侵攻した。
今川氏は、平時は今川館(現・駿府城公園)で政務を行い、緊急時には居城の「賤機山城(しずはたやまじょう)」に籠もる。
武田信玄の駿河国侵攻が伝えられれば、当然、賤機山城に移って戦う場面であるが、駿府の今川軍は2000~2500人しかおらず、単独で武田軍と戦うことができなかったため、氏真は妻の実父である北条氏康の援軍を待った。
しかし、武田軍の進軍速度は想像以上に速い。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
援軍を待っている暇はなく、もはや逃げる他に道はナシ。
本来であれば、北条家のある東の相模国小田原へ向かうのが得策であるが、肝心の武田軍が東から攻めてきており、東へは海路で逃げるか、陸路ならば西に進むしか無い。
そして氏真は西を選択した。
12月13日、建穂寺に入る。
『武徳編年集成』に「氏真、安部川ヲ過ル迄、従者二千余。土岐ノ山家ニ至ル時ハ、纔百騎ニ足ラズ」とあるように100人程度の人数しかおらず、掛川城(城主・朝比奈泰朝)で落ち会う約束をして別れた。
北条氏康の娘である妻の早川殿は乗り物を用意できず、さらに、代々の判形(はんぎょう)を葉梨郷大沢(現・藤枝市上大沢)で紛失するほど慌ただしい逃避行だったという。
武田信玄は苦もなく駿府に入ると、賤機山城(籠鼻砦)に陣取り、今川館も美しい町並みも焼き払った。

駿府城天守台の発掘現場

四脚町(現・中町)にある駿府城の四脚御門跡(四脚門は格式の高い門で、駿河国衙の正門説、駿河守護所の正門説に加え、駿府今川館の正門説がある。)
朝比奈泰朝の忠義だけが唯一の救い
駿河を追われた今川氏真が向かった掛川城の城主・朝比奈泰朝は、今川きっての忠臣であった。
氏真が出した井伊直親殺害命令が、新野左馬助の必死の助命嘆願によ
重臣の大半は氏真を見限って武田氏や徳川氏に寝返ったが、泰朝は最後まで忠義を尽くした。

掛川城
今川氏真が駿府から追い出され、掛川城に逃げ込んだことを最も驚いたのは徳川家康であろう。
家康は、氏真が駿河・遠江両国をあきらめて相模国に逃げるか、駿府で武田信玄に討たれると思っていたはずである。
その氏真が遠江国へ逃げ込み、自らが手をかけなければならない状況を喜びはしなかったハズだ。
まだ竹千代と呼ばれていた幼き頃、人質として駿府の松平屋敷で暮らしており、氏真とは旧知の間柄。
その氏真を討たなければならない。
しかし当初は「すぐに落ちる」と思われた掛川城は、氏真が選んだ城だけあって(朝比奈泰朝が守るだけあって)、なかなか陥落しなかった。

霧吹き井戸
掛川城(天守丸)には「霧吹き井戸」と呼ばれる水源がある。
その深さ、なんと45m――。
日本で3番目に深い城郭井戸である(最も深いのは丸亀城の二之丸井戸で65m・2番目は福知山城の本丸井戸で50m)。
「霧吹き井戸」とは、徳川家康が同城へ攻め込んだ時に突然霧が吹き出し、城を覆って隠して攻撃を阻んだという伝承による。
実際、城がかなりの長さで持ち堪えられることを、朝比奈泰朝の書状から窺うことができる。
以下が原文と意訳だ。
【意訳】 不慮の事態が起き、いいも悪いも無く、今川氏真は当城(掛川城)にお移りになられた。
お供衆も2000~2500人と多く、籠城している。
食料、その他、鉄砲、弾薬、矢などは、三年~五年分はある。
(中略)永禄11年12月21日(後略)
※朝比奈泰朝外2名から大沢基胤・中安種豊宛書状。
【原文】今度不慮之儀不及是非候。当城へ御移被成、御供衆勢多被推籠候。御兵糧其外てつ放、玉薬、御矢以下五、三年之間、不足有(間敷)。爲物主可打入之由候。(中略)恐々謹言。十二月廿一日 (後略)
「朝比奈泰朝外連署状(写)」
徳川家康に掛川城を攻められ小田原へ
徳川家康の掛川城攻めは、12月22日から始まったという。
本当に3~5年は籠城できる食料と武器・弾薬があったかどうかは分からない。
しかし、いずれにせよ北条の援軍を見込めない籠城戦には限りがあった。
半年を待たずして、翌永禄12年(1569年)5月6日、氏真は家康の開城要求を受け入れ、相模国の小田原城ではなく、伊豆国の戸倉城に退去することとなった。
講和条件は「徳川家康が武田信玄を駿河国から追い出して、駿河国を今川氏真に渡す」という驚くべき内容であったとされるが、定かではない。
5月15日、氏真は、天竜川河口の掛塚湊(掛川城の南西・磐田市掛塚)から大型船に乗り、5月17日、蒲原城(静岡市清水区蒲原)に到着したという。

「海の東海道」掛塚湊
掛川城から東の伊豆国へ行く場合、「塩の道」(後の「秋葉街道」)を通って相良湊(掛川城の南東・牧之原市相良)へ行き、そこから船で伊豆国へ行くのが一般的だ。
永井随庵『浜松御在城記』(天和元年・1681年)によると、「氏真ハ、五月六日、掛川浦ヨリ乗船(掛川ヨリ相良程近候得共、敵地ニ近故、被廻候哉)」とある。
武田軍(山県昌景隊)が金谷付近まで迫っていたので相良湊を避けたとするが、私は遠江侵攻を図って今川義忠が討たれた「塩の道・塩買坂」の通過を嫌ったのではないかと想像している。
なお、このとき氏真の護衛として、徳川家康は松平定家に掛塚湊まで送らせ、礼を尽くしたという。
今川氏真は、蒲原城から先は陸路を進み、5月23日、伊豆国と駿河国の国境にある戸倉城(徳倉城・静岡県駿東郡清水町徳倉)に到着。
翌・元亀元年(1570)9月3日、今川氏真は、小田原早川の屋敷へ移った。
正室「早川殿」の名はこの屋敷の地名によるという。
兎にも角にもいったんは北条家にて腰を落ち着けることができたのだ。しかし……。
小田原にも居場所がなくなった
北条の傘のもと、一度は安堵を得た今川氏真は、すぐに戦国の非情に直面する。
元亀2年(1571)10月21日、親今川の北条氏康が死ぬと、息子の北条氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦(「甲相一和」)。
信玄は氏政に対して氏真の殺害指令を出したのである。

北条氏政/wikipediaより引用
普通の武将であれば「もはやこれまで」と切腹し、氏政は、その首を武田信玄に見せたことであろう。
しかし、こともあろうに氏真は、浜松の家康のもとへ逃げたのである。
浜松といえば、自分が誅殺した飯尾連龍の居城・引馬城があった地であり、家康と言えば、松平氏が今川氏に差し出した人質・竹千代のことであり、家康の家臣には自分が誅殺した井伊直親の息子・井伊直政がいるのである。
プライドはないのか? というより怖くはないのか?
実はこんな話がある。
かつて家康の父・松平広忠は、駿府の今川義元に助けを求めたことがあった。
この時、義元は、広忠を匿ったが、そろそろ岡崎城に帰ってもいい状況になったとして、「廃タルヲ興スハ、是、武門ノ面目也」と言って帰城させている。(『家忠日記増補追加』天文5年(1536)10月10日の条)
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家康は、この恩を知っていたのだろうか、厄介な存在であるハズの氏真を匿った。
そして天正3年(1575)1月13日。38歳になった今川氏真は、上洛のため浜松城を出る。
そして再び驚くべきことに、父・義元の仇である織田信長と会見したのだ。
信長から茶器を返却された!?
同年3月16日の京都・相国寺。
織田信長が2年前に建造した大船用の「百端帆」(木綿百反を繋いで作った大きな帆)を進上すると、信長は、以前、氏真が進上した今川家伝来の「千鳥の香炉」「宗祗香炉」のうち「宗祗香炉」を返したという。

織田信長/wikipediaより引用
さらに信長は、(氏真が)蹴鞠が得意だとという話を聞くと「4日後に行われるから、その場で披露せよ」と所望。
さすがにこればかりは氏真も怒り心頭になるかと思いきや、3月20日、相国寺において公家達と共に披露するのである。
人質にとっていた男を頼り、父の仇に所望されて蹴鞠を見せる――
常人には理解し難い場面であるが、この後、1615年の77歳まで生きているのだから、これも一つの生き方なのかもしれない。
ちなみに氏真は、駿府に下向した冷泉為益(為和の子)から和歌を
そしてこのとき信長から受け取った「千鳥の香炉(→link)」は、後に豊臣秀吉~徳川家康を経て尾張徳川家に引き継がれ、現在は国指定重要文化財として徳川美術館(愛知県名古屋市東区徳川町)に保存されている。
家康から500石を拝領して京都生活
今川氏真は、その後、家康から近江国野洲郡(500石)を受領し、京都で暮らした。
天正3年(1575)4月、武田勝頼が三河国に侵攻したと聞くと、京都を出立して戦場へ。
5月21日【長篠の戦い】の時には牛久保城(現・愛知県豊川市牛久保町)で後詰を務め、戦後は家康から牧野城(愛知県豊川市牧野町丁畑)を与えられたが、2年後には解任されている。

牧野城
また、天正3年(1575)7月中旬には、徳川家康の諏訪原城(遠江国榛原郡金谷町・現・静岡県島田市)攻めに従ったという。
「諏訪之原」は、現在の「牧之原」のことで、武田氏が築城後、城内に城の守護社として諏訪大明神を祀ったことからこの名になったと伝わる。
諏訪原城は、天正3年8月に落城し「牧野城」と改名。
氏真は同城主に任命されたが、天正5年(1577)3月1日には解任されて浜松に戻された。

諏訪原城
つまり、今川氏真は、愛知県豊川市の牧野城主であり、静岡県島田市の牧野城主でもあったのである。
学者は「氏真は島田市の牧野城主」であり、「家康としては、遠江と駿河の境目にある諏訪原城攻めを皮切りに、元領主である氏真を前面に押し出して攻め込み、武田軍を駿河から追い出そうとしたが、期待はずれだったようである」としている。
果たして本当にそうであろうか?
氏真は、牧野城主時代に出家したらしく、解任時に発給した文書には「宗誾(そうぎん)」とある(この文書が今川家宗主として発給した現存最後のもの)。
豊川市の牧野城は、牛久保の北西に位置し、牛久保には氏真が三周忌を執行した父・義元の胴塚(現・大聖寺)がある。
思うに、今川氏真が城主になった牧野城は、旧・諏訪原城ではなく、父の墓の近くの牧野城であり、家康によって城主を解任されたのではなく、父の菩提を弔うために出家して武士をやめたので、新たな城主が選出されたのではなかろうか。

大聖寺
牧野城(旧・諏訪原城)主に選ばれたのは、今川氏真ではなく、松井松平家の松平忠次である。
家康は、周の武王が殷の紂王に大勝した場所が「牧野」(ぼくや・中華人民共和国河南省新郷市)であるので、「周」を含む「周防守」、さらに「家康」の「康」の一字を与えて「康親」として、「松平周防守康親」と名乗らせたという(家康は、人質時代に太原雪斎に学んだとされるだけあって、教養があり読書家でもあった)。
ともかく諏訪原城攻めに今川氏真が参戦したことは確かなようで、同城が落ちると、氏真は次の叙景歌を詠んだ。
大井川 風立らしも 薄霧の 村々うつる 瀬々の月影
【大意】大井川の複数の浅瀬に映る月にかかる夜霧の複数の塊が動いたのは、風が吹いたためだろう
牧野城主解任後の氏真の消息は不明であるが、浜松に居たと考えられる。
『浜松御在城記』の「天正7年(1579)10月9日」の記事に氏真をもてなした記述が残されているためだ。
信長「氏真に駿河国を与えるなら返せ」
徳川家康が駿河国から武田軍を追い出すと、織田信長は、家康に駿河国を与えた。
上述のように、掛川城の開城の条件は「氏真を再び駿河国の国主とする」であったとされる。
家康は、その約束を守ろうとしたのか、『東照宮御實紀』の中には「駿河国を浜松にいる今川氏真に与えて、今川家を再興したらどうか」と信長に提案したとある。
現代人から見てもムチャクチャなこの要望に対し、織田信長は「取り柄もない氏真に駿河国を与えるくらいなら、わしに返せ」と気分を悪くしたので、家康は仕方なく自分の領地にしたという。
確かに、和歌が好きで、父の仇の前で蹴鞠を披露し、更には牧野城主すら務まらない人物に駿河を任せるのは危険であろう。
なお、このとき家康が今川家の「再興」という表現を使ったのは、氏真が出家しており、武家としての今川家が断絶したことを意味しているように思われる。
では大名・武家としての今川家は、一体ドコで滅んだと考えるべきなのか。
一般的にその滅亡は「掛川城の開城」を以て終わったとされる。

掛川城
しかし、戦国大名としての今川氏は滅亡しても、氏真は生き続けた。それもかなりしぶとく人生を永らえた。
彼は戦国大名としての人生の前期に終止符をつげると、文化人としての後期になると、浜松を出て京都四条に住み、今川入道仙巌斎(仙岩斎)と名乗って思うがままに活動範囲を広げている。
山科言継(やましなときつぐ)の『言継卿記(ときつぐきょうき)』によれば、上冷泉家6代為満邸で開催される「月次和歌会」にも出席するなど、山科家を中心に、駿府で知り合った公家や文化人と交流して過ごしたという。
そして慶長17年(1612)4月。
今川氏真は、駿府で家康に面会すると、旧知行地である近江国野洲郡(500石)を再び与えられ、さらに品川に屋敷を得て京都から江戸に移り、「品川殿」と呼ばれた。
なかなかに 世にも人をも 恨むまじ
戦国大名としては二つと例のない数奇な運命をたどった今川氏真。
討死も切腹もせず天寿を全うし、夫婦仲も良好であった。
信玄から殺害命令が下されると、元は臣下であった家康に助けを求めて生き長らえ、父の仇の信長に蹴鞠を見せたのも、本当に「プライドがなく」「世渡りが上手だったから」なのであろうか?
もしかしたら妻の「何が何でも生きて欲しい」という願いに応えようとした――夫婦愛ゆえの忍耐だったのではなかろうか。
慶長18年2月15日(1613年4月5日)、長年連れ添った妻(早川殿)と死別すると、翌・慶長19年12月28日(1615年1月27日)、彼女を追うようにして氏真も江戸で死去。
享年77(78とも)であった。
遺体は市谷(現・東京都新宿区市谷田町)の萬昌院に葬られる。
萬昌院は、寛文2年(1662)に牛込(東京都新宿区牛込)へ移り、現在は中野区上高田へ。
赤穂浪士の討ち入りで有名になった吉良上野介の墓がある萬昌院功運寺だ。
寛文2年(1662)、萬昌院が牛込に移る時、氏真の孫(範以の子)の今川直房は、姉がいた武蔵国多摩郡下井草(現・東京都杉並区井草)の観音寺を上井草(現・東京都杉並区今川)に移し、氏真夫妻の墓を萬昌院から移し、氏真を観音寺の開基とした(後に観音寺は、観泉寺と改名した)。
今川氏真の辞世は以下のものである。
なかなかに 世にも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして
【大意】 世の中も、人も、恨むまい。「この時代に合っていなかった」ということが、この身の罪なのだから。
果たして戦国大名・今川義元の子に生まれたことは、氏真にとって吉だったのか、凶だったのか。
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