井上之房(井上九郎右衛門)/wikipediaより引用

黒田家

官兵衛の腹心・井上之房(九郎右衛門)が大河で魅せた一騎打ちの真相

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ドラマでは見せ場となった一騎打ち、実は……

『軍師官兵衛』では、ラスト間近に九郎右衛門(井上之房)が一騎打ちを繰り広げる見せ場があります。

相手は、吉弘統幸。

彼についても簡単にふれておきましょう。

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吉弘統幸は、大友氏の家臣です。

永禄6年(1563年)に誕生。勇猛果敢な武将として成長していった統幸ですが、主家・大友氏は衰退してゆく一方でした。

そんな中でも統幸は、島津家との戦い等で活躍を見せています。

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彼の転落が決定的になったのは、朝鮮出兵の際でした。

主君である大友義統により、戦意不十分であるとして改易されてしまったのです。

このときの義統の処分は理不尽なもので、諸大名を驚かせました。

しかし大友家の君臣は、この処分に耐えるほかなかった。

そんな折、統幸は豊前国中津の黒田家に招かれ、このとき九郎右衛門(井上之房)の家に預けられていたのです。

二人の因縁は、こうしてできました。

統幸は後に、従兄弟にあたる立花宗茂の元に身を寄せ、2千石を与えられて仕えることになります。

そして運命の慶長5年(1600年)を迎えます。

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【石垣原の戦い】での再会

慶長5年の九州情勢はなかなか複雑です。

統幸も、選択を迫られていました。

立花家は西軍につき、旧主・大友家は徳川家につく予定だと知ったのです。統幸は東軍につくことにして、立花家を去りました。

ところが……。

大友義統は乾坤一擲の大勝負に出ました。

西軍につき、大名として復帰する賭けに出たのです。

統幸は旧主に東軍へつくよう進言しますが、聞き入れられません

仕方なく細川忠興の領土に攻め込み、快進撃を続けます。

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ここに待ったをかけるべく乗り込んで来たのが、黒田官兵衛率いる軍勢でした。

両者は、石垣原で激突(石垣原の戦い)。

統幸は得意の戦術で黒田勢を苦しめますが、徐々に追い詰められてゆきます。

もはや叶わぬとなるや、世話になった井上九郎右衛門に功をあげるため、統幸は自刃して討たれました。

これが、大河ドラマでは一騎打ちとしてアレンジされています。

名将であった統幸を失い、大友勢は崩れました。

そして大友義統は黒田勢に降伏。

九郎右衛門は統幸部隊を討った功績もあってか、1万6千石にまで加増されて、関ヶ原を終えるのでした。

井上之房/wikipediaより引用

慶長20年(1615年)大坂冬の陣には、九郎右衛門は黒田忠之(長政の子)に従い参陣。

寛永2年(1625年)頃には隠居したと見られ、孫に家督を譲ると、隠居・剃髪して半斎道柏と名乗っています。

そして寛永10年(1633年)、最晩年に【黒田騒動】という困難に直面しながら、翌年、死去。

栗山善助と同じく、非常に長生きとなる、享年81でした。

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文:小檜山青

【参考文献】
渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)』(→amazon
安藤英男『黒田官兵衛のすべて』(→amazon
『国史大辞典』

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