駒姫

駒姫と豊臣秀次/wikipediaより引用

最上家

駒姫(最上義光娘)の死は理不尽の極み~東国一の美女が連座で処刑

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山形県民があの大河に苦い顔をした理由

野心説とあわせて考えられるのが、天正19年「九戸政実(くのへまさざね)の乱」のときの話です。

その際、山形城に立ち寄った秀次に対して駒姫が接待をしたというもので、現在も人気のある大河ドラマ『独眼竜政宗』でも出てきました。

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実はこの話には出典があります。

伊達政宗の家臣である伊達成実(しげざね)が記した『成実記』にこんな記載があるのです。

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「最上在陣の折、駒姫を秀次に差し出した。大名とは思えないほど卑屈なことだと噂していたところ、この始末。天下の笑いものになったことこのうえない」

成実による「ざまあみろ」とでも言いたげなこの記述を読むと、いくらアンチ最上だからと言ってここまで書く必要があったのか、と思ってしまいます。

この記述は広く信じられました。

顔も見ずに恋するなんておかしいと思う人も多かったからでしょう。

しかし、この記述はおかしいのです。

肝心の「秀次が最上在陣の折」というタイミングですが、このときの秀次進軍ルートに山形城は入らなかったのです。

さらに最上家や瑞泉寺に伝わる記録では、駒姫は生前、秀次の顔を見たことがないとされています。

ゆえに、接待説はありえず、

・駒姫は生前の秀次に出会ったことがなかった

・伊達成実は嘘までついて最上を貶めた

ということでよろしいのではないでしょうか。

どうにも『成実記』は、最上に関しては事実をねじ曲げた記述があるようです。

「山形県民が『独眼竜政宗』にクレームを入れた」ことを現在でも批判的にとらえる意見があります。

しかしあの作品は『最上義光関連で最も大切にして欲しい』と山形の人が考える駒姫について多くの誤解を招く表現がありました。

義光が駒姫に秀次への接待をさせた場面。

さらに義光の目の前で献上された駒姫を秀次がなで回す場面。

政宗正室の愛姫に義光が頭を下げ、駒姫の助命嘆願をするという場面。

いくら何でもちょっとやり過ぎですし、放送当時にツイッターがあったならば炎上しかねない内容でした。

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「東国一の美少女」その噂が不幸の始まり

ここまで整理して考えると、古くから伝わる「東国一の美少女」という噂を聞きつけた秀次が、駒姫を強く所望した――という説でよろしいかと思います。

両親ともに足利一門の血を引く(父・最上氏/母・大崎氏)という、駒姫の血筋の良さも関係しているのかもしれません。

しかし残念ながら、こうした伝説的な断片情報だけでは、駒姫が具体的にどんな容姿であったか、どんな性格であったか、そうした情報はほとんどありません。

処刑の様子を目撃した証言では、まだ幼さを残す花のつぼみのように可憐な姫君であったと伝わります。

駒姫には大変かわいらしい、萌え絵にも通じるタッチの肖像画があり、以前は図説等で見かけました。

しかしこの絵は大正時代のものですので、当時の姿を伝えるものではありません。

おそらく最古と見られる供養のために描かれた肖像画は瑞泉寺に所蔵されていますが、こちらは他の秀次妻子と顔の特徴がほぼ変わらないので、あまり参考になりません。

そんなおぼろげな姿でありながら、いやだからこそ想像の余地があるのか、彼女の最期は伝説化していきます。

かなり早い時期から、秀次の顔すら見ていないのに死を迎えた姫君として名が広がっていくのです。

秀次の妻のうち、おそらく現在最も知名度が高いのが彼女でしょう。

こうした伝説の中には、後世の人が後で付け加えたと思われるものもあります。

駒姫誕生の際に一度母親が提案した名前が変えられた。

誕生祝いに「連歌会」を開催しようとしたが「レンガシ」の意味がわかるものがおらず中止となった、そしてそのことを政宗が不吉だとコメントした。

処刑赦免の早馬が刑場に向かっていて、あと一歩のところで処刑されてしまった、等。

どれも悲劇性や不吉な予感を高める効果はありますが、事実とは思えません。

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