織田信忠

織田信忠/wikipediaより引用

織田家

信長の嫡男・織田信忠が生き残れば織田政権は続いた?26年の儚い生涯

天正三年(1575年)11月28日は織田信忠が父の織田信長から家督を譲られた日です。

本能寺の変が起きたのが天正十年(1582年)6月2日ですので、その約5年半前のこと。

つまり信長が死ぬまでに十分な時間があり、織田家を率いていても問題なかったはずですが、現実はそうなっていません。

信忠もまた、謀反を起こした明智光秀に追い詰められ、自害してしまったからです。

事件の当日、織田信忠は本能寺から少し離れた二条御新造にいました。

明智軍の軍勢は迫ってはいましたが、信長を囲むほど厳重な包囲網ではなかったはず。

ならば逃げられたのではないか。なぜ信忠は自害という最期を選んでしまったのか。

そもそも信忠とはどんな人物だったのか?

普段は父に隠れてあまり目立たない、織田信忠の生涯を振り返ってみましょう。

※以下は織田信長の生涯まとめ記事となります

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奇妙丸 母は不明

織田信忠は弘治三年(1557年)、父信長の本拠・清洲城で生まれました。

幼名は「奇妙丸」。生まれたばかりの息子を見た信長が

「奇妙な顔をしている」

と思ったのでこう名付けた……というのが定説です。

このため成長後、元服前後くらいまで文書の中で「御奇妙様」と呼ばれることがあります。

”奇妙”には「不思議」「風変わり」の他に「非常に面白みがある・趣がある」という意味も存在するので、必ずしも悪い名前だけでもないのですが……「御」がつくとなんだかシュールですよね。

信忠の庶兄として「織田信正」という人がいた説もありますが、存在は疑問視されています。

まぁ、信忠の扱いからすると、仮に信正がいたとしても大して影響がなさそうというか、信長が信忠を嫡子として扱っていたことは変わらないのかもしれません。

気になるのが信忠の生母です。これが不明でして、かなり心もとないですが、生駒氏(吉乃)という説が一応はあります。

次男の織田信雄(茶筅)や五徳/徳姫(徳川信康正室)と同母きょうだいになるのですが、吉乃の存在があやういので話半分で聞いておくのが良さそうです。

いずれにせよ信雄とは一歳差で幼い頃から仲が良かったのか、成長後にたびたび手紙のやり取りをしています。

信雄からの陣中見舞いに返事したり。

手紙の中に「帰ってから直接いろいろ話そう」と書いていたり。

信長はすぐ下の弟・織田信勝(信行)を確執の末に誅殺したことはよく知られていますが、次世代ではそうした事態はなかったのでしょうね。

まぁ信長も、信勝以外の弟たちとはそこまで不仲でもないので、信勝が例外かもしれません。

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初陣は浅井が相手

少年時代は何かとヤンチャな逸話が多かった信長。

その息子となると、さぞ……と思うかもしれませんが、織田信忠は幼い頃から従順な性分だったようで、特に目立った幼少期のエピソードは伝わっていません。

元服の時期は天正元年(1573年)7月頃と目されています。

以降、しばらくの間は「信重」と名乗り、通称として「管九郎」を使っていました。

書面に登場するようになるのは元亀三年(1572年)7月の北近江・浅井氏攻めで、これが信忠の初陣となりました。

信長よりも2年ほど遅い初陣ですが、当時の織田家と比較すると自然な状況と言えるでしょう。

織田家の動向を年表でザックリまとめるとこうなります。

【1550年代後半】信長vs信勝(弟)

【1560年代前半】桶狭間の戦い・清洲同盟

【1560年代後半】美濃を手に入れ上洛へ

【1570年前後】朝倉・浅井氏と対立

信忠の元服・初陣は、織田家の足元が一旦落ち着き、これから駆け上がっていこうとする時期だったのですね。

ただし、織田家が伸びれば伸びるほど、周囲からの反発も大きくなり、信忠の初陣から2年後の天正二年(1574年)7月には第三次長島一向一揆が勃発。

このときは叔父の織田信包や、重臣・森長可など、親族を含めた美濃や尾張の武将を率いて参戦しました。

おそらく信長はこの時点で美濃・尾張の人々と信忠の連携を強めるべく、同行させたのでしょう。

年若い信忠の補佐をさせる意味もあったはずです。

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長篠の戦い・岩村城の戦い

こうして少しずつ経験を重ねていった織田信忠。

彼が本格的に一軍の将として行動し始めるのは、天正三年(1575年)【長篠の戦い】からです。

このときは信長が後から出陣し、信忠はそこに合流後すると最前線には出ていません。信長としては「一人で兵を率いて遠方へ向かう経験」を積ませたかったのでしょうか。

あるいは信忠の性格を考慮してなのか、息子を案ずる気持ちが勝ったのか……他の理由があった可能性もありますし、その全てだったとしてもおかしくないですね。

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むしろ信忠の動きについていえば、長篠の戦いよりもその後のほうが重要かと思われます。

同盟相手である徳川家の家臣であり、長篠城を守っていた奥平信昌らの褒賞にあたっているのです。おそらくは織田家の後継ぎとして顔を見せる意味もあったのでしょう。

信長は帰国後に北陸へ、信忠はそのまま武田方に奪われていた岩村城の奪還に向かいます。このあたりから信長は信忠を大将に任じ、別行動を取るようになりました。

もちろん信頼できる家臣をつけていますが、「自分が直接見ていなくても問題ない」と思ってのことでしょう。

佐久間信盛が信忠の後見になっており、信長は信盛への手紙で

「度々申し付けているが、信忠は若いので、よく面倒を見るように」

と記しています。親心と武将としての厳しさがうかがえますね。

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現代では”優等生”のような評価を受けることが多い信忠ですが、若い頃の信長に似て激しさを見せる面もあったと思われます。

この後の信忠の言動で、それらしき話がたびたび出てくるのです。

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