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【第六天魔王・信長】
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皇族や貴族、将軍家などが歴任した天台座主
信玄が自称したという「天台座主」とは、当時一大勢力を誇った天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職(貫主)を指す言葉です。
「沙門」は僧侶、修行僧と言うような意味になります。
「天台座主」という言葉は、創設された当初こそ「比叡山で一番偉くて賢い人だよ」という位の意味に過ぎませんでしたが、途中から太政官(政府の一番偉い人)が任命する公的な職業となり、主に皇族や貴族、足利将軍家出身の僧侶などがこの職を歴任するようになりました。
有名な所では一旦天台座主に就いた後、足利第六代将軍として還俗した義圓=足利義教などが挙げられますね。
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この義教も将軍宣下の後に比叡山と対立して焼き討ちを強行、やはり第六天魔と呼ばれています。
比叡山に敵対する者はとりあえず第六天魔と呼んでおけ、というローカルルールでもあったのでしょうか。
ともかく信玄と信長の書状がやりとりされたのは、信長が延暦寺を焼き討ちし、時の天台座主であり正親町天皇の弟であった覚恕法親王が武田領に保護された後の事。
当然、信玄公から信長公に宛てて、「焼き討ちするとは何事か!」という糾弾する書状が送られたのですが、その封筒辺りに問題の「天台座主沙門信玄」と言う署名がされてあったのだそうです。
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「勘違いする奴はすればいい!俺は正しい!」
実際に覚恕法親王が信玄公に天台座主の位を譲ると言ったのか。
それとも信玄公が譲ってもらえるだろうと思ったのか。
一種のジョークだったのか。
真実は不明なれど、「天台座主沙門信玄」の意味を汲み取るとすれば「天台宗は俺が保護するし、天台宗の宗徒は俺に味方する事になってる!」、だから「お前(信長)は仏敵な」とか。
もしかしたら「俺は入道だし、上洛も間近の武田の頭領だ。つまり足利将軍家や天皇家のように、天台座主に就く資格がある男ってことだ」という意味もあったかも知れません。
まあ確かにフロイスに「信玄が調子に乗ってる」と言われても仕方がない側面もありますが、信長公サイドでも、天皇の弟が座主をつとめていた延暦寺を焼き討ちにした時点で非難される事は充分に予想がついていたはずです。
普通に考えれば「自分は仏敵だ!」と捉えられ、さらなる非難の対象にされる「第六天魔王」だなんて署名を返してやるべきではありません。
書状の内容がまともだったとしても、その署名だけで色々と台無しです。
とはいえ、人の噂や世間の常識、建前や偽善、迷信を嫌う、信長の清々しい性格を考えると、「勘違いする奴はすればいい! 俺は正しい!」というスタンスも垣間見えますね。
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