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【信長の皇位簒奪】
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根拠4 御馬揃え
「京都で行われた馬揃いで、正親町を威圧し続けた」
これはどういうことでしょうか。
【京都御馬揃え】とは、信長が御前で催した軍事パレードのこと。もともと騎馬を集めて、その優劣を競う行事でした。
この儀式に対して、信長が朝廷へ軍事的に威圧することを目的としたと解釈する向きもありますが、あまりの面白さに、正親町天皇は
「アンコール!」
とばかりに再演を要求したほどです。
「威圧感」の微塵も感じられません。これも根拠とはなりません。
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正親町天皇も意外にしたたかだった
以上からしますと、信長は皇位を狙ったとする根拠はどれもあやしいものばかり。
「信長は皇位簒奪を目指していた」というのはキャッチ―でつい乗っかりたくなりますが、どうもそんな事実はなかったようですね。
信長のカリスマ性の高さと、皇位を奪われそうに見えた正親町天皇の頼りなさとがオーバーラップし、人々に思い込ませてしまったのかもしれません。
恐るべし、信長!
と、こうして見ると正親町天皇は常に受け身で、信長にやられっぱなしの印象を持つかもしれません。
逆です。実はしたたかなやり手でした。
1582年、本能寺の変で信長が殺された時のことです。
変の4日後、正親町天皇は安土を占拠した明智光秀のもとへ勅使を派遣しています。その直後、光秀は上洛し、正親町は京都の平穏無事を光秀へ求めています。
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この先、世の中はどう転ぶかわかりません。
信長の代わりに光秀が天下を取る――そう考えたとしてもおかしくなく、光秀にツバをつけておいたのでしょう。
つまり、正親町天皇は、もし仮に光秀が天下をとるようなことがあった場合、朝廷の庇護者になってもらうように、手を打っておいたと考えられます。
その後、山崎の戦いで光秀は秀吉に敗れ、天下は豊臣政権へと移りましたが、こうした「先手必勝」の交渉はその後も続けました。
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勅使派遣、任官など、秀吉への対応は緻密さをますばかりです。
こうして正親町は在任期間、織田信長・豊臣秀吉という偉人と対等にやりあい、両者から多大な経済的保護を受け、皇室社会に安定と豊かさをもたらしました。
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乱世の時代に、武力ではなく交渉のみで皇室を改善した正親町天皇こそ、真のヤリ手といえるでしょう。
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【参考文献】
藤井譲治『天皇と天下人 (天皇の歴史)』(→amazon)
山田朗/歴史科学協議会/木村茂光『天皇・天皇制をよむ』(→amazon)