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【溝口秀勝】
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兄弟で袂を分かち秀吉方へ 弟は……
お城の立地的には、近所の越前国に北ノ庄城(福井県福井市)があり、織田家の重臣of重臣である柴田勝家がおりました。
が、溝口秀勝さんは【山崎の戦い】で主君の仇を討った秀吉に味方をする道を選びます。
まさに、情勢を見抜き切った見事な判断!と言いたいところですが、実はそうではないんです。
溝口秀勝さんも、大河ドラマ『真田丸』の真田家と同じく苦渋の決断をしているのです。
本能寺の変が起きた翌年の天正11年(1583年)――近江国(滋賀県)で、羽柴秀吉と柴田勝家による【賤ヶ岳の戦い】が起きました。
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このとき溝口秀勝さんは羽柴秀吉の軍勢に加わり、大敗した柴田勝家の軍勢を追撃して大活躍をしています。
溝口家にとっては最高の結果!としたいところですが、事はそう単純ではありませんでした。
敵軍の中に、なんと実の弟である溝口勝吉がいたのです。
【関ヶ原の戦い】の真田家同様、御家の名を残すために家族で敵味方に分かれたためでした。
この追撃戦で、実弟は討ち死にをしてしまいます…。
一方で、溝口秀勝さんは武功により、高浜城5,000石から加賀国の大聖寺城(石川県加賀市)4万4,000石の大名へと大出世を果たしました。弟の犠牲の上に出世したその心中、いかばかりか……。
※大聖寺城はshiro itibannさんのナイス画像をツイート引用させていただきます
加賀市 大聖寺城わず。 pic.twitter.com/1RbFsEPMHL
— shiro itibann (@muku069) April 20, 2019
秀吉から「豊臣」の姓を与えられるほど
北陸の城主になった溝口秀勝。
当時のポジションは、北ノ庄城の新城主であり、かつての主君だった丹羽長秀の与力でした。
与力とは、身分的には対等ながら、合戦時には指示下に置かれる立場であります。
しかし天正13年(1585年)に丹羽長秀が病死すると、溝口秀勝さんは羽柴秀吉直属の独立した大名となり、秀吉の一字をもらって「定勝」から「秀勝」へと改名をしています。
※独立した大名ではなく、新たに北ノ庄城主となった“名人久太郎”こと堀秀政の与力ポジションだったという解釈もあります
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引き続き、秀吉から大きな信頼を得ていたのでしょう
北陸の有力大名となった溝口秀勝さんは、独立2年後の天正14年(1586年)、秀吉から「豊臣」の姓を与えられるほどになっています。
そして、文禄元年(1592年)から始まった【朝鮮出兵(文禄・慶長の役)】では、秀吉が本陣として築いた肥前国の居城・名護屋城(佐賀県唐津市)を守備する大役も務めます。
秀吉の本営のお城の管理だなんて……さぞかし凄まじいプレッシャーだったでしょう…。
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このプレッシャーを克服して任務をキチンと果たした溝口秀勝さん。
慶長3年(1598年)に越後の上杉景勝が陸奥国の会津(福島県会津若松市)に加増移封するのにリンクして、越後にお引っ越しすることとなりました。
新たに与えられたお城というのが、お待たせ致しました、新発田城でございます!
初めて城主となり実弟と別れを告げた高浜城時代が5千石で、天下人秀吉の信任を得た大聖寺城時代が4万4千石――そして新発田城主になって6万石を領することになりました。
祝・大出世!
関ヶ原では越後で大活躍
新発田城は、もともと越後の国衆だった新発田家の居城でした。
上杉景勝に対抗して【新発田重家の乱】を起こした新発田重家が有名ですね。
溝口秀勝さんはそのお城を大改築して本拠地とします。
その後、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、溝口秀勝さんは次期天下人候補の徳川家康からも厚い信用を得ることとなります。
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キッカケは、慶長5年(1600年)【関ヶ原の戦い】でした。
このとき美濃の関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で起きた本戦には参戦しておりませんが、越後で起きた【上杉遺民一揆(越後一揆)】合戦で大活躍。
会津へ転封になった上杉景勝の旧臣たちが、新領主・堀秀治などに反発した一揆であり、溝口秀勝さんは一時苦戦しながらも鎮圧に成功するのです。
「一揆を鎮圧するなんて戦国武将としては当然!」とも思えますかね?
しかし、これは精強な上杉旧臣たちの反乱。なかなかタフな戦いになったようです。
そのため、鎮圧した功績を徳川家康から非常に評価され、溝口秀勝さんは感謝状を受け取って所領を安堵、新発田藩の初代藩主となったのです。
そして10年後の慶長15年(1610年)、新発田にて亡くなりました。
お墓は肖像画を所蔵している宝光寺(新発田市)に建てられています。
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