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【信長による美濃と稲葉山城の攻略】
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風前の灯火 斎藤家が最後の戦い
中濃を制し、東濃を武田家との緩衝地帯にした信長の次の目標はいよいよ斎藤龍興の居城、稲葉山城です。
しかし稲葉山城を攻めるには地理的に困難で、織田家では信秀の代からなかなか克服できないでおります。
地図を見ると、小牧山城と稲葉山城は直線距離で僅かな距離。
木曽川の支配圏を得た今、得意の電光石火の進撃で一気に木曽川を渡ってしまえばいいじゃん、と思いたくなりますが、この木曽川が信長の直線的な進軍を依然として妨げていたのです。
木曽川は度々氾濫を起こしていましたので、両岸のかなりの面積で人が住めないような沼や小さな支流が延々と連なっていました。
前回、犬山城主の織田信清が反旗を翻した理由に、信長の岩倉織田家攻めの分け前に不満を持っていたと紹介しましたが、
信長が初めて築いた小牧山城が織田家の戦略を一変!狙いは信清の犬山城だった
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信長が信清に与えた分け前が、まさにこの木曽川沿いの、家や田畑も作れない、資産価値ゼロの湿地帯でした。そりゃ信清さんが怒るのも分かります。
木曽川を渡って美濃方面に入っても状況は同じです。
延々と続く湿地帯、その先には大軍団の投入が可能な広大な平野で斎藤方の軍勢が待ち構えています。
では新しく支配下に置いた中濃地域から稲葉山城に攻め込めば?
そう考えたいところですが、信長の主力軍をいったん中濃地域に入れるには、猿啄城のある場所のような狭隘な渓谷を大軍団が抜けていかなくてはなりません。
こんな目立つ行軍をしていては先に中濃地域に斎藤方の軍勢を入れられてしまいますし、ガラ空きの尾張を西美濃から狙われます。
結局、中濃を押さえとしつつ、稲葉山城方面には直線的に南から、または反時計回りで西から旋回して攻め込むしかありません。
どうしたものかと思案しているうちに永禄9年(1566年)になり、足利義昭(この頃は義秋)より上洛の協力要請が信長の下に届きます。
義昭は、このころ近江にいましたが、上洛するのに軍勢を必要としていました。
破竹の勢いと過去の莫大な献金のお陰か、この頃の信長には既に足利将軍家にも名が通った存在。信長は即座に応えます。
義昭は信長の遠征を早めるために斎藤家との停戦を仲介しました。
しかし停戦したからといってやすやすと将軍家の元に駆けつける信長ではありません。この停戦期間を利用して、少しでも美濃に橋頭堡を作ろうと企みます。
おそるべし信長。
おそるべし戦国。
もはや足利将軍家の権威などありません。
信長は近江に援軍を出すという名目で、軍勢を尾張の北方から木曽川を渡河させます。
斎藤家からすれば、尾張から京都方面に行きたければ街道沿いに尾張の西から木曽川渡れよとツッコミを入れたくなる、あからさまな稲葉山城への威力偵察です。
この永禄9年に信長は2度、尾張の北から美濃に侵入した記録が残っています。
信秀の代から失敗続きの尾張北方面からの木曽川渡河ですが、この時もいち早く軍勢を出してきた斎藤方に進撃を阻まれ尾張に退却。
2回目は大雨による木曽川の増水で自軍が流されてしまいます。
こんなことをしているうちに、足利義昭はなかなかやって来ない織田家に見切りをつけて、越前の朝倉家を頼って一乗谷へ向かってしまいます。
信長にとっては将軍家を逃すという大失策でしたが、将軍家から声が掛かるという一件は美濃の保守派、すなわち斎藤家先代までの重臣たちの心を動かすにはかなり有効でした。
また武田信玄との婚姻政策も、斎藤家をオワコン宣言するのに十分な宣伝材料となりました。
そしてついに呼応したのが、かねてより調略を進めていた【西美濃三人衆】といわれる
・安藤守就
・稲葉良通(稲葉一鉄)
・氏家直元(氏家卜全)
です。
安藤守就は斎藤家の筆頭家老にして竹中半兵衛重治の稲葉山城乗っ取り事件の時にも支援したとされる美濃の大物。
氏家直元は氏家卜全の名で有名な武将ですが、大垣城より西はほぼ氏家家の領土という、美濃で最大の領地を持つ重臣でした。
この三人が斎藤家を見限った経緯は詳しく伝わっておりません。
おそらく、中濃を失い、武田家との連絡も絶たれた風前の灯火の斎藤家より、織田家の支配下に入った方が領土権益を確保できると判断した、あるいは地道な調略で説得したのでしょう。
織田家には美濃出身の美濃衆だけでなく、木曽川の管理権を牛耳る川並衆、また木下藤吉郎秀吉という出自不明のタフネゴシエーターがいます。
出自不明なやつに話なんかしたくないという、お高い重臣クラスのVIPには丹羽長秀という内応問い合わせセンターも機能しています。
また、中濃地域には斎藤利治が復帰して、主家が存続しているどころか斎藤家出身でも活躍次第で城持ちになれることを実証。
中小の国人だった美濃出身の森可成や川尻秀隆にも金山城や猿啄城が与えられています。
三代目JSBのメンバーから漏れてしまい、出世の夢も絶たれてしまった美濃の国人衆や、先代までの重臣だった西美濃三人衆にとって、これだけの状況下では
「ちょっと見積もりだけでも相談しようか」
となるのは自然の流れでしょう。
イージス「稲葉山城」
永禄10年(1567年)になり、西美濃三人衆がこぞって信長へ人質を差し出すと申し出てきました。
一報を聞いた信長は、人質の受け取りに村井貞勝と島田秀満を派遣します。
が、信長は人質の受け取りを待たず、電光石火の進軍で一気に美濃へ乗り込みます。
え?
いくらなんでも早すぎるって?
ええ、それが織田信長の進軍なのです。
仮に三人衆の内応が虚報で斎藤家の計略だとしても、人質が小牧山城に到着してから織田方は軍を動かすと計算しますので、この電光石火の進軍では信長を罠にハメる方も準備が整いません。
また西美濃の三人衆が味方についたということは、斎藤家の領土の西半分が織田家についたということになります。
これは斎藤家の軍を構成するほとんどの兵力が参戦しないことを意味します。
さらに三人衆の領地は木曽川の西側を占めますので、信長は、側面からの反撃を一切気にせずに稲葉山城の城下町「井口」まで進軍が可能となります。
信長が木曽川のどこから渡河したかは記録には出てきません。
考えられるルートは、最短ルートの「笠松と無動寺の渡し」の両方からの渡河です。
犬山城から伊木山城方面に渡河するルートは、大方の国人衆が織田方に内応しているとはいえ、敵地での行軍時間が長くなり危険です。
また木曽川下流の尾張の西側から渡河する竹ヶ鼻ルートは二代目の斎藤義龍が死んだ直後に攻め込んだ実績があり、氏家直元の領地も通るので安全ですが、小牧山城からは遠過ぎます。
結局、信長は抵抗を受けることなく稲葉山城下まで進軍します。
無傷でここまで来れたことが西美濃三人衆の内応が間違っていないことも同時に証明しました。
稲葉山城は長良川沿いの幾つかの山が連なった山塊の北の山に本丸があり、南には深い谷を挟んで「瑞龍寺山」とよばれる山があります。
この瑞龍寺山のほかにも本丸を囲むようにに4~5つほどの山があり、これを奪ってしまえば天然の付け城の完成となります。
また稲葉山城は平場が少なく各曲輪が狭かったので大兵力での籠城は難しかったようです。山頂には井戸すら無く、雨水を貯めて飲み水にしていました。
信長は柴田勝家、佐久間信盛を先鋒に、瑞龍寺山を一気に占拠し、城下の井口の町を放火します。もうやりたい放題。
その頃にようやく西美濃三人衆が血相を変えて信長の元に参陣しました。
この時点ですでに斎藤方は完全に詰んでいたと見るべきでしょう。
稲葉山城に籠もったところで兵力は僅かしか収容できません。
援軍も望めず、城下も焼かれ、稲葉山城は裸同然。
一見、難攻不落に見える稲葉山城ですが、竹中半兵衛に少数で占拠されたり、後年の関ヶ原の戦い前哨戦である【岐阜城の戦い】でもあっさり落城していますので、城そのものの防御能力は非常に低いと言わざるを得ません。
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このことから稲葉山城は本来の「詰めの城」という役割より、山頂の本丸から遥か遠くまで見渡せる特徴から、木曽川や長良川を防衛ラインとして広大な濃尾平野を戦略的に生かすためのレーダーやイージスシステムのような役割だったと考えます。
眺望のきく稲葉山(金華山)は敵の攻撃や侵入を真っ先に感知して迎撃を繰り出すための装置だったのでしょう。
城主が優秀であれば、そのシステムの能力も最大限に引き出せます。
しかし逆に無能であれば、システムの運用には何が大事か分からず、得られた情報に意味を持たせることすらできず、せっかくのイージスシステムも単なる「見張り台」としか機能しません。
道三や義龍は、織田方の侵入を感知したと同時に大兵力を木曽川まで繰り出す迎撃態勢を取っていました。
これが稲葉山城のイージスシステムです。
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ところが斉斎藤龍興はイージスシステムの運用の要である「兵力」を調略であっさり失っていました。
「龍興は無能ではなかった」とする説も最近では耳にしますが、ここまで見てきて軍事に関しては優秀さを示す根拠に乏しいと言わざるを得ません。
ルイス・フロイスの『日本史』にも信長の稲葉山城攻めの記述があります。
こちらは信長が龍興方の背後に伏兵を入れて挟み撃ちにしたとあります。
いずれにせよ今まで木曽川の渡河ポイントでしっかり迎撃できていた斎藤家は、この頃までには迎撃どころか兵すら集まらない状態になっていたことが分かります。
これではせっかく稲葉山城で信長の侵入をいち早く感知できても何もできません。
稲葉山城攻めでは、木下藤吉郎秀吉が東の山から蜂須賀小六などと共に山を登り、二の丸の食料庫に火をかけたという話がありますが、稲葉山城の本丸を取り囲む山々はすべて織田方の手に落ちたのではないでしょうか。
斎藤龍興は数名の家臣と共に、城下の混乱に乗じて長良川を下り、一向宗が支配する伊勢長島へと落ち延びて行きました。
そして「岐阜城」へ
信長はついに稲葉山城の攻略を果たしました。
この後、稲葉山城を大改造して「岐阜城」を完成させ、さらに居城を小牧山から美濃にお引っ越しをするという、またまた破天荒な行動を起こすのですが、今回はここまで。
中濃地域の戦いでは信長自身が多くの経験を積むことができました。
犬山城で初めて山城の攻城戦を経験してからは、ひたすら山城の攻城戦が続きました。
また野戦においても退却戦を経験したり、調略を織り交ぜて複合的に相手を追い詰めたり、あらゆる手段を使う総力戦で相手を屈服させる術を身につけたのです。
これから岐阜城に移って、織田信長も全国区のメジャーな武将へとなっていくわけですが、この美濃攻略戦で戦略・戦術を高める貴重な経験ができたことは大きいですね。
城についても「城は火攻めに弱い」という弱点の克服するために築城に新たな革命を起こすことになります。
そして信長は山頂にそびえる稲葉山城という美濃のイージスシステムを手に入れ、世の中に対する明確なビジョンを持ち始めます。
「殿!あれが美濃防衛の要、イージスシステムでございますぞ!」
「遅い」
「はっ?」
「イージスシステムの運用を短縮せい!」
「ならば全力で駆け降りて殿に情報をお届けに参りまする!」
「遅い」
「と、飛び降りてでも」
「遅い!」
「ではどうしろと……」
「ワシがあそこに住めばよい」
「はっ?」
「ワシがイージスになる!」
「良き考えにございます、殿!ゆくゆくは天下のイージスとなればよろしいかと」
「であるか!これが天下布武じゃ!!」
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筆者:R.Fujise(お城野郎)
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。