稲葉山城の戦い(1567年)を解説した記事|織田信長が美濃を平定した戦略をまとめています

岐阜城/wikipediaより引用

織田家

稲葉山城の戦い|信長の“美濃攻略” 実は信玄に気遣いながらの大戦略だった

2024/10/29

織田信長は尾張を統一した後、どうやって美濃を攻略したか――。

後に天下人となったことから「隣国の一つや二つ、簡単に落としたんじゃないの? しかも美濃は斎藤道三がいなくなって楽勝でしょ」といった印象もあるかもしれませんが、そうは問屋がおろしてくれません。

美濃には稲葉山城があります。

そして城から見下ろす平野の先には川もある。

よって、尾張方面からやってくる敵は裸同然の丸見え状態、防御の対策も立てやすく、逆に城の北方は山だらけですから、稲葉山城を中心とした美濃は国自体が天然の要害とも言える。

一体どうやって落とせばいいのやら……。

「美濃」と聞いて「大国の攻略は極めて困難なり……」と遠い目になる人は大体トモダチ、戦国城マニア。

織田信長/wikipediaより引用

というわけで今回は、信長が美濃と稲葉山城をどうやって攻略した?をつぶさに見て参りましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

ここにも出てくる戦国一のいぶし銀・信玄

織田信長に犬山城方面を崩され、ついに美濃の地に楔を打ち込まれてしまった斎藤家。

そのピンチにも大して動じませんでした。

動じなかったのは斎藤龍興の肝が座っていたからでも、酒好き女好きだったからでもありません。

武田信玄です。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20150611-2武田信玄

広大な信濃は武田信玄だからこそ治められたもといえますね

斎藤家は二代目の義龍の時代に近江の浅井家とは縁を切ってしまいましたが、信濃に進出してきた武田信玄とは古くから誼(よしみ)を通じていました。

美濃と信濃は東美濃で接しており、尾張の横っ面を突くには絶好の位置にあります。

信長が調子に乗って出てきても武田信玄の後援がある限り、ビビることは全くないのです。

むろん100%安全なワケありません。

甲斐の虎こと武田信玄の腹黒さを少しでも知っていれば、そう簡単に頼ってよい相手ではないこともわかりそうなもの。

しかし、龍興にはもはやそんな余裕はありませんでした。

竹中半兵衛に城を乗っ取られたり。

家臣の斎藤家離れが止まらなかったり。

足利将軍家からも「ちょっとお前ら信用できんわ」と落第点をつけられてしまったり。

何もかも散々な三代目・龍興にとって信玄は、それでも大切な盟友関係なのです。

と言ってもこの外交も、初代の道三や二代目の義龍が残した成果なんですけどね。

しかし世の中そんなに甘くありません。戦国時代はもっと甘くありません。

斎藤家とは、盟友関係を保ちつつも「俺様を勝手に三代目のトモダチ認定しないでくれる?」と思っているのが武田信玄です。

何事にも常に「俺様のメリット」を求める現実主義的な信玄。

斎藤家と友好関係を保ちつつ、季節の変わり目ごとにスライディング土下座をかましてくる織田家の飛び込み営業、おっと失礼、低姿勢な外交にもきちんと応じています。

信玄は高みの見物で【織田vs斎藤】の成り行きを見守ります。

 


意識高い系を演じる信長

信玄が高みの見物ならば、信長は「自身の能力が計られていることを知りつつ演じることができる男」です。

斎藤家と武田家の関係が、斎藤家の一途な片想いであることにとっくに気づいている信長は、地理的にも政治的にも斎藤家と武田家を分断する作戦に取り掛かります。

地理的には、加茂や可児などの「中濃地域」を手中にして、斎藤家の稲葉山城と武田家の信濃の連絡道を遮断する戦略に出ます。

これは斎藤家の孤立化を意味します。

そして信濃に接する東濃地域は織田家と武田家の緩衝地帯として温存。

国境が接してしまうと不測の事態で一触即発が起きることもあり、国境警備にある程度の兵力を割く必要が出てきます。

並みの武将ならここに自軍を入れて隣国との関係をこじらせてしまいますが、そこはさすが信長ですね。

東濃地域には遠山家という小勢力を温存することで緩衝地帯にして勢力の均衡を計ります。

このような行き届いた戦略は、信玄に対して「俺、地政学的な戦略的思考ができるゾ!」というアピールにもなります。

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中濃地域と東濃地域/東濃地域は美濃の東というだけではなく尾張の東にも位置します/©2015Google,ZENRIN

政治的な成功は、できるだけ早く、武田家と婚姻を結び、友好を示すことです。

これは中濃地域を支配下に入れてもこれ以上信濃方面に向かって侵攻しないという誓いになりますし、緩衝地帯の東濃地域も大国同士の争いが起こらないことを確信して地域が安定します。

この時期の信玄の目標は西上野(にしこうずけ)と駿河侵攻ですので、美濃方面に兵力を割くつもりも余力もありません。

美濃方面は当面の間、安定をもたらす勢力と付き合いたいと思っています。

その甲斐の親方様の心を読み、先んじて提案することが意識高い系「俺、できる」アピールとして大事なのです。

このように信玄に盟友として選ばれる条件は、織田家単独の力で中濃地域を支配し、かつ東濃以東を侵さない約束ができることです。

美濃を切り崩しつつ信玄に「あいつ、できる」と確信させることが重要なミッションでした。

こうして前回奪った犬山、鵜沼、伊木山を最前線の城として、永禄8年(1565年)、織田軍の中濃地域侵攻が始まります。

 

加治田城が内応!中濃地域の一角崩れる

中濃地域には中小の国人衆たちが割拠。

束ねていたのが道三時代に斎藤家から派遣されてきた長井道利(ながいみちとし)です。

この長井道利は道三の庶子だとか、いやいや実は弟だとか言われていますが、詳しい出自はさっぱり分かっていません。

中濃地域という信濃、飛騨、尾張の三国を結ぶ国境の要衝の支配を任されるほどの人物であるので、道三にかなり近い人物であったことは間違いないでしょう。

長井道利は早くから木曽経由で武田信玄と連絡を取り、斎藤家との仲介をしていました。

しかし斎藤義龍が決起すると、義龍に味方して道三を死に追いやります。

斎藤義龍/wikipediaより引用

その後、何があったか伝えられていませんが、義龍とは仲違いしていました。

長井道利はかねてより武田家と仲が良かったので、義龍に怪しまれたか、調略大好きな信玄による離間の計が入ったかもしれません。

ともかく、この一件で中濃地域は一時期、斎藤家から半ば独立したようになりますが、義龍が急死し、龍興の代になると義龍派が追い出され、義龍に避けられていた家臣が龍興に重用されます。

この波に乗って長井道利もまた以前の格を取り戻して斎藤家の家老として復活!

そうです。道利こそが正真正銘の三代目Jソウルブラザーズfrom斎藤家TRIBE(以下、長いので「三代目JSB」に略。ってまだ使うつもりか!)なのです。

 

小城が俄然重要なポジションに

これが中濃地域の政治状況です。

斎藤家の当主が目まぐるしく変わるため、正直かなり不安定。

中濃の国人衆は一体誰を頼ればよいのか分からなくなり、お互い裏切らないように人質交換を盛んにしています。

そんな中を侵攻していく信長にとって、敵の不安定は最大のチャンスです。

犬山、鵜沼、伊木山を確保して木曽川の支配権を既に得ている信長は、それより上流の中濃地域から来る人や物の流れを完全に管理下に置いています。

中濃地域にとって、木曽川の制海権ならぬ、制「川」権を奪われたことは、電気、ガス、水道を止められた上に、預金通帳まで押さえられたようなものです。

この苦境に直面していち早く斎藤家を見限ったのが、加治田(かじた)城主の佐藤忠能(ただよし)と、その養子、忠康(ただやす)でした。

丹羽長秀を通じて、信長に内応を約束してきたのです。

犬山城の支城攻略の際にも内応工作を手掛けていた丹羽長秀が、主体的に調略を仕掛けた可能性もありますね。

丹羽長秀/wikipediaより引用

この加治田城主・佐藤忠能の息子忠康は、道三vs義龍の親子ゲンカのとき、義龍に味方した義龍派の武将でした。

それだけに龍興の時代になり、長井道利が斎藤家の家老、三代目JSBとしてドヤ顔で復帰してきたので、居心地が悪かったのでしょう。

また美濃国内には斎藤道三の「国盗り」以前に土岐家に仕えていて、仕方なく斎藤家に従っている国人衆や、追放されて尾張の織田家に流れてきた土岐派や道三派の国人衆など、尾張と美濃中に散らばった国人衆同士の複雑な人間関係が存在します。

信長の家臣にも「美濃衆」として森可成や蜂屋頼隆、金森長近などが早くから織田家に仕えていましたね。

信長にとって「トモダチのトモダチは斎藤家」状態で、とりあえず三代目JSBの選抜から漏れた人間に当たりをつけていけば誰か引っかかるという、調略はしやすい環境でもありました。

中濃地域で唯一、加治田城が織田方になったことで、信長は加治田城の後詰めの責任を持つ立場になります。しかも全力で救援しなくてはなりません。

ここで桶狭間の戦いのように後詰めを怠るようであれば(あのときは意図的でしたが)、中濃地域の国人衆は今後一切織田方に内応することはなくなるでしょう。

加治田城は小さな城ですが織田家にとって俄然重要な城になりました。

 


「地名は土地の記憶」byタモリ 猿啄城攻略戦

さて信長はいよいよ中濃地域に進軍を開始します。

まずは鵜沼城の上流に位置する猿啄城(さるばみじょう)です。

猿啄城は、木曽川上流の可児や加茂といった中濃地域の入り口、木曽川の両岸が渓谷になっていて、中濃地域の虎口に当たるような難所に位置します。

一般的に「猿」という文字が入る地名は崖や地滑りを暗示します。

ここもまさに崖で、人が住むには危険な場所ですが、城にとっては要害の地になります。

織田方はこの猿啄城を攻略しないと中濃地域には入れません。

一方、猿啄城主の多治見修理(たじみしゅり)は要害の猿啄城に自信があったのでしょう。徹底抗戦に出ます。

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猿啄城を力攻めで攻略するには鵜沼城方面から一度、木曽川を渡って尾張側に行き、再度、猿啄城の正面で木曽川を渡ります。そこから本丸まで切り立った崖を登っていかなくてはならないというかなり難易度の高い城です

信長自身は伊木山城に本陣を構え、丹羽長秀を総大将に猿啄城の攻略に取り掛かったと云われています。

実際は総大将、織田信長(力攻め担当)、内応のお問い合わせは丹羽長秀へ、といったところでしょうか。

というのもこの攻城戦では川尻秀隆という武将が活躍しました。

川尻秀隆は信長の親衛隊である黒母衣衆筆頭として有名ですが、この頃は馬廻り衆として信長の親衛隊の中核を成す一人でした。

織田信秀の代から仕えており、年齢は信長よりも少し上で、後に信長の息子、織田信忠の副将(実質的な大将)を任されるなど、信長にとっては数少ない信頼できるアニキ的存在だったことが分かります。

河尻秀隆/wikipediaより引用

この川尻秀隆が先鋒として木曽川の対岸から攻撃します。

『信長公記』では、せっかく命懸けの川尻秀隆がふんどし一丁で木曽川に綱を張って激流を渡っているのに、唐突に丹羽長秀がやって来て、猿啄城の水の手を切って落城させるという武闘派武将好きには解せない展開。

城の“水の手”は極秘中の極秘です。

例えば落城の記述に「城の水の手を切った」とあれば、必ず「内応者の存在あり」となります。『信長公記』といえども省かれている部分が多く、前後の脈略がよく分かりません。

よって、これはあくまで想像ですが、内応お問い合わせセンターの丹羽長秀が、猿啄城の水の手は木曽川に面した断崖にあるという情報を得たのでしょう。

丹羽長秀はその情報を攻撃隊に連絡し、先鋒の川尻秀隆が水の手を切って落としたという展開が自然でしょうか。

実際、戦後の論功行賞で、猿啄城を得たのは川尻秀隆でしたので、川尻が落城につながる活躍をしたことは間違いありません。

ちなみにこのとき、幸先良しとして猿啄城は信長を「勝山城(かちやまじょう)」と勝手に改名してしまいます。

信長は崖や地滑りを暗示する地名がイヤだったのでしょうか。土地に全く関係のない地名はいかがなものかとタモさんに苦言を呈されるレベルの改名でした。

ともあれ猿啄城は落城し、織田方の城になります。

中濃地域にとっては玄関のカギどころか扉ごと持ってかれたようなもの。織田軍団が自由になだれ込む準備ができました。

 

マッドマックスな堂洞城の戦い

信長が猿啄城を奪取すると、加治田城は織田方につくと表明。

すると三代目JSBの長井道利はすぐさま加治田城を孤立させる付け城戦術に出ます。

道利は加治田城と犬山方面の縦のルート、すなわち信長による後詰め経路の封鎖に取り掛かりました。

ここを押さえておかないと、斎藤家の横のルートである東美濃や信濃方面と関城、稲葉山城が分断されてしまい、各個撃破された上に斎藤家は外交的に孤立するからです。

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お互いに後詰めルートを封じ込める戦略に出ます

関城については実は存在しなかったという説があります。ここにあったと伝わる場所から当時の遺構が全く出てこないのです。

では、金山城主だったかというと、金山城は鳥峰城と呼ばれていましたが、この頃にはすでに廃城だったと言われています。

要するに現代でも、正確なことは分かっていないというのがこの中濃地域。

数々の文献には関城主となっていますので長井道利・関城主説を取りたいと思います。

さて、その長井道利は、中濃の有力国人衆である岸信周(きし のぶちか)に命じて加治田城の南方の丘陵に付け城の築城を命じました。

突貫工事になりましたが、これが「堂洞城(どうほらじょう)」です。『信長公記』では「堂洞砦」と記されていますね。

岸信周は佐藤忠能の娘を人質として養女に迎えていましたが、これを加治田城から見える位置で磔の刑に処して、織田方になびいた佐藤家への宣戦布告とします。

なんて酷いことを……と思うかもしれませんが、これがマッドマックスな戦国世界です。

 


武勇の誉れ高い岸信周を家臣にしたい

大ピンチの加治田城に対して信長は後詰めに出て、堂洞城と関城を分断する位置に小高い丘に本陣を構えました。

堂洞城の西側に位置し、城の南と西を封鎖。

加治田城の佐藤父子は堂洞城の北面を包囲したのです。

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東側は意図的に空けたのではなく、山が連なっていて軍の展開が容易でないというのもありますが、信長にはおそらく本気で堂洞城を陥落させる意図はなかったことがうかがえます。

通常、尾根伝いは山城の弱点になりますので、城側は尾根を切るように深い「堀切」を造ります。

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尾根伝いの「堀切」。堀で尾根を「切る」ことで攻城側の進軍を阻みます

それでも攻撃側は尾根に選抜した最精鋭部隊を投入して城になだれ込むといった戦術を取りますが、織田方は平野部に軍を展開したのみです。

信長は武勇の誉れ高い岸信周をなんとかして自分の家臣にしたかったという話が残っていますで、無理攻めよりも降伏開城を望んでいたのでしょう。

こうしてお互いに付け城戦術で対抗封鎖しあうという城マニア流涎の展開で長期戦になるところでした。

しかし。

何を思ったか堂洞城の岸信周の息子・岸信房は城を出て信長の本陣を強襲するのです。

織田方より兵力に劣る岸信周はこのまま籠城して、長井道利や斎藤龍興の援軍をじっとこらえて待つべきところなのですが、敵の総大将(信長)が目の前にいる状況に我慢できなかったのかもしれません。

兵力が圧倒的に優勢な信長方に戦いを挑み、結局は、本陣を崩すまでは行かず、信房は堂洞城に引き返します。

 

今でも焦げた米を発見→火攻めの証拠

信長も、開城を待ってこのままじっとしていては斎藤家の援軍に背後を突かれてしまいます。

そこで、堂洞城への最後の開城勧告を突きつけます。

織田方の美濃衆の一人、金森長近が、岸信周とも顔なじみということで、ただ一騎、堂洞城に派遣されたのですが、岸信周の決戦の決意は固く、調略は失敗。

息子の信房に至っては自分の子供の首を斬って見せ、決意の固さを示します。って、そこまでするかいな!

金森長近/wikipediaより引用

その直後、信長は堂洞城の東南北から一斉に攻撃を加えます。

この時またしても活躍したのが川尻秀隆や森可成などの信長直轄軍で、河尻秀隆は本丸に一番乗りを果たします。

結果、岸父子は遂に負けを認めて自害、堂洞城は大激戦の末、織田方に落ちました。

具体的な城攻めの戦法は分かりませんが、堂洞城では今でも焦げた米が見つかるそうですので、力任せの必殺「火攻め」でしょう。

この頃の城は、櫓などの建造物は木造に茅葺きや板葺きの屋根ですので火に弱いという弱点があります。

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中世の城のイメージ

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板葺きの屋根で火に弱いのが分かりますね

敵の後詰めが来る前に落城させなければいけないという制限時間付きのミッションとはいえ、奇策も何もない攻城戦です。双方に甚大な犠牲者が出てしまいました。

もしも岸信周が素直に信長に従っていたら?

織田家の有力武将の一人になっていたことでしょう。散り際の見事さといい、柴田勝家に劣らない剛の者でした。

さて後詰めの責任があった長井道利は何をしていたのか。

関城から出て信長の背後をうかがっていたという記録がありますが、それにしても文字通り必死で戦っている堂洞城に対して後詰めの動きがのんびりし過ぎています。

もう一つ、稲葉山城方面まで斎藤龍興の出陣を迎えに行っていて結局、堂洞城の救援には間に合わなかったとう説があるのですが、この方が後詰め失敗の理由としてしっくりきます。

いずれにせよ後詰めの失敗は、長井道利の失策というより、堂洞城の岸信周が我慢して籠城戦に徹しなかったことや、いちいち龍興を迎えに出ないといけない斎藤家の体質など、様々な問題が複合的に重なった結果でしょう。

ここで引き下がれない長井道利は、信長が次の日、中濃地域から一旦引き上げる隙を狙って織田の軍勢に背後から強襲します。

信長の軍も前日まで全力で戦い、千人単位だった兵力が数百単位にまで減っていたようなのでこれはキツい退却戦です。

森可成などの武将が反撃とみせかけて軍をまとめ、相手がひるんだ隙に光の速さで尾張に退却します。

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織田方は逃げるときも電光石火・逃げ切りに成功します/©2015Google,ZENRIN

 


絶対に負けられない加治田城攻防戦

その後すぐに、もっとあきらめがつかなくなった長井道利によって加治田城の攻城戦が始まります。

ここでも信長は後詰めを出さなければ中濃地域に進出した意味がありません。信長は配下の美濃衆、斎藤利治(さいとう としはる)を総大将として加治田城に援軍を出します。

斎藤利治は、道三の末子と云われています。道三が息子の義龍に敗れたとき、斎藤家の正統として後々利用するために織田家で引き取って育てていました。

知名度は低いですが、かなり優秀な武将で、信長の主要な戦いのほぼすべてに参加して武功を立てています。

そしてこの救援に斎藤利治を派遣するとは信長もなかなかの人選です。

堂洞城の戦いは織田対斎藤の色が鮮明で、織田家には苦しいアウェイ戦でしたが、今回の総大将は道三の息子、利治。

巧みに道三対龍興の斎藤ダービーにすり替えて、中濃地域の国人衆の心を揺さぶったのです。

斎藤利治
道三の末子・斎藤利治|信長の命で上杉軍を相手に「月岡野の戦い」で快勝

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この加治田城攻防戦では、渋る父親を説得して信長にいち早く内応を申し出た息子の佐藤忠康が序盤で討ち死にしてしまいます。

急進派の息子が死んで、長井道利と斎藤龍興の主力軍に包囲されている今、やっぱり斎藤家に戻ろうかと城兵たちが弱気になるところです。

が、救援に駆けつけた織田方の将が斎藤道三の末子とあっては戻るも何もありません。

結局、斎藤利治の奮戦もあって加治田城を守り抜きました。

利治はさらに信長に援軍を要求し、勢いそのままに廃城だった鳥峰城を押さえ、関城までも攻略してしまいました。

戦後、信長は息子が討ち死にしてしまった佐藤忠能の奮戦と忠誠を労い、また斎藤利治の抜群の活躍も賞して斎藤利治を忠能の養子にすることに決めました。

この2年後に忠能は死去し、斎藤利治は佐藤家と加治田城を継ぎます。

※本能寺の変における利治は、二条城での奮戦虚しく信忠死去を聞くと敵軍に突っ込んで戦死

廃城だった鳥峯城は、金山城と名前を変えて、堂洞城退却戦で功のあった信長腹心の森可成を城主に入れ中濃地域の要の城にしました。

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ついに美濃に大きな楔を打つことに成功しました/©2015Google,ZENRIN

森家も元を辿れば美濃出身の美濃衆。

混乱した中濃地域の収束と今後、武田信玄との連絡路ともなりますので、中濃地域に詳しく政治力があり、戦にも強く、そして何より裏切らいないというのが条件となります。

この人選からも森可成は信長の信頼の厚い武将だったことが分かります。

ちなみにこの永禄8年(1565年)の中濃侵攻の年に、可成の三男として森蘭丸が生まれています。

こうして中濃地域の攻防は織田方の勝利で終わりました。

短期間で決着がついたのも、木曽川を押さえ、犬山城と鵜沼城が落ちた時点で、中濃地域はほぼ詰んでいたことがよく分かりますね。

 

信長が念願の武田信玄と親戚

中濃の次は東濃です。

東濃地域には岩村城を居城にする岩村遠山家を中心に、苗木城の苗木遠山家、明知城の明知遠山家など遠山七家が支配しています。

ちなみに桜吹雪で有名な「遠山の金さん」は明知遠山家の遠い子孫です。

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東濃地域。ほぼ山です/©2015Google,ZENRIN

東濃地域は南で三河に接していて、三河方面でも戦っていた信秀の代より前から、織田家と遠山家とは戦略的に結びついて良い関係を保っていたようです。

武田信玄が信濃に侵攻し、木曽方面まで拡大してきたときに、遠山家は武田家の支配に入ることを選びます。また斎藤家と武田家の仲立ちもするようになりました。

信長は早くからここに楔を入れるべく、叔母おつやの方(信秀の妹)を岩村遠山家の遠山景任(とおやまかげとう)に嫁がせ、妹を苗木遠山家の遠山直廉(とおやまなおかど)に嫁がせています。

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遠山直廉は桶狭間の戦いにも参加していますので、若い頃は清須周辺にいたことが分かります。

遠山家からの人質だったかどうかは分かりませんが、信長とは年齢も近く、友人に近い関係(おそらく悪友か)だったのかもしれませんね。

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遠山家はあくまで武田家に従属しますが、親戚付き合いは織田家。東濃地域が織田家と武田家(飯田城)の緩衝地帯として機能します/©2015Google,ZENRIN

信長はこの直廉の娘を信長の養女として織田家で育てており(人質ですね)、永禄8年9月初旬に中濃地域を手中にした後、同じ年の11月には、この養女を武田信玄の四男、武田勝頼に嫁がせることに成功します。

織田家、武田家、遠山家の三家が一気に結ばれたばかりか三方得。

そして東美濃を一瞬で織田-武田の緩衝地帯にしてしまいました。

 

風前の灯火 斎藤家が最後の戦い

中濃を制し、東濃を武田家との緩衝地帯にした信長の次の目標はいよいよ斎藤龍興の居城、稲葉山城です。

しかし稲葉山城を攻めるには地理的に困難で、織田家では信秀の代からなかなか克服できないでおります。

地図を見ると、小牧山城と稲葉山城は直線距離で僅かな距離。

木曽川の支配圏を得た今、得意の電光石火の進撃で一気に木曽川を渡ってしまえばいいじゃん、と思いたくなりますが、この木曽川が信長の直線的な進軍を依然として妨げていたのです。

木曽川は度々氾濫を起こしていましたので、両岸のかなりの面積で人が住めないような沼や小さな支流が延々と連なっていました。

前回、犬山城主の織田信清が反旗を翻した理由に、信長の岩倉織田家攻めの分け前に不満を持っていたと紹介しましたが、

小牧山城
小牧山城|信長が初めて築き織田家の戦略を一変させた 狙いは犬山城攻略

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信長が信清に与えた分け前が、まさにこの木曽川沿いの、家や田畑も作れない、資産価値ゼロの湿地帯でした。そりゃ信清さんが怒るのも分かります。

木曽川を渡って美濃方面に入っても状況は同じです。

延々と続く湿地帯、その先には大軍団の投入が可能な広大な平野で斎藤方の軍勢が待ち構えています。

では新しく支配下に置いた中濃地域から稲葉山城に攻め込めば?

そう考えたいところですが、信長の主力軍をいったん中濃地域に入れるには、猿啄城のある場所のような狭隘な渓谷を大軍団が抜けていかなくてはなりません。

こんな目立つ行軍をしていては先に中濃地域に斎藤方の軍勢を入れられてしまいますし、ガラ空きの尾張を西美濃から狙われます。

結局、中濃を押さえとしつつ、稲葉山城方面には直線的に南から、または反時計回りで西から旋回して攻め込むしかありません。

どうしたものかと思案しているうちに永禄9年(1566年)になり、足利義昭(この頃は義秋)より上洛の協力要請が信長の下に届きます。

足利義昭

等持院の木像をもとに描かれた足利義昭/wikipediaより引用

義昭は、このころ近江にいましたが、上洛するのに軍勢を必要としていました。

破竹の勢いと過去の莫大な献金のお陰か、この頃の信長には既に足利将軍家にも名が通った存在。信長は即座に応えます。

義昭は信長の遠征を早めるために斎藤家との停戦を仲介しました。

しかし停戦したからといってやすやすと将軍家の元に駆けつける信長ではありません。この停戦期間を利用して、少しでも美濃に橋頭堡を作ろうと企みます。

おそるべし信長。

おそるべし戦国。

もはや足利将軍家の権威などありません。

信長は近江に援軍を出すという名目で、軍勢を尾張の北方から木曽川を渡河させます。

斎藤家からすれば、尾張から京都方面に行きたければ街道沿いに尾張の西から木曽川渡れよとツッコミを入れたくなる、あからさまな稲葉山城への威力偵察です。

この永禄9年に信長は2度、尾張の北から美濃に侵入した記録が残っています。

信秀の代から失敗続きの尾張北方面からの木曽川渡河ですが、この時もいち早く軍勢を出してきた斎藤方に進撃を阻まれ尾張に退却。

2回目は大雨による木曽川の増水で自軍が流されてしまいます。

こんなことをしているうちに、足利義昭はなかなかやって来ない織田家に見切りをつけて、越前の朝倉家を頼って一乗谷へ向かってしまいます。

朝倉義景/wikipediaより引用

信長にとっては将軍家を逃すという大失策でしたが、将軍家から声が掛かるという一件は美濃の保守派、すなわち斎藤家先代までの重臣たちの心を動かすにはかなり有効でした。

また武田信玄との婚姻政策も、斎藤家をオワコン宣言するのに十分な宣伝材料となりました。

そしてついに呼応したのが、かねてより調略を進めていた【美濃三人衆】といわれる

・安藤守就
稲葉一鉄(稲葉良通)
・氏家卜全(氏家直元)

です。

安藤守就は斎藤家の筆頭家老にして竹中半兵衛重治の稲葉山城乗っ取り事件の時にも支援したとされる美濃の大物。

稲葉一鉄は斎藤義龍の母親の実家で親戚衆です。

氏家直元は氏家卜全の名で有名な武将ですが、大垣城より西はほぼ氏家家の領土という、美濃で最大の領地を持つ重臣でした。

この三人が斎藤家を見限った経緯は詳しく伝わっておりません。

おそらく、中濃を失い、武田家との連絡も絶たれた風前の灯火の斎藤家より、織田家の支配下に入った方が領土権益を確保できると判断した、あるいは地道な調略で説得したのでしょう。

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西美濃三人衆の居城の位置。味方になると長良川西部をほぼ 手中にできます/©2015Google,ZENRIN

織田家には美濃出身の美濃衆だけでなく、木曽川の管理権を牛耳る川並衆、また木下藤吉郎秀吉という出自不明のタフネゴシエーターがいます。

出自不明なやつに話なんかしたくないという、お高い重臣クラスのVIPには丹羽長秀という内応問い合わせセンターも機能しています。

また、中濃地域には斎藤利治が復帰して、主家が存続しているどころか斎藤家出身でも活躍次第で城持ちになれることを実証。

中小の国人だった美濃出身の森可成や川尻秀隆にも金山城や猿啄城が与えられています。

三代目JSBのメンバーから漏れてしまい、出世の夢も絶たれてしまった美濃の国人衆や、先代までの重臣だった西美濃三人衆にとって、これだけの状況下では

「ちょっと見積もりだけでも相談しようか」

となるのは自然の流れでしょう。

 

イージス「稲葉山城」

永禄10年(1567年)になり、西美濃三人衆がこぞって信長へ人質を差し出すと申し出てきました。

一報を聞いた信長は、人質の受け取りに村井貞勝と島田秀満を派遣します。

が、信長は人質の受け取りを待たず、電光石火の進軍で一気に美濃へ乗り込みます。

え?

いくらなんでも早すぎるって?

ええ、それが織田信長の進軍なのです。

仮に三人衆の内応が虚報で斎藤家の計略だとしても、人質が小牧山城に到着してから織田方は軍を動かすと計算しますので、この電光石火の進軍では信長を罠にハメる方も準備が整いません。

また西美濃の三人衆が味方についたということは、斎藤家の領土の西半分が織田家についたということになります。

これは斎藤家の軍を構成するほとんどの兵力が参戦しないことを意味します。

さらに三人衆の領地は木曽川の西側を占めますので、信長は、側面からの反撃を一切気にせずに稲葉山城の城下町「井口」まで進軍が可能となります。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20150611-12

考えられる渡河ルートは3通り/©2015Google,ZENRIN

信長が木曽川のどこから渡河したかは記録には出てきません。

考えられるルートは、最短ルートの「笠松と無動寺の渡し」の両方からの渡河です。

犬山城から伊木山城方面に渡河するルートは、大方の国人衆が織田方に内応しているとはいえ、敵地での行軍時間が長くなり危険です。

また木曽川下流の尾張の西側から渡河する竹ヶ鼻ルートは二代目の斎藤義龍が死んだ直後に攻め込んだ実績があり、氏家直元の領地も通るので安全ですが、小牧山城からは遠過ぎます。

結局、信長は抵抗を受けることなく稲葉山城下まで進軍します。

無傷でここまで来れたことが西美濃三人衆の内応が間違っていないことも同時に証明しました。

稲葉山城は長良川沿いの幾つかの山が連なった山塊の北の山に本丸があり、南には深い谷を挟んで「瑞龍寺山」とよばれる山があります。

この瑞龍寺山のほかにも本丸を囲むようにに4~5つほどの山があり、これを奪ってしまえば天然の付け城の完成となります。

また稲葉山城は平場が少なく各曲輪が狭かったので大兵力での籠城は難しかったようです。山頂には井戸すら無く、雨水を貯めて飲み水にしていました。

信長は柴田勝家、佐久間信盛を先鋒に、瑞龍寺山を一気に占拠し、城下の井口の町を放火します。もうやりたい放題。

その頃にようやく西美濃三人衆が血相を変えて信長の元に参陣しました。

稲葉山城攻め

稲葉山城攻め/©2015Google,ZENRIN

この時点ですでに斎藤方は完全に詰んでいたと見るべきでしょう。

稲葉山城に籠もったところで兵力は僅かしか収容できません。

援軍も望めず、城下も焼かれ、稲葉山城は裸同然。

一見、難攻不落に見える稲葉山城ですが、竹中半兵衛に少数で占拠されたり、後年の関ヶ原の戦い前哨戦である【岐阜城の戦い】でもあっさり落城していますので、城そのものの防御能力は非常に低いと言わざるを得ません。

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このことから稲葉山城は本来の「詰めの城」という役割より、山頂の本丸から遥か遠くまで見渡せる特徴から、木曽川や長良川を防衛ラインとして広大な濃尾平野を戦略的に生かすためのレーダーやイージスシステムのような役割だったと考えます。

眺望のきく稲葉山(金華山)は敵の攻撃や侵入を真っ先に感知して迎撃を繰り出すための装置だったのでしょう。

城主が優秀であれば、そのシステムの能力も最大限に引き出せます。

しかし逆に無能であれば、システムの運用には何が大事か分からず、得られた情報に意味を持たせることすらできず、せっかくのイージスシステムも単なる「見張り台」としか機能しません。

道三や義龍は、織田方の侵入を感知したと同時に大兵力を木曽川まで繰り出す迎撃態勢を取っていました。

これが稲葉山城のイージスシステムです。

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ところが斉斎藤龍興はイージスシステムの運用の要である「兵力」を調略であっさり失っていました。

「龍興は無能ではなかった」とする説も最近では耳にしますが、ここまで見てきて軍事に関しては優秀さを示す根拠に乏しいと言わざるを得ません。

ルイス・フロイスの『日本史』にも信長の稲葉山城攻めの記述があります。

こちらは信長が龍興方の背後に伏兵を入れて挟み撃ちにしたとあります。

いずれにせよ今まで木曽川の渡河ポイントでしっかり迎撃できていた斎藤家は、この頃までには迎撃どころか兵すら集まらない状態になっていたことが分かります。

これではせっかく稲葉山城で信長の侵入をいち早く感知できても何もできません。

稲葉山城攻めでは、木下藤吉郎秀吉が東の山から蜂須賀小六などと共に山を登り、二の丸の食料庫に火をかけたという話がありますが、稲葉山城の本丸を取り囲む山々はすべて織田方の手に落ちたのではないでしょうか。

斎藤龍興は数名の家臣と共に、城下の混乱に乗じて長良川を下り、一向宗が支配する伊勢長島へと落ち延びて行きました。

斎藤龍興/wikipediaより引用

 

そして「岐阜城」へ

信長はついに稲葉山城の攻略を果たしました。

この後、稲葉山城を大改造して「岐阜城」を完成させ、さらに居城を小牧山から美濃にお引っ越しをするという、またまた破天荒な行動を起こすのですが、今回はここまで。

中濃地域の戦いでは信長自身が多くの経験を積むことができました。

犬山城で初めて山城の攻城戦を経験してからは、ひたすら山城の攻城戦が続きました。

また野戦においても退却戦を経験したり、調略を織り交ぜて複合的に相手を追い詰めたり、あらゆる手段を使う総力戦で相手を屈服させる術を身につけたのです。

これから岐阜城に移って、織田信長も全国区のメジャーな武将へとなっていくわけですが、この美濃攻略戦で戦略・戦術を高める貴重な経験ができたことは大きいですね。

城についても「城は火攻めに弱い」という弱点の克服するために築城に新たな革命を起こすことになります。

そして信長は山頂にそびえる稲葉山城という美濃のイージスシステムを手に入れ、世の中に対する明確なビジョンを持ち始めます。

「殿!あれが美濃防衛の要、イージスシステムでございますぞ!」

「遅い」

「はっ?」

「イージスシステムの運用を短縮せい!」

「ならば全力で駆け降りて殿に情報をお届けに参りまする!」

「遅い」

「と、飛び降りてでも」

「遅い!」

「ではどうしろと……」

「ワシがあそこに住めばよい」

「はっ?」

「ワシがイージスになる!」

「良き考えにございます、殿!ゆくゆくは天下のイージスとなればよろしいかと」

「であるか!これが天下布武じゃ!!」

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お城野郎!

2012年11月11日に開催された『第一回城郭検定』で最上位に合格(当時は2級)。 現存十二天守からフェイクな城まで、お城記事を中心に合戦の分析までこなす。 特技は妄想力を発動することにより脳内に城郭を再現できること。

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