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【信長による美濃と稲葉山城の攻略】
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今でも焦げた米を発見→火攻めの証拠
信長も、開城を待ってこのままじっとしていては斎藤家の援軍に背後を突かれてしまいます。
そこで、堂洞城への最後の開城勧告を突きつけます。
織田方の美濃衆の一人、金森長近が、岸信周とも顔なじみということで、ただ一騎、堂洞城に派遣されたのですが、岸信周の決戦の決意は固く、調略は失敗。
息子の信房に至っては自分の子供の首を斬って見せ、決意の固さを示します。って、そこまでするかいな!
その直後、信長は堂洞城の東南北から一斉に攻撃を加えます。
この時またしても活躍したのが川尻秀隆や森可成などの信長直轄軍で、河尻秀隆は本丸に一番乗りを果たします。
結果、岸父子は遂に負けを認めて自害、堂洞城は大激戦の末、織田方に落ちました。
具体的な城攻めの戦法は分かりませんが、堂洞城では今でも焦げた米が見つかるそうですので、力任せの必殺「火攻め」でしょう。
この頃の城は、櫓などの建造物は木造に茅葺きや板葺きの屋根ですので火に弱いという弱点があります。
敵の後詰めが来る前に落城させなければいけないという制限時間付きのミッションとはいえ、奇策も何もない攻城戦です。双方に甚大な犠牲者が出てしまいました。
もしも岸信周が素直に信長に従っていたら?
織田家の有力武将の一人になっていたことでしょう。散り際の見事さといい、柴田勝家に劣らない剛の者でした。
さて後詰めの責任があった長井道利は何をしていたのか。
関城から出て信長の背後をうかがっていたという記録がありますが、それにしても文字通り必死で戦っている堂洞城に対して後詰めの動きがのんびりし過ぎています。
もう一つ、稲葉山城方面まで斎藤龍興の出陣を迎えに行っていて結局、堂洞城の救援には間に合わなかったとう説があるのですが、この方が後詰め失敗の理由としてしっくりきます。
いずれにせよ後詰めの失敗は、長井道利の失策というより、堂洞城の岸信周が我慢して籠城戦に徹しなかったことや、いちいち龍興を迎えに出ないといけない斎藤家の体質など、様々な問題が複合的に重なった結果でしょう。
ここで引き下がれない長井道利は、信長が次の日、中濃地域から一旦引き上げる隙を狙って織田の軍勢に背後から強襲します。
信長の軍も前日まで全力で戦い、千人単位だった兵力が数百単位にまで減っていたようなのでこれはキツい退却戦です。
森可成などの武将が反撃とみせかけて軍をまとめ、相手がひるんだ隙に光の速さで尾張に退却します。
絶対に負けられない加治田城攻防戦
その後すぐに、もっとあきらめがつかなくなった長井道利によって加治田城の攻城戦が始まります。
ここでも信長は後詰めを出さなければ中濃地域に進出した意味がありません。信長は配下の美濃衆、斎藤利治(さいとう としはる)を総大将として加治田城に援軍を出します。
斎藤利治は、道三の末子と云われています。道三が息子の義龍に敗れたとき、斎藤家の正統として後々利用するために織田家で引き取って育てていました。
知名度は低いですが、かなり優秀な武将で、信長の主要な戦いのほぼすべてに参加して武功を立てています。
そしてこの救援に斎藤利治を派遣するとは信長もなかなかの人選です。
堂洞城の戦いは織田対斎藤の色が鮮明で、織田家には苦しいアウェイ戦でしたが、今回の総大将は道三の息子、利治。
巧みに道三対龍興の斎藤ダービーにすり替えて、中濃地域の国人衆の心を揺さぶったのです。
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この加治田城攻防戦では、渋る父親を説得して信長にいち早く内応を申し出た息子の佐藤忠康が序盤で討ち死にしてしまいます。
急進派の息子が死んで、長井道利と斎藤龍興の主力軍に包囲されている今、やっぱり斎藤家に戻ろうかと城兵たちが弱気になるところです。
が、救援に駆けつけた織田方の将が斎藤道三の末子とあっては戻るも何もありません。
結局、斎藤利治の奮戦もあって加治田城を守り抜きました。
利治はさらに信長に援軍を要求し、勢いそのままに廃城だった鳥峰城を押さえ、関城までも攻略してしまいました。
戦後、信長は息子が討ち死にしてしまった佐藤忠能の奮戦と忠誠を労い、また斎藤利治の抜群の活躍も賞して斎藤利治を忠能の養子にすることに決めました。
この2年後に忠能は死去し、斎藤利治は佐藤家と加治田城を継ぎます。
※本能寺の変における利治は、二条城での奮戦虚しく信忠死去を聞くと敵軍に突っ込んで戦死
廃城だった鳥峯城は、金山城と名前を変えて、堂洞城退却戦で功のあった信長腹心の森可成を城主に入れ中濃地域の要の城にしました。
森家も元を辿れば美濃出身の美濃衆。
混乱した中濃地域の収束と今後、武田信玄との連絡路ともなりますので、中濃地域に詳しく政治力があり、戦にも強く、そして何より裏切らいないというのが条件となります。
この人選からも森可成は信長の信頼の厚い武将だったことが分かります。
ちなみにこの永禄8年(1565年)の中濃侵攻の年に、可成の三男として森蘭丸が生まれています。
こうして中濃地域の攻防は織田方の勝利で終わりました。
短期間で決着がついたのも、木曽川を押さえ、犬山城と鵜沼城が落ちた時点で、中濃地域はほぼ詰んでいたことがよく分かりますね。
信長が念願の武田信玄と親戚
中濃の次は東濃です。
東濃地域には岩村城を居城にする岩村遠山家を中心に、苗木城の苗木遠山家、明知城の明知遠山家など遠山七家が支配しています。
ちなみに桜吹雪で有名な「遠山の金さん」は明知遠山家の遠い子孫です。
東濃地域は南で三河に接していて、三河方面でも戦っていた信秀の代より前から、織田家と遠山家とは戦略的に結びついて良い関係を保っていたようです。
武田信玄が信濃に侵攻し、木曽方面まで拡大してきたときに、遠山家は武田家の支配に入ることを選びます。また斎藤家と武田家の仲立ちもするようになりました。
信長は早くからここに楔を入れるべく、叔母おつやの方(信秀の妹)を岩村遠山家の遠山景任(とおやまかげとう)に嫁がせ、妹を苗木遠山家の遠山直廉(とおやまなおかど)に嫁がせています。
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遠山直廉は桶狭間の戦いにも参加していますので、若い頃は清須周辺にいたことが分かります。
遠山家からの人質だったかどうかは分かりませんが、信長とは年齢も近く、友人に近い関係(おそらく悪友か)だったのかもしれませんね。
信長はこの直廉の娘を信長の養女として織田家で育てており(人質ですね)、永禄8年9月初旬に中濃地域を手中にした後、同じ年の11月には、この養女を武田信玄の四男、武田勝頼に嫁がせることに成功します。
織田家、武田家、遠山家の三家が一気に結ばれたばかりか三方得。
そして東美濃を一瞬で織田-武田の緩衝地帯にしてしまいました。
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