小見の方

絵・小久ヒロ

斎藤家

道三の妻にして信長の義母~小見の方を知れば明智家や斎藤家がわかる

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永禄12年時点で小見の方も帰蝶も生存していた

答えは単純ですね。

『美濃国諸旧記』と『言継卿記』という二つの史料のうち、そのどちらか、あるいは両方がウソ(誤記)だという可能性が高いということです。

内容からしてどちらも真実――という状況はありえないことを前提に先へ進みましょう。

「どちらも、あるいはどちらかウソをついている」という可能性。

それは我々が目にする歴史の記述、どんな史料にも言えることです。

しかし、この二つの史料には「信ぴょう性」という点で大きな差があります。

というのも、冒頭でも説明したように『美濃国諸旧記』は江戸時代に作成された史料で誤りを多く含む一方、この『言継卿記』は戦国時代の公卿・山科言継という人物によって同時代に書かれた史料です。

言継は戦国武将とも広く交流しており、戦国時代を研究するうえで避けては通れない一級文書とされています。

となれば、どちらを信じれば良いか?は明らかでしょう。

小見の方は永禄12年時点で生存しており「信長に離縁された」「病死した」などと囁かれた娘の帰蝶も、まだ織田家中で大きな影響力を有していたと考えるべきです。

 

小見の方はドコで何をしていたのだろう?

小見の方が天文20年(1551年)に亡くなっていない――となると、新たな疑問が湧いてきます。

帰蝶が生まれてから言継卿記に記述された永禄12年(1569年)まで。

彼女はいったいどこで何をしていたのか?

当然ながらその空白を埋められる史料は残されておらず、ハッキリと断言することは不可能です。

しかし、この時期は小見の方だけでなく明智家・斎藤家にとっても激動の十数年でしたのでその歴史から類推することは可能です。

できるだけ客観的事実に基づいて想像してみたいと思います。その点ご承知の上、お付き合いください。

まず、濃姫を生んだ天文4年(1535年)にさかのぼって考えてみます。

この時期は夫の斎藤道三が美濃をめぐる土岐氏の争いに介入し、土岐頼芸を支援して勢力を強めていました。

斎藤道三が親子二代で下剋上を成し遂げたという二代記説を採用しても、同時期には道三が斎藤家を継いでいたはずなので問題はありません。

その後、天文11年(1542年)ごろに道三は美濃国を手中に収め、小見の方も美濃国主の妻となりました。

そして、尾張国の織田信秀と抗争を繰り広げているうち、お互いに脅威を感じ、天文18年(1549年)に【信長―帰蝶】の婚姻へと繋がります。

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道三は天文23年(1554年)時点で隠居し、小見の方ではないもう一人の妻・深芳野の子である斎藤義龍が家督を継承。

小見の方の子が家督を継がなかったということは、男子を生むことができなかったのでしょうか。

 

道三と明智家は滅び、小見の方は織田家に庇護された?

義龍と道三は親子で深く対立し、弘治元年(1555年)に義龍が挙兵。

彼女の実家である明智家は、どっちつかずの消極的中立という立場をとりました。

結果、弘治2年(1556年)の【長良川の戦い】に敗れた道三は敗死します。

小見の方はこの時点で未亡人になったんですね。

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さらに、中立を決め込んだ明智家は、義龍の怒りを買い、光秀を除く一族郎党が滅ぼされてしまいます。

これにて小見の方は孤立してしまったことでしょう。

しかし、彼女は永禄12年(1569年)まで生き残ったわけですから、少なくともその間は、背後で支えた後ろ盾がいたハズ。

それは娘の嫁いだ織田家ではないでしょうか?

彼らとの関係性を考慮し、小見の方は殺害されることなく稲葉山城に置かれたか、あるいは信長のもとへ逃げ出したのかもしれません。

いずれにせよ美濃国侵攻を考えていた信長にとって小見の方という存在は非常に存在価値がある女性だったでしょう。

娘の帰蝶と併せて、美濃制圧の大義名分に使えるではないですか。

実際、信長の稲葉山城攻略(岐阜攻略)には、そういった節が見え隠れしておりました。

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斎藤家の家臣団調略に一役買っていた!?

永禄10年(1567年)。

織田家は稲葉山城を陥落し、斎藤家(当主は斎藤龍興)を滅ぼしました。

この戦いの勝因の一つに「斎藤家臣団の内紛や織田方への内通」が挙げられます。

要は、斎藤家の家臣たちを織田家に寝返りさせたのですが、元国主の妻でもあった小見の方や姫の帰蝶をチラつかせた――というのは考えすぎでしょうか。

稲葉山城を岐阜城と改名し、本拠地にした信長ですから、それに同行していた小見の方も無事に地元へ戻ってくることができています。

そしてその後も婿姑の間に良好な関係が続いたため、『言継卿記』に壺のエピソードが記された、と。

なお、この時点での彼女は56歳と高齢なため、以降は世の戦乱から離れて、ひっそりと暮らしていたと思われます。ゆえに他の記録も残っていないのではないでしょうか。

興味深いのは「甥・明智光秀と再会することはできたのか?」という点です。

光秀はこの時期、足利義昭の配下として信長に接触しており、一説には帰蝶(濃姫)との血縁を頼って、信長に上洛をうながす使者に選ばれたとも伝わります。

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とすれば、小見の方と再会していたとしても全く不思議ではありません。

滅び去った美濃明智家の縁者ということで、感動の再会と相成ったことでしょう。

加えて、実現していれば「光秀は明智家の名前を騙っているだけ」という仮説も払しょくでき、この一場面を示唆する書状などが出てくれば歴史が大きく変わるかもしれません。

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文:とーじん

【参考文献】
国史大辞典
岡田正人『織田信長総合事典(雄山閣出版)』(→amazon
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興(戎光祥出版)』(→amazon
木下聡『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏(岩田書院)』(→amazon
小和田哲男『明智光秀・秀満(ミネルヴァ書房)』(→amazon

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