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島津家

島津義久(四兄弟の長男)が戦国の九州統一に迫る! 戦い続けた79年の生涯

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戸次川の戦い

その後も大軍をもって豊後攻略を続ける島津。

一進一退の攻防が続く中、ついに秀吉が腰を上げます。

仙石秀久らの豊臣四国連合軍を九州に上陸させ、島津との直接対決をチラつかせたのです。

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しかし、待っていた結果は秀吉の期待に反するものでした。

見通しの甘い仙石らの進軍に対し、島津家久が【釣り野伏せ】を仕掛けて豊臣四国連合軍は惨敗。長宗我部元親の嫡男であった長宗我部信親などを討ち取られ、仙石秀久は讃岐まで逃亡するという大失態を演じるのです。

宗麟の跡を継いでいた大友義統も豊前へと逃亡するしかありません。

いわゆる【戸次川の戦い】と呼ばれる一戦です。

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もはや島津の勢いを妨げるものはなく、後は大友宗麟の臼杵城を落とせば九州統一は目前だ! 誰もがそう思ったであろう矢先のことでした。

天正15年(1587年)、豊臣秀長が率いる毛利・小早川・宇喜多ら「西国オールスター軍」10万が九州に上陸。

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圧倒的な軍勢で次々に島津の拠点を落としていくのです。

島津も夜襲などで抵抗を試みますが、もはや大勢を覆すには至りません。

この敗退によって各地の国衆が一斉に降伏し始め、ついに義久も諦念。髪を剃り服従を表明します。

島津による九州統一の夢はここに潰えたのでした。

「卑しく低い身分」と見下していた秀吉に屈服せねばならない義久は、さぞかし屈辱だったことでしょう。

義久はこの豊後合戦に際して、進退を頻繁にくじで占っていたという記録が残されています。

家臣の上井覚兼から「愚かという他ない……」と呆れられてしまいますが、近年の研究では「くじの結果で撤退しただけ」というように、豊臣との全面衝突を避ける狙いがあったとも考えられています。

ただ義久は、呪術が盛んだった当時の中でも抜きんでて「くじ」を用いる例が多く、ある意味「くじ引き大名」と呼んでも差し支えないかもしれません。

 

苦難の豊臣家臣時代

やむなく秀吉に降伏した義久は薩摩一国を安堵され、義弘には大隅一国、義弘の嫡子・島津久保(しまづ ひさやす)には日向国の一部が与えられました。

なぜ義弘にこれだけの所領が与えられたのか?

豊臣政権が義弘のことを事実上の島津家当主と考えたためです。

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ただし、近年になって島津家内で家督の継承が行なわれていたという事実は否定されており、義弘はあくまで義久の「名代」であったと考えられるようになりました。

豊臣家から見れば義弘が当主であり、薩摩国内から見れば義久が当主であるという体制が構築されていたものと思われます。

こうした体制のためか。島津家は【刀狩り】などの政策に対するリアクションも鈍く、折衝役の義弘と義久の関係性が良好でなかった可能性も指摘されます。

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さらに、朝鮮出兵に際して藩政の窮乏から軍役を賄うことができず、寺社領を徴収することでなんとか軍備に当てる有様。

秀吉のやり方に不満をもった家臣の梅北国兼が反旗を翻し騒動を起こすなど、家中は大混乱の様相を呈することに陥るのです。

騒動の影響は大きく、以下のように島津家のあり方に大きな影響をおよぼしました。

・秀吉から兄弟の歳久が黒幕だと見なされ、義久が自害を命じる

・文禄の役に大きく遅参してしまう

・秀吉の不信感につながり、徹底した太閤検地を実施される

そして不運は続きます。
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