永禄十年(1567年)10月19日は、武田義信が亡くなった日です。
武田信玄の嫡男であり、本来は、この義信こそが武田家を継ぐ予定でした。
しかし、実際に甲斐武田氏の当主となったのは信玄の四男・武田勝頼。
元々は母の出身である諏訪家を継ぐ予定で育てられていて、いわば急な展開から
武田義信
↓
武田勝頼
へと跡取りがチェンジされたのです。
急な展開とは他でも有りません。
義信の死――それも信玄と散々揉めた後に病死となっていて、色々と想像力をかきたてられるのですが、そもそもなぜ、こんなことが起きてしまったのか?
悲劇の嫡男・武田義信の生涯を追ってみましょう。
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義信の「義」は将軍義輝からの「義」だった
義信が生まれたのは、天文七年(1538年)のこと。
武田信玄(当時は武田晴信)と正室・三条夫人の長男であり、本来ならば揺るぎようのない跡取りポジションです。
12歳で元服し、その直後にイトコである今川義元の娘を正室にし……準備も着々と進められます。
天文二十二年(1553年)の末には、将軍の足利義藤(足利義輝)から「義」の字の偏諱を受け、義信と名乗るようになりました。
これは武田家の中では初めてのことです。
普通、こういうときって通字(先祖代々名前に使っている文字)ではなくて、もう一方の字をあげるほうが多いんですけれどもね。
足利家も武田家も同じ清和源氏(河内源氏)の末裔ではありますが。
また、この時点では新しく館を作ってもらったり、決して冷遇されていたわけではありません。
将軍から偏諱を受けたことで、箔をつける必要があったのでしょうか。
義輝にしても、この時期は三好長慶との対立などにより、一人でも味方がほしかった頃ですし。
初陣で大活躍 幕府からは准三管領に任じられ
義信の初陣は天文二十三年(1554年)。
小室(小諸市)や内山(佐久市)へ攻め込み、敵の要害を9つも落とすという、初陣にしては天晴すぎる戦果を挙げます。
同時に信玄も伊那郡へ侵攻して知久氏を攻め、神之峯城を降伏させておりました。
ちなみにこのころ信濃西部の木曽義康も武田に降伏しています(息子の木曽義昌が武田信玄の三女・真里姫と婚姻)。
次々に信濃へ進出していった時期でありますね。
こうした活躍が室町幕府にも評価されたのか。
父・信玄が永禄元年(1558年)、信濃守護に任じられた際、義信は「准三管領」とみなされています。
ただし、この官職を与えられる条件の一つに
・長尾景虎(上杉謙信)との和睦
が含まれておりました。
信玄と謙信は1553年の第一次川中島の戦いから火花を散らしており、それに対して足利義輝から戦闘を止めるように求められていたのですね。
むろん信玄としてもスルーするわけにはいかず、義輝に対して陳述書を返信しますが、ここまで来て戦いが止むわけもありません。
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