服部半蔵正成

服部半蔵正成(左)と徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康の懐刀・服部半蔵正成は忍者というよりむしろ武士!55年の生涯

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信長vs家康vs家康長男にはさまれて

いくら格上の同盟相手とはいえ、嫡男の処分とは穏やかではありません。

当然、徳川家は大混乱に陥りました。

織田信忠(信長の嫡男)様より信康様のほうが出来がいいから信長は僻んでいるんだ!」

「娘の言い分だけ聞くとか何様だよ!」

「同盟破棄して一戦しましょう!」

「でもウチだけじゃ勝てないだろ? 信玄のとき(三方が原の戦い)みたいになるかもよ?」

などなど、さまざまな意見が飛び交い、迷った家康は信長との同盟存続を選び、息子と正妻の殺害を決意するのでした。

実際は、家中が松平信康派と徳川家康派に分裂する親子の権力争いだった――そんな見方もあり、なかなか有力な指摘にも見えますが、いずれにせよ家康が処刑を決意したことには変わりません。

切腹を命じられた信康。

その介錯(とどめ)を命じられたのが二代目・服部半蔵こと服部正成だったのです。

 

やはり介錯はできませぬ……

いざ信康が腹を切ったとき、正成は、涙が溢れ出て刀を握ることができませんでした。

「父祖の代から仕えてきた主筋のご嫡男に、刃を向けることなどできない」

一度は引き受けたのですから覚悟はしていたにしても、実際目の当たりにすると動けず、涙を流しつつ介錯を断ります。

もちろん呑気に構えてもいられません。

目の前では苦しむ松平信康がおり、結局、もう一人の介錯人である天方通経(あまかたみちつね)が請け負いました。

「戦場で鬼と言われたお前も、主君を手にかけることはできないか」

家康はそう納得したといいます。

家康も信頼置ける家臣だからこそ、正成を信頼して大役を任せてはおりました。

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が、それでも正成の評価は、かえって上がったようです。

なんだか天方さんが可哀相……。

 

本能寺で信長敗死!堺からの脱出劇

松平信康事件の後、疑いの晴れた家康はその後も信長と協力関係を続け、着々と勢力を拡大していきます。

とりわけ大きかったのが【甲州征伐】でしょう。

武田勝頼が自害をして、甲斐の武田家は滅亡したのです。

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中心となったのは織田信忠でしたが、それまで超強力な武田軍と正面切って戦い、織田家の躍進を縁の下で支え続けてきたのは徳川家です。

信長もよほど嬉しかったのでしょう。

徳川家康を安土城に招いて歓待することにしました。

このとき出されたのが以下の料理。

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各地の山海珍味が並べられ、デザートには当時超貴重だった甘いお菓子も惜しみなく出されています。

信長が本気で家康を歓待していた様子が伝わってきますが、この直後、とんでもない置き土産を渡されてしまいました。

本能寺の変】です。

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安土城の後に家康一行は、信長の勧めで京都・堺(大坂)の見物へ行っていたのですが、このタイミングで明智光秀が蜂起し、本能寺で亡くなっていたのです。

こうなると……。

反信長を旗幟鮮明にした光秀が、同盟相手の家康をそのまま帰すわけにはいかない。

絶体絶命とはこのことで、家康の周囲には三十数人という小学校一クラス程度の家臣しかおりませんでした。

赤鬼こと井伊直政や、戦国最強武将とされる本多忠勝など、徳川四天王も付き添っていたといいますが、さすがに明智の大軍に襲われればひとたまりもありません。

一刻も早く国許の三河へ戻るしか無い状況です。

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