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【松平信康】
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テンプレ通りの暴君説は逆に怪しい
他に現在立てられているいくつかの仮説は、大きく分けて
「信康暗君(暴君)説」
「家康・信康の親子不仲説」
に分類できるようです。
信康暗君(暴君)説
不審な死を遂げたお殿様に、決まってまとわりつくのがこの手の「日頃の行いが悪かったからバチが当たった」系の話です。
信康にも、以下のような暴君ぶりが伝わっています。
・日頃から乱暴だった
・盆踊りの際、目についた領民を面白半分で射殺した
・「狩りの途中で僧侶に会うと獲物が減る」という迷信を信じ、あるとき鷹狩りに行った先で僧侶の首を絞めて殺した
・家臣に対しても暴力を振るった
「妊婦の八つ裂き」こそないものの、家康の六男・忠輝や、信康からすると甥にあたる松平忠直(信康の弟・結城秀康の息子)などと同じような「暴君」ぶりです。テンプレでもあったのかと言いたくなります。
信康が自刃した際、何人かの家臣が殉死していますので、少なくとも「家臣に暴力を振るった」というのはなさそうですけれども。
やっぱり有力なのは不仲説?
もう一つの「親子不仲説」は、当時の世相が反映されていて、有力な説とみなす方も少なくありませんね。
より正確に言えば親子不仲説というより家臣分裂説かもしれませんが、まぁ、見て参りましょう。
親子不仲説
「もともと家康と信康は日頃から仲が悪く、家臣たちも派閥が生まれてしまったため、信康を始末して収束を図った」というものです。
上記の通り、家康と信康は普段別の城に住んでいました。
当然、別々の家臣が側近くに仕えることになります。
また、信康は家康が今川家にいた頃に生まれたため、その教育はほとんど築山殿や今川家側の人間によって行われたと考えられます。
「三つ子の魂百まで」というように、長じてからも信康が父や信長を敬わず、改善の兆しも見えなかった……というのも、ありえない話ではありません。
そのうち家臣たちまで「家康様を(ピー)して、早く信康様に当主になっていただこう!」と言い出したのだとしたら、やむなく家康が先手を打ち、信康と教育に失敗した築山殿を処分する、となるのも自然なことです。
また、”信長は直接切腹を要求しておらず、「家康の好きなようにしろ」と言っていた”らしきことが、信長公記の古い版に書かれています。
どちらかというと、やはり「不仲説」のほうが有り得そうな気がしますね。
家康にはこの時点で秀康(結城秀康)も秀忠(徳川秀忠)も生まれていますから、家康としては「息子をむざむざ殺すのは忍びないが、跡継ぎは他にいる」と考えてもおかしくはないでしょう。
非情なようですが、戦国時代の武家は個人の感情よりも「家を残すこと」が第一ですから。
関ヶ原と同日だけに家康にとっては感慨深い?
それから21年後の同日9月15日は、関ヶ原の戦い当日です。
家康にとっては様々な思いが交錯する日だったでしょう。
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徳川秀忠の遅参にヒステリックにも感じられるような反応をしたのも、そういうナーバスな心境の日だったからかもしれません。
秀忠は信康が自刃する5ヶ月前に生まれているので、当時のことをあまり良く知らなかったでしょうしね。
信康と顔が似ていたとされる忠輝を遠ざけたといわれていますし、後々まで家康は信康に対して負い目を感じていたようです。
浜松に清瀧寺(せいりゅうじ)という立派なお寺も建てました。
信康の切腹と本能寺の変がなく、順調に行っていたら、信長と家康の固い結束がその息子たちである信忠と信康の時代にも続いていたでしょう。
同じ「信」の字を戴く者同士で年齢も近いですし。
そういう歴史も見てみたかったですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
松平信康/Wikipedia