全国的にはマイナーだけど、ある地域ではバツグンの知名度を誇る「ご当地マイナー武将」を紹介する当連載。
今回の注目は大河ドラマ『どうする家康』にも登場し、寛永元年(1624年)7月13日に亡くなられた福島正則さんでございます!
「え? 普通に全国的に有名じゃん!」
そう思われる武将ですよね。
戦国好きの方だったら「豊臣秀吉の親戚で、出身は尾張(愛知県)でしょ?」と付け足したくなるほどかもしれません。
秀吉子飼いの武将・加藤清正と並ぶ存在だった福島正則。
今回は“あのメジャー武将の意外な終焉の地”に注目して、その生涯と共にご紹介させていただきます。

福島正則/Wikipediaより引用
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福島正則 なぜ長野県北部の町村へ?
「意外な地」とはどこなのか?
戦国好きな方でしたら、こう申されるかもしれません。
「愛知県清須市でしょ? 秀吉政権の時に清洲城の城主を務めてたんだし」
「はいはい、江戸時代に徳川家康から広島城主を任されたから広島市ね?」
フフッ……今回はそのどちらでもございません。
福島正則さんの意外なゆかりの地というのは「長野県高山村&小布施町」です!

長野県小布施町(→link)
豊臣恩顧として知られる福島正則さん。なぜ長野県北部の町村がゆかりの地に?
結論から申し上げますと終焉の地だからです。
天下人・豊臣秀吉の出世と生涯に関わり、戦国の世を駆け抜け大大名が、縁もゆかりもなかった信州で最期を迎える―――いったい何があったのか?
晩年にピントを合わせつつ、その生涯に迫っていきましょう!
桶屋の倅が武士になった理由
福島正則さんが尾張の海東郡に生まれたのは1561年(永禄4年)のこと。
タメには、後に「関ヶ原の戦い」で因縁を持つことになる井伊直政(家康の重臣、徳川四天王)や吉川広家(毛利元就の孫、吉川元春の子)などがいます。
また、出来事で言うと武田信玄と上杉謙信による「第四次川中島の戦い」が起きた年でもあります。
これまた因縁ですが、福島正則が晩年を過ごした長野県北部は、まさに武田信玄と上杉謙信が奪い合って5度に渡る大きな戦いを繰り広げた場所でもありました。

武田信玄と上杉謙信 photo by お城野郎(R.FUJISE)
そんな福島正則さんの実家は武士ではなく桶屋だったそうです。
なぜ桶屋の倅が、武士として取り立てられたか? というと母親が大政所の妹だったと言われているためです。
大政所は秀吉の母親にあたるお方。ハッキリと分かっていない部分は多いんですが、福島正則さんと秀吉は従兄弟の関係だったんですね。
ちなみに、歴史ドラマなどで福島正則さんとペアで描かれがちな1歳年下の加藤清正も、母親が大政所と従姉妹だった(妹とも)と言われています。

大政所(秀吉母・なか)/wikipediaより引用
福島正則さんの幼名は「市松」と言います。
市松と聞くと、歴史好きならずとも連想するのが「市松模様」ですね。
福島正則さんが由来!と言いたいところですが、コチラは江戸時代中期の歌舞伎役者だった佐野川市松が白と紺の格子模様が施された袴を履いて流行したため、市松模様と呼ばれるようになったそうです。
1年延期となった「東京オリンピック」のマスコットキャラのミライトワにも、日本を代表する模様として市松模様がデザインされていますね。
話が逸れました!
改めて言いますと、市松模様と福島正則さんは関係ございません(笑)
初陣は干し殺しでお馴染みの三木城だった
さて、主人公に話を戻しましょう!
福島正則さんはハッキリした時期は不明ながら、幼少期から秀吉に仕えたといいます。
幼名を「虎之助」と言った幼馴染の加藤清正は、天正元年(1573年)に秀吉が長浜城(滋賀県長浜市)の城主になった頃に小姓となったと言われていますので、福島正則さんもおそらくそのタイミングでしょう。
年齢は、数え年で13歳。
それから5年後の天正6年(1578年)に、当時18歳の福島正則さんは初陣を迎えます。
何の戦いだったかというと、主君である秀吉が織田信長から命じられた三木城(兵庫県三木市)の攻防戦です。
秀吉は周囲に本陣や付城つけじろ(砦)を築き、兵糧攻め作戦である「三木の干し殺し」が2年近く行われ、城主の別所長治は城兵の助命を条件に自害。落城を迎えたことで知られています。
ちなみに、秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛(重治)は、三木城を包囲している最中に亡くなったため、三木市にお墓が建てられています。
その後も秀吉の側近として各地を転戦。
大きな転機となったのが、やはり天正10年(1582年)【本能寺の変】でした。
明智光秀軍を相手に勝竜寺城攻め
主君の秀吉は、備中高松城(岡山市)を水攻めしていたものの、敵方の毛利家と和睦を結んで京都へ向かいます。
この行軍に、福島正則さんも同行していました。
そして、本能寺の変から11日後に、秀吉軍と明智光秀軍との【山崎の戦い】が勃発。
秀吉軍は勝利を収めますが、この時に福島正則さんは明智光秀の支城となっていた勝竜寺城(京都府長岡京市)攻めで武功を挙げたそうです。
ちなみに、この勝竜寺城は、かつて細川幽斎(細川藤孝)の居城であり、明智光秀の娘のガラシャ(玉)が嫁ぎ、夫の細川忠興と新婚生活を送った場所でもあります。
山崎の戦いで敗れた明智光秀は、勝竜寺城に入ったものの、福島正則さんを含む秀吉の大軍を前に撤退を決意。
居城の坂本城(滋賀県大津市)を目指しますが、その途中の京都・小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りに遭い、亡くなってしまうのです。
こうして、秀吉は天下取りレースの有力者に急浮上!
翌年の天正11年(1583年)には、織田家の後継者争いで対立した柴田勝家と激突。あの「賤ヶ岳の戦い」(滋賀県長浜市)が起こります。
この合戦で超が付くほどの大活躍をしたのが、福島正則さんです。
福島正則さんは戦場での誉れである「一番槍」(戦場で一番初めに敵陣に槍を突き入れること)を果たします。さらに敵将の首を誰よりも早く取る「一番首」の武功を挙げました。
この戦いで秀吉軍は大勝利!
特に活躍した秀吉の家臣は、戦国好きにはおなじみ「賤ヶ岳の七本槍」と称されました。その筆頭が、何を隠そう福島正則さんです。
7人の中では他に幼馴染の加藤清正が有名ですね。残りのメンバー(加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟谷武則)は3,000石の褒賞ながら、福島正則さんは5,000石をゲットしているのです。
衝撃!秀次切腹事件
その後も、秀吉のお気に入りの大名として各地を転戦して、大名へとのし上がって行きました。
以下、ザックリ年表をどうぞ!
◆天正12年(1584年)
【小牧・長久手の戦い】秀吉 vs 織田信雄(信長の次男)&徳川家康の連合軍
◆天正13年(1585年)
【四国征伐】秀吉vs長宗我部元親
◆天正15年(1587年)
【九州征伐】秀吉vs島津義久
⇒伊予(愛媛県)で11万3千石の大名となる。
お城は唐子山に築かれていた国府城(今治市)。※今治城が藤堂高虎によって築かれるのは1602年から
◆天正18年(1590年)
【小田原征伐】秀吉vs北条氏政&北条氏直
⇒織田信雄の軍勢に加わり韮山城(静岡県伊豆の国市)を包囲して開城
◆文禄元年(1592年)
【文禄の役】(秀吉による1度目の朝鮮出兵)
⇒五番隊の総大将として長宗我部元親や蜂須賀家政などを率いて活躍
以上のような感じです!
さらに福島正則さんは24万石の大大名となります。
それが文禄4年(1595年)のことなんですが、この年、秀吉の甥で養子となっていた豊臣秀次が切腹するという大事件が起きました。
秀吉は実子の鶴松が天正19年(1591年)に亡くなり、豊臣秀次を養子として後継者に指名しました。
しかし、文禄2年(1593年)、実子のお拾(後の豊臣秀頼)が誕生。
後継者となっていた秀次との関係が悪化していき、ついに切腹となってしまったのです。
切腹の前、豊臣秀次は秀吉との対立を避け、京都を離れて高野山に向かいました。
秀吉が母(大政所)の供養のために建立した青巌寺(和歌山県高野町/現・金剛峯寺)で剃髪して謹慎したのです。
しかし、秀吉から使者によって命令がもたらされ、同寺で切腹。
この時の使者が、実は福島正則さんでした。そして、この切腹事件の後に、豊臣秀次の領地だった清洲24万石を与えられ、清洲城の城主となったのです。
※秀次切腹事件については「自ら腹を斬った」など諸説あり
三成襲撃事件
故郷の尾張に大大名として凱旋した福島正則さん。秀吉からは「羽柴」の名字や「豊臣」の姓を与えられるなど、紛れもなく秀吉政権の有力大名となりました。
しかし、その秀吉も、慶長3年(1598年)に死去してしまうと、政権内で大きな争いが起きてしまいます。
朝鮮出兵をキッカケに不仲になっていた五奉行・石田三成を政権から追放しようと、福島正則さんらが画策。
慶長4年(1599年)閏3月3日、秀吉政権のキーマン大名だった前田利家が亡くなると、その日の深夜に、福島正則さんは仲間の大名と共に石田三成を襲撃したといいます。
結果、討ち漏らしたものの、石田三成は居城の佐和山城(滋賀県彦根市)で隠居となり、政権からは追放されました。豊臣政権を支えた秀吉子飼いの武将たちによって争いが起き、政権が自壊していくとは、なんとも皮肉です……。
ちなみに、このとき石田三成を襲撃した大名は「七将」と称されることがあります。
賤ヶ岳七本槍の加藤清正と加藤嘉明が参加していた他、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、黒田長政など、名だたる若手大名たちがいました。
※襲撃した事実はなく、石田三成を訴訟によって追放したという説もあり!
福島正則さんは、秀吉亡き後、秀吉政権の五大老の筆頭だった徳川家康に接近していきます。
石田三成の襲撃事件が起きたその年。徳川家康の姪で養女の満天姫を、自分の後継者である甥・福島正之の正室に迎えるのです。
そして運命の慶長5年(1600年)を迎えました。
【関ヶ原の戦い】です。
ハイライト!小山評定
福島正則さんをさらに躍進させた関ヶ原の戦いの全貌は次のような感じ。
まず五大老の前田利長(利家の子)に謀反のウワサ…
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徳川家康が前田家の討伐に動く!
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前田利長は戦わずに降伏…
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続いて五大老の上杉景勝(謙信の養子)にも謀反のウワサ…
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徳川家康は今度は上杉家の討伐に動く!
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上杉家の執政の直江兼続が「直江状」で謀反のウワサをぶった斬る! というか「来るなら、来いや」という締めくくり!
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徳川家康による「会津征伐」がスタート!
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討伐軍が下野しもつけ(栃木県)あたりに集結したあたりで畿内で石田三成らが挙兵の報せ!
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「小山評定」今後の対応について徳川家康が率いていた大名たちを呼び会議を開く!
この小山評定は、福島正則さんのハイライトシーンの1つかもしれません。
徳川家康「妻子を人質に取られている方もいるから、石田三成らに味方しても恨まぬ。遠慮なく申し出られよ」
福島正則「内府だいふ(家康)殿にお味方いたす!」
こうして秀吉と縁の深い福島正則さんが即答で徳川家康に味方することを表明したため、評定に参加した大名たちは次々に徳川家康の味方になり、いわゆる“東軍”が結成されました。
事前に黒田長政から、会議の内容を知らされていて、すぐに味方を表明するように演出が入っていたとも言われますが、それはまぁ置いておきましょう(笑)。
また、この会議中に、大河ドラマ『功名が辻』の主人公になった山内一豊が、当時居城の掛川城(静岡県掛川市)と領地を差し出し、その功績として戦後に土佐(高知県)一国を与えられたという逸話も有名ですね。
その後、福島正則さんは東軍の先陣として西へ進み、8月19日に自らの居城である清洲城に入城。
総大将の徳川家康が、まだ居城の江戸城にいたため、東軍の諸将と清洲城で待機するも、家康からの伝令(村越直吉)が「出陣して敵と戦い、味方であることを明らかにせよ」と告げると、「それは尤もだ」として出陣し、西軍の諸城を攻撃し始めます。
竹ヶ鼻城から岐阜城へ
福島正則さんは、同僚の池田輝政と先陣を争いつつ、木曽川を渡って美濃(岐阜県)に進出!
西軍に与した竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)を攻め落としました。
ちなみに、このお城は【小牧長久手の戦い】の時に、秀吉が堤防を築いて水攻めして攻め落としていたりします。市内には一夜堤と呼ばれる秀吉の堤防の跡が残されています。
竹ヶ鼻城の落城は8月22日。
翌23日には、美濃の盟主的存在だった織田秀信の岐阜城に攻め寄せました。
織田秀信とは、本能寺の変後に開かれた清洲会議で秀吉に擁立された三法師です。信長の父・織田信秀ではありません。織田信長の孫で元服して秀信と名乗り、この時21歳でした。

三法師が成長して織田秀信となる/wikipediaより引用
この【岐阜城の戦い】でも、池田輝政と先陣争いで揉めた結果、福島正則さんの軍勢は七曲道と呼ばれる大手道から、池田輝政の軍勢は水手道と呼ばれる搦手からめて道から攻め掛かりました。
池田輝政が天正13年(1585年)から5年間、岐阜城の城主を務めて勝手を知っていたこともあり、東軍は瞬く間に本丸まで迫り、池田輝政の説得もあって開城となりました。
こうして、わずか1日で岐阜城は陥落したのです。
ちなみに、岐阜城を離れた織田秀信は、城下の浄泉院(現在の円徳寺)で剃髪し、高野山に送られました。
円徳寺は、織田家ゆかりの寺院です。大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれた、天文16年(1547年)【加納口の戦い】で、織田信秀(信長の父)が大敗し、そのとき討ち死にした家臣たちを弔う「織田塚」が築かれています。
高野山での織田秀信は、祖父・信長がかつて攻撃を仕掛けていた因縁から冷遇され、山麓に住み、慶長10年(1605年)にわずか26歳で亡くなっています。
病死とも、自害とも伝えられています。
かたや、福島正則さんのようにさらなる出世をする者もいれば、祖父が天下人だったにも関わらず、ちょっとした巡り合わせや油断で滅亡・早世するっていうのは、時代の厳しさを考えさせられますね。
赤鬼井伊の抜け駆けで始まった
岐阜城を落とした福島正則さんは、さらに西に転進。9月15日に西軍と激突し、ついに【関ヶ原の戦い】が勃発します。
通説によると、福島正則さんの陣地は東軍最前線である春日神社の辺り。
東軍の予定だと、先陣は福島正則さんと決定していたんですが、合戦がスタートする時に東軍内でトラブルが起きます。
現在の関ヶ原駅の近く、陸橋を北に渡ってすぐの所に「松平忠吉・井伊直政陣跡」があります。

関ヶ原の戦い松平忠吉・井伊直政陣跡/photo by 立花左近 wikipediaより引用
井伊直政というのはご存知、徳川家康の重臣で徳川四天王の1人に数えられている人物です。
松平忠吉というのは、私の地元・忍城(埼玉県行田市)の城主を務めていた徳川家康の四男で、関ヶ原の戦いが記念すべき初陣だったお方です。正室が井伊直政の娘だったことから、松平忠吉の後見役を井伊直政が務め、合戦に臨んでいました。
「婿殿に晴れ晴れしい初陣を迎えてもらいたい!」
そう思ったのか、井伊直政は先陣の福島正則さんの軍勢をすり抜けて、先頭に出ようとしたそうです。
それを発見した福島正則軍の可児才蔵が止めると、井伊直政は「徳川家康から偵察の命令を受けている」とウソをつき、娘婿・松平忠吉を率いて抜け駆けをして、辰の刻(午前8時頃)に開戦されたと言われています。
福島正則さんは、西軍の有力大名・宇喜多秀家と激しい戦闘を繰り返し、一時は宇喜多軍に退却を強いられるなど苦戦をしたそうです。
しかし、松尾山に布陣していた小早川秀秋(秀吉の甥、養子)が東軍に味方することを表明して、西軍を攻撃。
松尾山の麓に陣を張っていた4人の武将(朽木元綱、脇坂安治、赤座直保、小川祐忠)も東軍に寝返り、西軍は総崩れとなりました。
西軍の総大将だった毛利輝元(元就の孫、五大老の1人)は安芸(広島県)から、お隣の周防・長門ながと(山口県)に減封・移封となり、その替わりとして安芸・備後で49万8千石の大大大名となったのが福島正則さんでした。
広島城を大改築
居城は広島城(広島市)。
天正17年(1589年)に毛利輝元によって築城されたこともあり「毛利家!」のイメージが強いですが、実は現在残るような城郭へと大改築したのは福島正則さんです。
安土城をはじめ、全国数多の石垣を手掛けた職人集団・穴太衆を招いて石垣を築き、外郭部分を大規模に整備。
城の北側を通っていた西日本の主要道路「西国街道」を城下の南側に付け替えて城下町を作り上げました。
さらに、広島城は三角州に築かれ水害に悩まされていたため、新たに堤防を設置しています。毛利家への対策などから領国には6ヶ所の支城を設けて築城&大改築しました。
福島正則さんというと、どうしても猪武者やら酒癖が悪いやら、直情型の猛将というイメージをしてしまいます。
が、実は“名君”や“善政家”としての一面も持っていたのです。
ちなみに、酒癖の悪さを物語るエピソードについては拙著『ポンコツ武将列伝(柏書房)』(→amazon)をご参照くださいませ(笑)。
毒殺!? 秀吉恩顧の大名たちの連続死
さて、安芸・備後を繁栄させようと精力的に活動していた福島正則さん。
支城の亀居城(広島県大竹市)があまりに立派なお城だったことなどから、徳川家康から警戒視されてお咎めを受け、慶長14年(1609年)には一時的に謹慎を命じられています。
また、この頃になると、福島正則さんの盟友だった歴戦の武将たちが次々に亡くなっていきました。
慶長16年(1611年)には加藤清正と浅野長政(幸長の父)、慶長18年(1613年)には池田輝政と浅野幸長が病死しています。
不思議なことに、慶長16年(1611年)の後陽成天皇の譲位をキッカケに行われた、徳川家康と豊臣秀頼【二条城の会見】以降に続々と亡くなっているんですよね。
この会見は、徳川家が豊臣家よりも優位な立場であることが内外に示された大事件だったのですが、加藤清正と池田輝政と浅野幸長が同行していたんです。
秀吉のおかげで世に出てきた大名たちが、偶然にも連続死。早くから「徳川家康による毒殺!?」というウワサが流れたようです。
大河ドラマ『真田丸』だと、服部半蔵(浜谷健司さん)が加藤清正(新井浩文さん)に毒を振り掛けたようなシーンが描かれていましたね。
福島正則さんは会見には同行しなかったので無事だったものの(?)、慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を申し出ます。
しかし江戸幕府は、福島正則さんをまだ必要としていたのか、この隠居願いを却下。
それから2年後の慶長19年(1614年)に【大坂冬の陣】、翌年に【大坂夏の陣】が勃発します。福島正則さんは、江戸幕府に豊臣家との関係を警戒されたのか、どちらの合戦とも江戸城の留守居役を命じられ、大阪へは息子の福島忠勝が出陣しました。
ちなみに福島正則さんは、長男の福島正友が早くに亡くなり後継者がいなかったため、甥(福島正之)を養子として、竹ヶ鼻城や岐阜城の攻防戦、関ヶ原の戦いなどを共に戦いました。
ところがです。
実子が誕生すると、それから9年後の慶長12年(1607年)に「福島正之の乱行が酷い」として江戸幕府に訴え、閉じ込めてしまいます。
そして、福島正之は急死。食を絶ったため餓死したとか、福島正則さんが殺害を命じたとも言われています。
皮肉にも、家督相続において、かつての主君だった従兄弟の秀吉と同じ策を取ってしまったようです。
豊臣軍に内通!? 大坂の陣で福島家、危うし!!
さてさて、再び話は大坂の陣に戻しましょう。
この戦いは、福島正則さん、いや福島家にとって非常に面倒な戦となってしまいました。
福島正則さんと息子の福島忠勝はしっかりと徳川軍として戦ったものの、福島家の一族(福島正則さんの甥か?)である福島正守と福島正鎮が、あろうことか大坂城へ入城し、豊臣軍として戦ってしまったんです(2人は戦後、行方不明)。
さらに悪いことに、徳川軍だったはずの弟(福島高晴)が、豊臣軍に内通して密かに大坂城へ兵糧を運び入れていたという容疑を掛かけられてしまいます。
弟の福島高晴も同じく秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでも東軍で活躍したことから宇陀松山城(奈良県宇陀市)の城主となっていました。
しかし結局、この疑惑で改易に追い込まれてしまいました。福島家、危うし!!
確かに福島家自体にも問題はあります。
しかし、江戸幕府の謀略的なものを感じなくも無いこの展開……。
決定打となったのは元和5年(1619年)、広島城修復に関するトラブルでした。
遡ること2年前。
広島城は大洪水によって大きな被害を受けていました。そのため元和4年(1618年)から修復作業を行い始めていたのですが、福島正則さんは江戸幕府への修復の届け出をせずに事後報告で済ませようとしました。
これがまずかった!
江戸幕府は元和元年(1615年)に制定した【武家諸法度」でお城を工事する時には、事前に届け出が必要だということを明記していたのです。
つまり、福島正則さんは法律違反ということです。
この事実を知った2代将軍・徳川秀忠は怒り「新たに修築した部分をことごとく破壊しろ」という命令を下します。
このとき素直に従っていれば運命も変わっていたのでしょう。しかし、福島正則は石垣を少し破壊しただけで、命令を徹底的に実行しませんでした。
確かに、角っこの石垣を少し崩しただけでもOKとされることもあるので、福島正則さんは「まぁ、大丈夫だろう」という感じだったのかもしれません。
ところが江戸幕府は甘くありませんでした。
福島正則さんは安芸・備後の巨大な領地を没収され、新たに津軽(青森県弘前市)への転封が命じられるのです。
津軽といえば弘前城――。
弘前城といえば幕末までずっとお殿様を務めた津軽家ですが、この時に津軽家に対しては信濃の川中島(長野市)への転封が命じられています。
「なんで、津軽が急に登場???」
そう思われるかもしれませんが、当時の津軽家当主・津軽信枚の正室が、福島正則さんが死に追い込んだ福島正之の正室だった満天姫という関係があったためです。
ただ、この転封の命令は中止となり、福島正則さんは結局、信濃・高井野(長野県高山村)と越後の魚沼郡(魚沼市や南魚沼市など)に4万5千石を与えられることとなりました。
お待たせしました!
ようやくここで、冒頭でお話しした高山村が登場です!
お疲れ様です、私もお疲れ様です(笑)。
49万8千石から4万5千石へ絶望的ダウン
さて、一応、信濃北部の大名として存続を許された福島家。
49万8千石から4万5千石という絶望的な大幅ダウンです。
高井野に移った正則さんは、家督を息子の福島忠勝に譲って隠居・出家し、「高斎」と名乗りました。
当初は長野県須坂市の「寿泉院」で2年ほど暮らしますが、息子の福島忠勝が先立って病死すると、屋敷を高山村へ移転。
寿泉院には現在、高山村の屋敷にあった正門が、福島正則さんの遺命によって移築されています。
引っ越してきて暮らした場所であるということもあるんですが、それ以外にも観音堂に祀られている観音様が秀吉の厄除け観音「豊太閤護持仏」だったことが移築の大きな理由だったようです。
ちなみに、なぜ秀吉の観音様がここにあるのか?
というと須坂藩の初代藩主・堀直重(父は堀直政/“名人久太郎”のあだ名で有名な堀秀政の従兄弟)が【大坂の陣】で徳川秀忠に仕えて手柄を立て、褒美として賜ったためだそうです。
また、移築された門には、福島正則さんの直筆の「河東禅林」の額が掲げられていたのですが、トラックに衝突されてしまい、現在は額の上部がわずかに残っているのみです。
さて、息子の早世にショックを受けた福島正則さんは、魚沼郡の2万5千石を幕府に返上。
そして、寿泉院から新たに高山村に屋敷を構え、現在は「福島正則屋敷跡」として長野県史跡に指定されています。屋敷のサイズは103m×70mの方形館で、東北の隅っこに土塁が現存しています。
私も先日、実際にこの地を訪れましたが、周辺にはリンゴ畑やブドウ畑が広がる静かな地域で、やや坂を登った高地にあるので、西の長野市周辺を見渡すことができ、その奥には北アルプスの山々を望むことができます。実に美しい場所でした!
屋敷跡には江戸時代中期に高井寺が移転され、現在に至っています。
寛永元年(1624年)7月13日、福島正則さんはこの屋敷で病死しました。
享年64。
とても暑い日だったこともあり、遺体が腐敗することを嫌った家臣が火葬を行い、現在も「福島正則荼毘所跡」として伝えられています。
跡地には杉の木が1本植えられて大木となり「傷をつけると血が噴き出す」と地元の方々に言い伝えられ大切にされてきました。
しかし、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊してしまったため、現在は2代目が植えられ育まれています。
度重なる悲劇も……綱吉時代に旗本復活!
さて、福島家にはまだ悲劇が待っています……。
家臣が火葬したのは、江戸幕府の検死役が到着する前。つまり幕府のオフィシャルなチェックが入る前に、荼毘に付してしまったのです。
そのため再度お咎めを受けてしまい、なんと福島家に残された2万石の領地も没収!
幕府、ちょっとそれはやり過ぎじゃないか!
と私が怒ったところで、歴史が変わるわけではございません。武家諸法度をはじめ、大名への締め付けが厳しくなっていた時代だから仕方ありません。
大名としては改易となった福島家ですが、その後、福島正則さんのもう一人の息子(福島正利)に旧領地から3112石のみが与えられて旗本として復活しました。
良かった良かった、と思ったところで、再びトラジディが……。
福島家の最後の望みだった福島正利は、後継者がないまま寛永14年(1637年)に37歳で死去。同家は、御家断絶となってしまったのです。
福島正則さんと福島正利の親子のお墓は、福島正利が建立した正覚院(東京都港区)に隣り合わせで立っています。

東京都港区三田の平等山正覚院にある福島正則(右側)と福島正利の供養墓/photo by 江戸村のとくぞう wikipediaより引用
福島家、万事休す…もはやこれまでか……。
イヤイヤ、天は福島家を見捨てませんでした。
福島正則さんの曽孫・福島正勝が天和元年(1681年)、江戸幕府から招かれて5代将軍・徳川綱吉に謁見し、御家再興を許されたのです。
この後、福島家は再び旗本として存続が許されています。さすがお犬様、優しい。
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菩提寺の岩松院に今なお残る遺品の数々
さてさて、福島正則さんが与えられた晩年の領地には、ゆかりの史跡がまだ残されています。
小布施町には、江戸時代の天才絵師・葛飾北斎が89歳の時に描いた天井絵『八方睨鳳凰図』で世界的にも有名な「岩松院」というお寺があります。
また、江戸時代の俳人の小林一茶が「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」と詠んだ池があることでも知られています。
実はこのお寺には、福島正則さんが馬の口を引く家臣一人だけを連れ、屋敷から馬に乗って足繁く通っていたそうです。
福島正則さんは生前にこの岩松院を自身の菩提寺として定め、荼毘の後に遺骨が埋葬されました。埋葬地には霊廟が建立され、現在も大五輪塔が残されています。
また、本堂には福島正則さんの多くの遺品を見学することができます。
福島正則さんの御位牌、信仰した観音像、岩松院に通った時に使用した馬具(鞍くらや鎧あぶみなど)、食器や茶器や絹織物などなど。
お寺の言い伝えによると、福島正則さんの遺言によって岩松院に奉納されたそうです。
本堂内は撮影禁止なので、その目で是非ご覧くださいませ。
また、“暴れ川”で有名だった領内の松川氾濫を防ぐため福島正則さんが築いたという堤防の「大夫千両堤」(福島正則公千両堤)も現代まで受け継がれ、今も街を水害から防いでいます。
ちなみに、大夫というのは福島正則さんの官職名の「左衛門大夫」に由来しています(読み方は「たゆう」「だいぶ」とも)。
福島正則さんに由来する地名だと、伏見城(京都市伏見区)の屋敷跡が「福島太夫」と呼ばれていたり、生誕地のあま市には「正則小学校」があったりしますね。

「大夫千両堤」/もっと知ろう信濃川・千曲川より
さてさてさて、今回は特別枠ということで“メジャー武将の福島正則さんの意外な晩年とゆかりの地”をご紹介しました。
あー、旅に出たい!(笑)
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◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon)
『ポンコツ武将列伝』(→amazon)
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon)





























