福島正則/Wikipediaより引用

豊臣家 れきしクン

福島正則すったもんだの転封&改易劇〜終焉の地は意外や信州!

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
福島正則
をクリックお願いします。

 

秀吉は実子の鶴松が天正19年(1591年)に亡くなり、豊臣秀次を養子として後継者に指名しました。

しかし、文禄2年(1593年)、実子のおひろい(後の豊臣秀頼)が誕生。後継者となっていた豊臣秀頼との関係が悪化していき、ついに切腹となってしまったのです。

豊臣秀次/wikipediaより引用

切腹の前、豊臣秀次は秀吉との対立を避け、京都を離れて高野山に向かいました。秀吉が母(大政所)の供養のために建立した青巌寺せいがんじ(和歌山県高野町/現・金剛峯寺こんごうぶじ)で剃髪して謹慎したのです。

しかし、秀吉から使者によって命令がもたらされ、同寺で切腹。

この時の使者が、実は福島正則さんでした。そして、この切腹事件の後に、豊臣秀次の領地だった清洲24万石を与えられ、清洲城の城主となったのです。

※秀次切腹事件については「自ら腹を斬った」など諸説あり!

 

三成襲撃事件

故郷の尾張に大大名として凱旋した福島正則さん。秀吉からは「羽柴」の名字や「豊臣」の姓を与えられるなど、紛れもなく秀吉政権の有力大名となりました。

しかし、その秀吉も、慶長3年(1598年)に死去してしまうと、政権内で大きな争いが起きてしまいます。

朝鮮出兵をキッカケに不仲になっていた五奉行・石田三成を政権から追放しようと、福島正則さんらが画策。

慶長4年(1599年)閏3月3日、秀吉政権のキーマン大名だった前田利家が亡くなると、その日の深夜に、福島正則さんは仲間の大名と共に石田三成を襲撃したといいます。

結果、討ち漏らしたものの、石田三成は居城の佐和山城(滋賀県彦根市)で隠居となり、政権からは追放されました。豊臣政権を支えた秀吉子飼いの武将たちによって争いが起き、政権が自壊していくとは、なんとも皮肉です……。

ちなみに、このとき石田三成を襲撃した大名は「七将」と称されることがあります。

賤ヶ岳七本槍の加藤清正と加藤嘉明が参加していた他、池田輝政、細川忠興浅野幸長あさのよしなが黒田長政など、名だたる若手大名たちがいました。

※襲撃した事実はなく、石田三成を訴訟によって追放したという説もあり!

石田三成/wikipediaより引用

福島正則さんは、秀吉亡き後、秀吉政権の五大老の筆頭だった徳川家康に接近していきます。

石田三成の襲撃事件が起きたその年。徳川家康の姪で養女の満天姫を、自分の後継者である甥・福島正之の正室に迎えるのです。

そして運命の慶長5年(1600年)を迎えました。

【関ヶ原の戦い】です。

 

ハイライト!小山評定

福島正則さんをさらに躍進させる合戦になり、その経緯は次のような感じ。

まず五大老の前田利長(利家の子)に謀反のウワサ…

徳川家康が前田家の討伐に動く!

前田利長は戦わずに降伏…

続いて五大老の上杉景勝(謙信の養子)にも謀反のウワサ…

徳川家康は今度は上杉家の討伐に動く!

上杉家の執政の直江兼続が「直江状」で謀反のウワサをぶった斬る! というか「来るなら、来いや」という締めくくり!

徳川家康による「会津征伐」がスタート!

討伐軍が下野しもつけ(栃木県)あたりに集結したあたりで畿内で石田三成らが挙兵の報せ!

小山評定おやまひょうじょう」今後の対応について徳川家康が率いていた大名たちを呼び会議を開く!

上杉征伐と小山評定から家康vs三成の関ヶ原はバッチバチに始まっていた!

続きを見る

この小山評定は、福島正則さんのハイライトシーンの1つかもしれません。

徳川家康「妻子を人質に取られている方もいるから、石田三成らに味方しても恨まぬ。遠慮なく申し出られよ」

福島正則「内府だいふ(家康)殿にお味方いたす!」

こうして秀吉と縁の深い福島正則さんが即答で徳川家康に味方することを表明したため、評定に参加した大名たちは次々に徳川家康の味方になり、いわゆる“東軍”が結成されました。

事前に黒田長政から、会議の内容を知らされていて、すぐに味方を表明するように演出が入っていたとも言われますが、それはまぁ置いておきましょう(笑)。

また、この会議中に、大河ドラマ『功名が辻』の主人公になった山内一豊やまうちかずとよが、当時居城の掛川城(静岡県掛川市)と領地を差し出し、その功績として戦後に土佐(高知県)一国を与えられたという逸話も有名ですね。

山内一豊/wikipediaより引用

その後、福島正則さんは東軍の先陣として西へ進み、8月19日に自らの居城である清洲城に入城。

総大将の徳川家康が、まだ居城の江戸城にいたため、東軍の諸将と清洲城で待機するも、家康からの伝令(村越直吉むらこしなおよし)が「出陣して敵と戦い、味方であることを明らかにせよ」と告げると、「それは尤もだ」として出陣し、西軍の諸城を攻撃し始めます。

 

竹ヶ鼻城から岐阜城へ

福島正則さんは、同僚の池田輝政と先陣を争いつつ、木曽川を渡って美濃みの(岐阜県)に進出!

西軍に与した竹ヶ鼻城たけがはなじょう(岐阜県羽島市)を攻め落としました。

ちなみに、このお城は【小牧長久手の戦い】の時に、秀吉が堤防を築いて水攻めして攻め落としていたりします。市内には一夜堤と呼ばれる秀吉の堤防の跡が残されています。

竹ヶ鼻城の落城は8月22日。
翌23日には、美濃の盟主的存在だった織田秀信の岐阜城に攻め寄せました。

織田秀信とは、本能寺の変後に開かれた清洲会議で、秀吉に擁立された織田信長の孫・三法師さんぽうしです。元服して秀信と名乗り、この時21歳でした。

織田秀信/wikipediaより引用

この【岐阜城の戦い】でも、池田輝政と先陣争いで揉めた結果、福島正則さんの軍勢は七曲道ななまがりみちと呼ばれる大手道から、池田輝政の軍勢は水手道と呼ばれる搦手からめて道から攻め掛かりました。

池田輝政が天正13年(1585年)から5年間、岐阜城の城主を務めて勝手を知っていたこともあり、東軍は瞬く間に本丸まで迫り、池田輝政の説得もあって開城となりました。
こうして、わずか1日で岐阜城は陥落したのです。

峻険な金華山に建つ岐阜城

ちなみに、岐阜城を離れた織田秀信は、城下の浄泉院(現在の円徳寺)で剃髪し、高野山に送られました。

円徳寺は、織田家ゆかりの寺院です。大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれた、天文16年(1547年)【加納口の戦い】で、織田信秀(信長の父)が大敗し、そのとき討ち死にした家臣たちを弔う「織田塚」が築かれています。

高野山での織田秀信は、祖父・信長がかつて攻撃を仕掛けていた因縁から冷遇され、山麓に住み、慶長10年(1605年)にわずか26歳で亡くなっています。病死とも、自害とも伝えられています。

かたや、福島正則さんのようにさらなる出世をする者もいれば、祖父が天下人だったにも関わらず、ちょっとした巡り合わせや油断で滅亡・早世するっていうのは、時代の厳しさを考えさせられますね。

 

赤鬼井伊の抜け駆けで始まった

岐阜城を落とした福島正則さんは、さらに西に転進。9月15日に西軍と激突し、ついに【関ヶ原の戦い】が勃発します。

通説によると、福島正則さんの陣地は東軍最前線である春日神社の辺り。

福島正則陣跡(関ヶ原古戦場)

東軍の予定だと、先陣は福島正則さんと決定していたんですが、合戦がスタートする時に東軍内でトラブルが起きます。

現在の関ヶ原駅の近く、陸橋を北に渡ってすぐの所に「松平忠吉井伊直政陣跡」があります。

関ヶ原の戦い松平忠吉・井伊直政陣跡/photo by 立花左近 wikipediaより引用

井伊直政というのはご存知、徳川家康の重臣で徳川四天王の1人に数えられている人物です。

松平忠吉というのは、私の地元・忍城おしじょう(埼玉県行田市)の城主を務めていた徳川家康の四男で、関ヶ原の戦いが記念すべき初陣だったお方です。正室が井伊直政の娘だったことから、松平忠吉の後見役を井伊直政が務め、合戦に臨んでいました。

松平忠吉/wikipediaより引用

「婿殿に晴れ晴れしい初陣を迎えてもらいたい!」

そう思ったのか、井伊直政は先陣の福島正則さんの軍勢をすり抜けて、先頭に出ようとしたそうです。

それを発見した福島正則軍の可児才蔵かにさいぞうが止めると、井伊直政は「徳川家康から偵察の命令を受けている」とウソをつき、娘婿・松平忠吉を率いて抜け駆けをして、たつの刻(午前8時頃)に開戦されたと言われています。

福島正則さんは、西軍の有力大名・宇喜多秀家と激しい戦闘を繰り返し、一時は宇喜多軍に退却を強いられるなど苦戦をしたそうです。

しかし、松尾山に布陣していた小早川秀秋(秀吉の甥、養子)が東軍に味方することを表明して、西軍を攻撃。

松尾山の麓に陣を張っていた4人の武将(朽木元綱くつきもとつな脇坂安治赤座直保あかざなおやす小川祐忠おがわすけただ)も東軍に寝返り、西軍は総崩れとなりました。

西軍の総大将だった毛利輝元(元就の孫、五大老の1人)は安芸あき(広島県)から、お隣の周防すおう・長門ながと(山口県)に減封・移封となり、その替わりとして安芸・備後びんごで49万8千石の大大大名となったのが福島正則さんでした。

 

広島城を大改築

居城は広島城(広島市)。

天正17年(1589年)に毛利輝元によって築城されたこともあり「毛利家!」のイメージが強いですが、実は現在残るような城郭へと大改築したのは福島正則さんです。

広島城

安土城をはじめ、全国数多の石垣を手掛けた職人集団・穴太衆あのうしゅうを招いて石垣を築き、外郭部分を大規模に整備。

城の北側を通っていた西日本の主要道路「西国街道」を城下の南側に付け替えて城下町を作り上げました。

さらに、広島城は三角州に築かれ水害に悩まされていたため、新たに堤防を設置しています。毛利家への対策などから領国には6ヶ所の支城を設けて築城&大改築しました。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-豊臣家, れきしクン
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.