福島正則/Wikipediaより引用

豊臣家 れきしクン

福島正則すったもんだの転封&改易劇〜終焉の地は意外や信州!

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福島正則さんというと、どうしても猪武者やら酒癖が悪いやら、直情型の猛将というイメージをしてしまいます。

が、実は“名君”や“善政家”としての一面も持っていたのです。

ちなみに、酒癖の悪さを物語るエピソードについては拙著『ポンコツ武将列伝(柏書房)』(→amazon)をご参照くださいませ(笑)。

 

毒殺!? 秀吉恩顧の大名たちの連続死

さて、安芸・備後を繁栄させようと精力的に活動していた福島正則さん。

支城の亀居城(広島県大竹市)があまりに立派なお城だったことなどから、徳川家康から警戒視されてお咎めを受け、慶長14年(1609年)には一時的に謹慎を命じられています。

また、この頃になると、福島正則さんの盟友だった歴戦の武将たちが次々に亡くなっていきました。

慶長16年(1611年)には加藤清正浅野長政(幸長の父)、慶長18年(1613年)には池田輝政と浅野幸長が病死しています。

不思議なことに、慶長16年(1611年)の後陽成ごようぜい天皇の譲位をキッカケに行われた、徳川家康と豊臣秀頼二条城の会見】以降に続々と亡くなっているんですよね。

この会見は、徳川家が豊臣家よりも優位な立場であることが内外に示された大事件だったのですが、加藤清正と池田輝政と浅野幸長が同行していたんです。

秀吉のおかげで世に出てきた大名たちが、偶然にも連続死。早くから「徳川家康による毒殺!?」というウワサが流れたようです。

大河ドラマ『真田丸』だと、服部半蔵(浜谷健司さん)が加藤清正(新井浩文さん)に毒を振り掛けたようなシーンが描かれていましたね。

現在の二条城夕焼け

福島正則さんは会見には同行しなかったので無事だったものの(?)、慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を申し出ます。

しかし江戸幕府は、福島正則さんをまだ必要としていたのか、この隠居願いを却下。

それから2年後の慶長19年(1614年)に【大坂冬の陣】、翌年に【大坂夏の陣】が勃発します。福島正則さんは、江戸幕府に豊臣家との関係を警戒されたのか、どちらの合戦とも江戸城の留守居役を命じられ、大阪へは息子の福島忠勝が出陣しました。

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用

ちなみに福島正則さんは、長男の福島正友が早くに亡くなり後継者がいなかったため、甥(福島正之)を養子として、竹ヶ鼻城や岐阜城の攻防戦、関ヶ原の戦いなどを共に戦いました。

ところがです。
実子が誕生すると、それから9年後の慶長12年(1607年)に「福島正之の乱行が酷い」として江戸幕府に訴え、閉じ込めてしまいます。

そして、福島正之は急死。食を絶ったため餓死したとか、福島正則さんが殺害を命じたとも言われています。

皮肉にも、家督相続において、かつての主君だった従兄弟の秀吉と同じ策を取ってしまったようです。

 

豊臣軍に内通!? 大坂の陣で福島家、危うし!!

さてさて、再び話は大坂の陣に戻しましょう。

この戦いは、福島正則さん、いや福島家にとって非常に面倒な戦となってしまいました。

福島正則さんと息子の福島忠勝はしっかりと徳川軍として戦ったものの、福島家の一族(福島正則さんの甥か?)である福島正守と福島正鎮まさしげが、あろうことか大坂城へ入城し、豊臣軍として戦ってしまったんです(2人は戦後、行方不明)。

さらに悪いことに、徳川軍だったはずの弟(福島高晴)が、豊臣軍に内通して密かに大坂城へ兵糧を運び入れていたという容疑を掛かけられてしまいます。

弟の福島高晴も同じく秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでも東軍で活躍したことから宇陀松山城うだまつやまじょう(奈良県宇陀市)の城主となっていました。

しかし結局、この疑惑で改易に追い込まれてしまいました。福島家、危うし!!

宇陀松山城

確かに福島家自体にも問題はあります。

しかし、江戸幕府の謀略的なものを感じなくも無いこの展開……。

決定打となったのは元和5年(1619年)、広島城修復に関するトラブルでした。

遡ること2年前。
広島城は大洪水によって大きな被害を受けていました。そのため元和4年(1618年)から修復作業を行い始めていたのですが、福島正則さんは江戸幕府への修復の届け出をせずに事後報告で済ませようとしました。

これがまずかった!

江戸幕府は元和元年(1615年)に制定した【武家諸法度ぶけしょはっと」でお城を工事する時には、事前に届け出が必要だということを明記していたのです。

武家諸法度とは? 初代家康から15代慶喜まで引き継がれた江戸時代の武家法

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つまり、福島正則さんは法律違反ということです。

この事実を知った2代将軍・徳川秀忠は怒り「新たに修築した部分をことごとく破壊しろ」という命令を下します。

このとき素直に従っていれば運命も変わっていたのでしょう。しかし、福島正則は石垣を少し破壊しただけで、命令を徹底的に実行しませんでした。

確かに、角っこの石垣を少し崩しただけでもOKとされることもあるので、福島正則さんは「まぁ、大丈夫だろう」という感じだったのかもしれません。

ところが江戸幕府は甘くありませんでした。

福島正則さんは安芸・備後の巨大な領地を没収され、新たに津軽(青森県弘前ひろさき市)への転封が命じられるのです。

津軽といえば弘前城――。

弘前城といえば幕末までずっとお殿様を務めた津軽家ですが、この時に津軽家に対しては信濃の川中島(長野市)への転封が命じられています。

「なんで、津軽が急に登場???」

そう思われるかもしれませんが、当時の津軽家当主・津軽信枚の正室が、福島正則さんが死に追い込んだ福島正之の正室だった満天姫という関係があったためです。

弘前城

ただ、この転封の命令は中止となり、福島正則さんは結局、信濃・高井野たかいの(長野県高山村)と越後の魚沼郡(魚沼市や南魚沼市など)に4万5千石を与えられることとなりました。

お待たせしました!
ようやくここで、冒頭でお話しした高山村が登場です!

お疲れ様です、私もお疲れ様です(笑)。

 

49万8千石から4万5千石へ絶望的ダウン

さて、一応、信濃北部の大名として存続を許された福島家。

49万8千石から4万5千石という絶望的な大幅ダウンです。

高井野に移った正則さんは、家督を息子の福島忠勝に譲って隠居・出家し、「高斎」と名乗りました。

当初は長野県須坂市の「寿泉院」で2年ほど暮らしますが、息子の福島忠勝が先立って病死すると、屋敷を高山村へ移転。

寿泉院には現在、高山村の屋敷にあった正門が、福島正則さんの遺命によって移築されています。

引っ越してきて暮らした場所であるということもあるんですが、それ以外にも観音堂に祀られている観音様が秀吉の厄除け観音「豊太閤護持仏」だったことが移築の大きな理由だったようです。

ちなみに、なぜ秀吉の観音様がここにあるのか?

というと須坂藩の初代藩主・堀直重(父は堀直政/“名人久太郎”のあだ名で有名な堀秀政の従兄弟)が【大坂の陣】で徳川秀忠に仕えて手柄を立て、褒美として賜ったためだそうです。

また、移築された門には、福島正則さんの直筆の「河東禅林」の額が掲げられていたのですが、トラックに衝突されてしまい、現在は額の上部がわずかに残っているのみです。

さて、息子の早世にショックを受けた福島正則さんは、魚沼郡の2万5千石を幕府に返上。

そして、寿泉院から新たに高山村に屋敷を構え、現在は「福島正則屋敷跡」として長野県史跡に指定されています。屋敷のサイズは103m×70mの方形館で、東北の隅っこに土塁が現存しています。

私も先日、実際にこの地を訪れましたが、周辺にはリンゴ畑やブドウ畑が広がる静かな地域で、やや坂を登った高地にあるので、西の長野市周辺を見渡すことができ、その奥には北アルプスの山々を望むことができます。実に美しい場所でした!

屋敷跡には江戸時代中期に高井寺こうせいじが移転され、現在に至っています。

福島正則屋敷跡(高井寺)

現存する土塁(福島正則屋敷跡)

寛永元年(1624年)7月13日、福島正則さんはこの屋敷で病死しました。
享年64。

とても暑い日だったこともあり、遺体が腐敗することを嫌った家臣が火葬を行い、現在も「福島正則荼毘所だびじょ跡」として伝えられています。

跡地には杉の木が1本植えられて大木となり「傷をつけると血が噴き出す」と地元の方々に言い伝えられ大切にされてきました。

しかし、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊してしまったため、現在は2代目が植えられ育まれています。

福島正則荼毘跡

 

度重なる悲劇も……綱吉時代に旗本復活!

さて、福島家にはまだ悲劇が待っています……。

家臣が火葬したのは、江戸幕府の検死役が到着する前。つまり幕府のオフィシャルなチェックが入る前に、荼毘に付してしまったのです。

そのため再度お咎めを受けてしまい、なんと福島家に残された2万石の領地も没収!

幕府、ちょっとそれはやり過ぎじゃないか!

と私が怒ったところで、歴史が変わるわけではございません。武家諸法度をはじめ、大名への締め付けが厳しくなっていた時代だから仕方ありません。

大名としては改易となった福島家ですが、その後、福島正則さんのもう一人の息子(福島正利)に旧領地から3112石のみが与えられて旗本として復活しました。

良かった良かった、と思ったところで、再びトラジディが……。

福島家の最後の望みだった福島正利は、後継者がないまま寛永14年(1637年)に37歳で死去。同家は、御家断絶となってしまったのです。

福島正則さんと福島正利の親子のお墓は、福島正利が建立した正覚院(東京都港区)に隣り合わせで立っています。

東京都港区三田の平等山正覚院にある福島正則(右側)と福島正利の供養墓/photo by 江戸村のとくぞう wikipediaより引用

福島家、万事休す…もはやこれまでか……。

イヤイヤ、天は福島家を見捨てませんでした。

福島正則さんの曽孫・福島正勝が天和元年(1681年)、江戸幕府から招かれて5代将軍・徳川綱吉に謁見し、御家再興を許されたのです。

この後、福島家は再び旗本として存続が許されています。さすがお犬様、優しい。

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菩提寺の岩松院に今なお残る遺品の数々

さてさて、福島正則さんが与えられた晩年の領地には、ゆかりの史跡がまだ残されています。

小布施町には、江戸時代の天才絵師・葛飾北斎が89歳の時に描いた天井絵『八方睨鳳凰図はっぽうにらみほうおうず』で世界的にも有名な「岩松院がんしょういん」というお寺があります。

岩松院・本堂

また、江戸時代の俳人の小林一茶こばやしいっさが「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」と詠んだ池があることでも知られています。

小林一茶が「やせ蛙」の句を詠んだ池

実はこのお寺には、福島正則さんが馬の口を引く家臣一人だけを連れ、屋敷から馬に乗って足繁く通っていたそうです。

福島正則さんは生前にこの岩松院を自身の菩提寺ぼだいじとして定め、荼毘の後に遺骨が埋葬されました。埋葬地には霊廟れいびょうが建立され、現在も大五輪塔が残されています。

福島正則公霊廟

また、本堂には福島正則さんの多くの遺品を見学することができます。

福島正則さんの御位牌、信仰した観音像、岩松院に通った時に使用した馬具(鞍くらや鎧あぶみなど)、食器や茶器や絹織物などなど。

お寺の言い伝えによると、福島正則さんの遺言によって岩松院に奉納されたそうです。

本堂内は撮影禁止なので、その目で是非ご覧くださいませ。

また、“暴れ川”で有名だった領内の松川氾濫を防ぐため福島正則さんが築いたという堤防の「大夫だゆう千両堤」(福島正則公千両堤)も現代まで受け継がれ、今も街を水害から防いでいます。

ちなみに、大夫というのは福島正則さんの官職名の「左衛門大夫さえもんのたいふ」に由来しています(読み方は「たゆう」「だいぶ」とも)。

福島正則さんに由来する地名だと、伏見城(京都市伏見区)の屋敷跡が「福島太夫ふくしまだゆう」と呼ばれていたり、生誕地のあま市には「正則小学校」があったりしますね。

さてさてさて、今回は特別枠ということで“メジャー武将の福島正則さんの意外な晩年とゆかりの地”をご紹介しました。

あー、旅に出たい!(笑)

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文:れきしクン(長谷川ヨシテル)

◆れきしクンって?

元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。

【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon link
『ポンコツ武将列伝』(→amazon link
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon link

◆Youtubeも絶賛放映中「それいけ!れきしクンTV」

 



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