塙団右衛門直之

豊臣家

塙団右衛門直之の生涯|大坂の陣で異彩を放った“夜討ちの大将”とは?

2025/05/25

1615年5月26日(慶長20年4月29日)は塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)の命日です。

大坂の陣に散った戦国武将であり、彼の名を後世にまで知らしめたのも大坂の陣。

戦場に自身の名前を記した「木札」をばら撒くという、強烈すぎるエピソードで知られますが、その反面、彼の生まれや前半生についてはほとんど不明という謎に包まれた人物でもあります。

それでも気になる団右衛門の生き様。

絵に描いたような豪傑エピソードが創作である可能性を念頭に置きつつ、その生涯を振り返ってみましょう。

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生まれも前半生も何もかも謎

塙団右衛門直之の生年は推定で1569年。

近畿地方の山間部に位置する和泉国(現在の大坂府南部)で産まれたとされています。

と、同時に異説も複数あります。

団右衛門は尾張国の人である。織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者だろうというもの。

あるいは「遠州横須賀衆で浪人となった須田次郎左衛門という人物が団右衛門である」という説も語られますが、おそらく真実は永遠に闇の中でしょう。

前歴についてもよく分かりません。

・北条綱成の家臣だったが、小田原合戦後に浪人となった

・小早川隆景の家臣である瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得るも浪人となって困窮し、それを哀れに思った豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が加藤嘉明に口添えした

こうした諸説があり、その中でも有名なのは「猟師だった団右衛門が織田信長に士分として取り立てられた」という説です。

織田信長/wikipediaより引用

それはザッと以下のようなストーリーです。

ある時、信長公の御前において「いざ戦場という場合、長槍でなければものの役に立たぬ」と主張する木下藤吉郎(後の秀吉)と、「いや、短槍の方が便利だ」と言う上島主水(もんど)が激しく議論した。

これを見た信長公が命令を下す。

「双方、五十人ずつの足軽を選び出し、長短槍の大試合をせよ」

木下藤吉郎は急遽、大力の足軽を広く募集すると、このとき採用された者の中にいたのが当時十八歳の塙団右衛門直之。

団右衛門は凄まじい勢いで、上島方の足軽どもを薙ぎ払い、当日第一番の手柄を立てた。

信長公はたいそう団右衛門を褒め、この日から団右衛門は織田家に仕官することになる。

いかにも戦国期の創作話のように思えますが、話の続きを見てまいりましょう。

 


酒癖酷く織田家を放逐される

団右衛門には一つ、たいそう悪い癖があった。

酒である。

飲むと暴れ出し、やたら喧嘩をしたり、人を斬ってしまったりする。

出世を重ねて懐に余裕が出ると、どんどん酒量が増えてゆき、ついには産まれ持った悪癖が顔を出す。

結果、織田家から放逐され、浪人となってしまった。

このとき木下藤吉郎あらため羽柴秀吉だけは、団右衛門の追放を惜しみ、

「その方を手放したくないが、今となっては仕方がない。何かあったら、必ず便りをせよ。出来るだけのことはしよう」

と言って多額の路銀を与えた。

「浪人となったとたん、誰もが知らん顔を決め込んだが、貴公だけは情けをかけて下さるか」

涙を流して感謝した塙団右衛門は、秀吉への恩を生涯忘れることなく、後に大坂方に味方して、命を散らせることになった。

以上です。

あくまで伝説ですが、秀吉や団右衛門らの性格がよく表れたエピソードなのでしょう。

絵・富永商太

前半生が全く不明の塙団右衛門が最初に軍記の中に現れ、大いに武名を上げたのは文禄・慶長の役でした。

 

慶長の役で大活躍!

塙団右衛門直之は、豊臣秀吉の家臣で伊予国松山の大名となった加藤嘉明(よしあきら)に召し抱えられていました。

加藤嘉明/wikipediaより引用

慶長の役における加藤嘉明の受け持ちは水軍。

総大将は島津(しまづ)薩摩守です。

しかし、この時の日本の水軍は敵勢に比べていたって小勢であり、不利な戦いを強いられていました。

劣勢の中、塙団右衛門はたびたび武功を表し、ついには敵船を乗っ取るという大手柄を挙げます。

主君の嘉明は「青い絹四尺半の真ん中に日の丸を描いた旗印」をこしらえさせたのですが、団右衛門はこの目立つ旗を背中に背負って、縦横無尽に戦場を疾走し、激賞されたといいます。

これらの派手な立ち回りは、江戸時代の講談において、大いに人気を博しました。

この功績で1000石として鉄砲大将となり、以来、塙団右衛門直之と改名したとされています(前名は不明です)。

 

加藤嘉明の元を出奔

ところが、です。

せっかく鉄砲大将となったのに、不幸にして塙団右衛門直之は、これほど鉄砲が嫌いな人間もいないのではないかというほど、大の鉄砲嫌いでした。

刀や槍に比べて、手柄を証明しにくかったからとも言われていますし、技術と鍛錬が物を言う、昔ながらの勝負にこだわる古いタイプの武将だったかとも言われます。

そのため関ヶ原の戦いでは鉄砲隊の指揮を任されたにもかかわらず、団右衛門は完全に無視。

関ヶ原合戦図屏風/wikipediaより引用

ついに加藤嘉明を激怒させ、叱責されてしまいました。

将帥の職を勤め得べからず

お前には将の役目を勤める能力がない

主君からの完全なダメ出しに対し、短気な団右衛門は自粛するどころか、書院の大床にこんな漢詩をベッタリ張りつけたと言います。

遂不留江南野水

高飛天地一閑鴎

小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ

そしてそのまま禄を捨て、出奔したいうのですから本物です。

結果、加藤嘉明は【奉公構(ほうこうかまい)】の処分を受けてしまいます。奉公構とは、今後、別の家に奉公できなくなるという厳しい措置でした。

任官を諦めた団右衛門は、妙心寺の大龍和尚のもとに寄宿したとされます。

そして仏門に入り「鉄牛(てつぎゅう)」を称したのですが、酒量は無尽蔵、刀脇差しを帯びた姿で托鉢するという、とんでもない破戒僧で、檀家の不興を買っていたようです。

戦場以外では生きていけないようなタイプの戦国武将ですね。

 


大坂冬の陣で「夜討ちの大将」

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が始まりました。

豊臣秀頼や淀殿らの誘いを受けて還俗した塙団右衛門直之は、10人程の配下を引き連れ、大坂城へ入ります。

そして浪人衆の1人として大将・大野治房(はるふさ)の組に預けられると、和議が迫った頃に志願して夜襲の許可を取得。

米田監物と共に150名を引き連れ、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の陣に夜襲をしかけました。

大坂冬の陣に名高い【本町橋の夜戦】です。

蜂須賀至鎮/wikipediaより引用

団右衛門は、本町橋の上で仁王立ちとなり、士卒に下知を飛ばしながら戦い、そして敵陣に木札をばら撒かせたのです。

「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也」

生死を賭した戦闘の最中に自身の名前を記した木札をバラ撒くなんて普通じゃありません。

万が一、その場で討たれでもしたら、ただの笑い者として後世まで馬鹿にされる行為でしょう。

だからこそ、世間にもクソ度胸が認められ、この戦闘により団右衛門は一挙に「夜討ちの大将」として名を馳せました。

江戸時代の人々も、殊のほかこのエピソードに魅入られたようで、講談や小説の中で広く伝えられていきます。

団右衛門にしてみれば、これぞ己の生きる場所!とでも考えていたように思えてきますね。

 

和歌山城から北上する浅野長晟と対峙

大坂冬の陣は関東関西和睦ということで終結、豊臣方にとっては運の尽きとなりました。

徳川家康は、大坂城の外堀だけでなく内堀も埋め、その他の要害を破壊。

そして慶長20年(1615年)、再び大軍を擁して大坂城を取り囲みました。

大坂夏の陣です。

裸城となった大坂城の堅固さは、以前とは比べ物にならないほど脆弱なものです。

大将の一人に命じられた塙団右衛門は、大野治房の指揮下で出陣。

浅野長晟(ながあきら)の軍を泉州路に食い止めようと、軍勢を進めました。

浅野長晟/wikipediaより引用

大野治房本隊の先鋒となった団右衛門。

和歌山城から北上する浅野長晟と対峙します。

そして浅野家臣・田子助左衛門(多胡助左衛門)や亀田大隅、八木新左衛門らと激しく戦うことになったのですが、混戦の極みで大野治房の本隊と連携が取れなくなってしまいます。

最初から勝敗は決まっていたかのような戦いで、団右衛門も死に場所を探していたのではないでしょう。

最期は、馬上で戦っていたところを矢に射られて落馬し、八木新左衛門の槍で突かれた――あるいは亀田大隅が討ち取ったともされます。

詳細は不明ですが、大混戦の中、討ち死にを覚悟で壮絶な最期を遂げたことは確かでしょう。

それが1615年5月26日(慶長20年4月29日)のことでした。

最後に。

講談などで描かれる塙団右衛門直之も紹介しておきましょう。

落合芳幾『太平記三十六番相撲』の塙直行/wikipediaより引用

塙団右衛門直之は銀割の采配を振りながら縦横無尽に戦っていた。

気付けば続く部下は一人もいない。

ここを先途と覚悟を決めた団右衛門。

大将の亀田大隅に近づいて声を張り上げる。

「やあやあ、亀田大隅。我こそは大坂方の大将、塙団右衛門直之なり。いざ、一騎討の勝負を致さん」

必死の勇を振るって力戦する団右衛門。

しかし、すでに疲れきった身体。とうとう力尽き果て、大隅のために首を討ち取られた。

このとき団右衛門の忠義な部下である坂田庄三郎は大怪我を負いながらも上田勢の包囲を切り抜け、ただ一人、主人の居所を探し求めていた。

そこへ聞こえたのが、勝ち名乗り。

「大坂の大将塙団右衛門直之、亀田大隅が討ち取ったり」

その声を聞くなり坂田庄三郎が駆け寄る。

「亀田大隅! われこそ塙団右衛門直之が家来、坂田庄三郎なり。見参見参!」

そして槍を鋭くサッと突き出し、大隅の脇腹へ。もんどりうって馬上から転落したところへ庄三郎が死に物狂いで近寄り、主人の首に駆け寄った。

「おお、殿!坂田でございます。庄三郎でございます。これにおられましたか!」

むせび泣きながら首をしっかと抱きしめ、その場にうつ伏したまま絶命した――。

生年が不明のため、享年もハッキリせず、推定48。

塙団右衛門直之の墓所は、大阪府泉南郡南中通村大字樫井に建てられています。

戦場に木札を残し、強烈な自尊心を後世に示したその姿は今後も多くの人々の胸に焼き付いていくことでしょう。

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坂口螢火

駒澤大学歴史学科卒業後、小学校教員になる。児童および教員の歴史離れの深刻さを目の当たりにして、歴史作品の執筆活動を開始。著書に『曽我兄弟より熱を込めて』(幻冬舎)、『忠臣蔵より熱を込めて』(つむぎ書房)がある。「神話ログ」「古典ログ」などのブログも運営中。 ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032052820

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