江戸時代の火縄銃/wikipediaより引用

合戦・軍事

戦国時代の火縄銃で撃たれたらどんな死を迎える?ガス壊疽も鉛中毒も怖すぎて

1602年3月24日(慶長7年2月1日)は徳川四天王の一人・井伊直政の命日です。

遡ること約1年半前、関ヶ原の戦いで島津軍を追いかけ、その際の鉄砲傷がもとで死んだともされますが、そこで浮かんでくるのがこの疑問。

当時、鉄砲で撃たれたら医学的にはどうやって死に至ったのか?

そもそも戦国時代の鉄砲って殺傷能力はどれくらいあったのか?

弓や槍を凌駕する鉄砲は、戦国時代に種子島へ到着するやいなや、瞬く間に全国へ普及し、合戦時の死因も大きく様変わりしたと言います。

種子島に着く前から実は出回っていた――なんて話もありますが、ともかく今回の歴史診察室のテーマは鉄砲で!

火縄銃で撃たれたら、人はどんな死を迎えるのか?

井伊直政の死因と合わせて考察いたしましょう。

井伊直政/wikipediaより引用

 


直径10㎜の弾で20㎜の穴が開く

まず銃で撃たれ傷は「挫創(ざそう)」か「裂創(れっそう)」に分類されます。

医学的には【鈍器が強く作用、圧迫した部位や周囲にできる創(そう・傷のこと)】を指し、銃が鈍器ということについて違和感を覚えられるかもしれませんが、弾と骨に挟まれた部分が挫滅(ざめつ・組織を破壊)すると捉えて下さい。

銃弾は大きな運動量エネルギーを持ち、人体に撃ち込まれた弾が小さいトンネルを掘るようにして進む……わけではありません。

少々説明がややこしくなってしまいますが、周囲の組織を挫滅させ、運動エネルギーの減衰分を放射状に発散して周囲の組織を圧迫、結果として銃弾の直径よりも大きな空隙(穴ぼこ)を形成します。

平たく言えば、直径10㎜の弾で20㎜の穴が開くという感じですね。

死因については、上記の過程でどの臓器が巻き込まれたかで決まります。

例えば脳などの中枢が破壊されたらほぼ即死ですし、心臓をやられても血流が止まって即アウト。

太い動脈が傷ついたら出血多量で数分です。

まぁ、当時の戦場でしたら一発で致命傷にならなくても、動けなくなったら他の方法で討ち取られていたことでしょう。

 


火縄銃の初速は案外速く毎秒480m

銃の殺傷能力については、銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)施行規則に基準があります。

E=mv2(二乗)/2

※(mは銃弾の質量(kg)vは銃弾の速度)としてE/S≥20J/cm2(ただしSは銃弾の底面積)を持って殺傷能力ありと判断しているそうです

理系の方以外はチンプンカンプンかもしれません。

要は、より速くて重ければ威力が増すという当たり前のことで、定義自体は弾丸の初速を計算し、殺傷能力の判定に用いられております。

25口径の拳銃ですと初速が250m/s、高速ライフルだと1000m/sを越えるものもあるそうです。

では火縄銃の初速は?

「そんな記録残ってないっしょ」

そう思ってしまいましたが、親切にも火縄銃マニアの方が作成された実験データがありました。

19世紀初頭に作られた高品質の【国友筒】ではありますが、その記録が480m/sですから拳銃以上の値ですね。

この方の実験では50mの距離で鉄板を軽く撃ち抜いていますので、50mであれば鎧を貫通して相手を倒せると言えましょう。

戦国時代ですと、これよりスペックが劣るのは間違いありませんが、それでも射程距離は50mぐらいだった――なんて話があります。

問題は、当たるかどうかですね。

上記の国友筒による一斉射撃であれば80〜100m離れた敵に充分効果があると考えられますかね。意外に強い。

 


鉄砲の筒底を支えるネジもこのとき渡来した

さて、鉄砲伝来と言えば1543年(天文12年)の種子島ですが、最近はそれ以前に倭寇など複数のルートによってもたらされた、なんて話もあります。

以下に考察記事がございますので、

鉄砲伝来
長篠で信長の三段撃ちはあったのか?鉄砲伝来と火縄銃の歴史から考察

続きを見る

今回は従来の教科書に出てくる鉄砲伝来をおさらいしておきたいと思います。

まず、種子島に漂着したのはポルトガル船ではなく中国船です。

同乗していたのが南蛮人で、彼らから鉄砲2挺を買い上げた領主・種子島時堯(ときたか)が島の刀鍛冶・八板金兵衛に分解させ、その複製研究を進めました。

この時一番苦労したのが、鉄砲の銃身(筒)の底の部分をどうやって塞ぐか?だったようです。

鉄砲で弾を撃ちだす原理は、筒の中で火薬を爆発させ、そのガス圧で鉛(弾)を的に向けて発射させるというもの。

当然、筒の末端に相当な圧力がかかりますので、万が一、その部分に隙間があればガスが抜けてしまって威力が出ません。

かといって爆発の衝撃で底が吹っ飛んでしまうようなヤワな作りでしたら、射手が怪我をしてしまいます。

そこで用いられたのが「ネジ」です。

実はこの筒底、ネジ(尾栓のネジ)で出来ておりました。

気密性が得やすく、筒の手入れも簡単。日本でも、古くから実生活で使われていそうなもんですが、鉄砲伝来以前にはネジの記録がありません。

なので、鉄砲と一緒に伝来したというのが通説となってるんですね。

ただし、歴史のテストで1543年に種子島に伝来したのは『ネジ』と書いても不正解になるでしょうからご注意を。

塾の先生は、生徒さんに豆知識として披露されても良いかもしれません。

冗談はさておき、鉄砲伝来の翌年、種子島で初めての国産火縄銃が作られました。

そして、堺の商人によって本州に持ち帰られ、以降、日本全国に広がっていきます。

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