岩明均氏の漫画『ヒストリエ』(→amazon) は、古代オリエント世界を舞台にした歴史作品。
物語の主人公は、当時、史上最大規模の「世界征服」を果たしたマケドニア王国のアレクサンドロス大王……ではなく、彼に仕えた書記官エウメネスである。
この作品で、とにかくインパクトの大いのが、ペルシアの名将・ハルパゴスだ。
「ば~~~~~っかじゃねえの!?」
何らかの憎しみを抱き、感情を押し殺したかのように言い放った、あの台詞は一体なんなのか?
疑問に思う方も少なくないはず。

ヒストリエ第1巻(→amazon)
ペルシア建国譚である作中話で、メディアの王・アステュアゲスに【息子の肉をたべさせられる】という凄まじくショッキングな話であった。
恨みをグッとこらえ、のちにアケメネス朝ペルシアの初代王となるキュロスが反乱を起こしたとき――。
この名台詞「ば~~~~~っかじゃねえの!?」をはいてメディアを裏切り、ペルシア建国の立役者となるのである。
しかしハルパゴスがなぜ、息子の肉をたべさせられるハメになったのか。
作中では
「今回だって王の命にあからさまにそむいたわけじゃない
ただ 王の命を最後の最後までやり遂げなかったという事案が1つ……
それにしたってすでに王に訳を話し謝罪をしていた なのに……」(第一巻180-181頁)
としか述べられておらず、さっぱりわからない。
気になる……激しく気になる!
この事件を説明するためには、少し時を遡る必要がある。
肉を食わせたアステュアゲスが見たという【不思議な夢の話】を先に確認しておかねばならないだろう。
メディア王アステュアゲスがみた異常すぎる悪夢
『ヒストリエ』の主人公・エウメネスが生きた時代からさかのぼること300年、アッシリアという国があった。
支配域は、メソポタミアからエジプトまで。
さまざまな民族を支配下におさめた史上初の世界帝国と呼んでいい国である。
このアッシリアから最初に独立を果たした国が、イラン高原を発祥とするメディア王国だった。
メディア王国は小アジアのリディア(世界で初めて貨幣を鋳造した国として有名)やエジプト、メソポタミア地方の新バビロニア(カルデア)などと共に、当時のオリエントを分け合う大国に成長していく。
アステュアゲスは、そのメディア王国最後の王だ。
お姫さまのおもらしが世界を洪水……ってどんなマニアよ
アステュアゲスにはマンダネという娘がいた。
あるとき、アステュアゲスはマンダネがおしっこを漏らす夢を見る。
娘がおねしょをする夢ぐらい、お父さんならば見るかもしれない。
しかし、メディアを総べる王、アステュアゲスの夢はスケールが違う。
マンダネの洩らしたおしっこは、メディア王国の首都エクタバナの街に溢れたのみならず、アジア全土に氾濫したのだ。
びっくりしたアステュアゲスは、夢占いにこれはどういう意味なのかと問うた。
夢占いもさぞかしビックリしただろう。残念ながらどのように返答したかは伝わってないが、少なくとも瑞祥(よい知らせ)ではなかったようだ。
この夢が頭から離れないアステュアゲスは、娘をメディア人の貴族には嫁がせず、カンビュセスという若者に嫁がせた。
カンビュセスは、メディア王国に従属するペルシア人の王国・アンシャンの王。
気性も大人しく、この男に娘を嫁がせれば安心だと思ったのだろう。
ところが、マンダネがカンビュセスに嫁いだその年、またもやメディア王アステュアゲスは夢にうなされる。
今度はマンダネの秘所から一本のブドウの木が生え、その木がアジア全土を覆ってしまったのだ。
びっくりしたアステュアゲスは、夢占いまた再び相談した。
夢占いもさぞかし呆れ、さすがに『この変態野郎……』と思ったに違いない。
そのせいか不明だが「カンビュセスとマンダネの子が、あなたに代わって王になるはずです」と答えた。
アステュアゲスは恐怖に慄いた。
彼は当時懐妊中であったマンダネをペルシアから呼び寄せ、厳重に監視させる。
生まれた子どもは殺さなくてはならない。
すっかりそんな妄執に捕らわれていた。
やがてマンダネは一人の男の子を生み落とす。
アステュアゲスはそれをマンダネから取り上げ、その“処分”を有能な忠臣・ハルパゴスに託した。
ハルパゴス、面倒事を牛飼いに押し付ける
さて、王命を受けたはよいものの、ハルパゴスはすっかり困ってしまいました。
というのも、アステュアゲスは高齢なのに男児がいない。
となれば王位を受け継ぐのは王女マンダネとなろう。
いかにアステュアゲスの命令とはいえ、息子に直接手を下せば、マンダネが女王になった時に責めを負わされるのは目に見えている。
しかし、アステュアゲスはどうやら本気で、赤子を殺さなければ、自分が殺されるのはハルパゴスの方となる。
そこでハルパゴスは一計を案じた。
アステュアゲス王自身の部下に赤子を殺してもらえばよい。
ハルパゴスはアステュアゲスの牛飼いの一人を呼び出して、赤子の処分を命じた。
牛飼いは、赤子を抱いて悄然と家路についた。牛飼いには、明日にも子どもが生まれそうな妻がおり、それを心待ちにしていた。
ゆえに託された赤子を殺す気にはどうしてもなれなかった。
牛飼いが妻に事情を説明すると、彼女は牛飼いに泣いてすがって赤子を見捨てないでほしいと頼むではないか。
なんと彼女は、ちょうどその日におなかの子どもを死産させてしまっていたのだ。
夫が抱いていたその赤子は、生まれてくるはずだった自分の赤ちゃんの代わりに思えたのであろう。
牛飼いは妻の願いに応え、水子の死骸を山に捨て、ハルパゴスの部下に検分させた。
赤子の殺害を命じたことに後ろめたさを感じていたからか。
ハルパゴスは、牛飼いが王の息子とすり替えていたことに全く気付かなかった。
“王様ゲーム”で頭角を現したキュロス
“牛飼いの子”はスクスクと成長した。
誰にもその出生を知られることなく……。
しかし、10歳になったとき、ひょんなことからその素性が明らかになってしまう。
キッカケは、“王様ゲーム”である。
と言っても、現代のように「○番が△番にチューする!」みたいな破廉恥なゲームではない。
一人の王を選んでみんながそれに従う――おままごとを少し本格的にした遊びであり、当時の子どもたちの間で流行っていたものだ。
牛飼いの子はこの“王様ゲーム”で王に選ばれ、言うことを聞かない貴族の息子を鞭で打つという、迫真の演技を見事に演じきってしまった。
鞭打たれた貴族の息子は、アステュアゲスに言いつけた。
「王よ、あなたの牛飼いの息子からこのような狼藉を受けました」
子どもの喧嘩まで仲裁せねばならぬ王様も楽な商売じゃない。アステュアゲスは牛飼いの子を呼びつけ事情を聴いた。
「お前は賤しい身分の子どもなのに、わしの重臣の息子に狼藉を働いたのだな」
牛飼いの子は胸を張ってこう答えた。
「みんなはちゃんと僕の言いつけを守ったのに、こいつは守らなかった。みんなが僕が王に向いていると思い、僕を王に選んだのに」
10歳にしては堂々としている牛飼いの子を見て、アステュアゲスは感心する一方、不審に感じた。
なんだか顔に見覚えがある。
自分や、娘のマンダネの面影があるような……指折り数えれば、捨て子にした孫と年齢も一致するではないか?
すっかり気が動転したアステュアゲスは、牛飼いを呼びつけ、問い質した。
牛飼いは観念し、すべてを洗いざらい白状した。
「王よ、彼はあなたの孫、キュロス様です」
アステュアゲスは、真実を述べた牛飼いにはさして気を留めなかったが、任務を果たさなかったハルパゴスには怒りを覚えた。
しかし、面には表さず、ハルパゴスをねぎらってこう言った。
「わしもあの子に加えた仕打ちについては痛く悩んでおったし、また娘からも恨まれて心安らかでなかった。
幸い運よくかようなめでたい結末になったのであるから、お前の倅を、生きて帰ってきたあの子のところへよこしてやってはくれぬか。
また子どもを救ってくだされた神に、命拾いのお礼にお祭りを務めたいと思うから、わしのところへ食事に来てくれ」
――ヘロドトス『歴史』より
ハルパゴスは、内心肩の荷が下りた気持ちで王の晩餐に呼ばれたことだろう。
しかし、そこに生き地獄ともいうべき凄まじい仕打ちが待っていた。
肉料理をたらふく堪能した後、よろしければお代りはいかがですか、と差し出されたのは【自分の息子】の残りのパーツだったのだ。
数十年越しの復讐劇
ハルパゴスのすごいところは、ここで眉ひとつ動かさなかったことだろう。
「王のなされることにはどのようなことでも、私は満足でございます」
そう頭を下げ、残った肉をお土産にして屋敷へ持ち帰ったのだ。最愛の息子を埋葬するために……。
ハルパゴスはその後も、何食わぬ顔で一層の忠義に励み、アステュアゲスの信頼を勝ち得る。
その一方で、重臣たちやメディア王国に支配された人々に入念な根回しを行い、徐々に味方を増やしていった。
「あいつ、娘のおもらしの夢ばっか見てるやん。王様としてアカンやろ!」という内容だったか否か。
キュロスにもウサギの腹に手紙を仕込んで送り、反乱を唆す。
決めてはやはりこれだろう。
「あなたを赤子のときに殺そうとしたのはだれか、思い出せ!」
ハルパゴスは耐えた。
キュロスが成人し、ペルシア人たちを味方につけ、メディア王国に対して反乱を起こすまで。
数十年以上、じっと耐えた。
そして、その甲斐があった。
キュロスの反乱を鎮圧するため、自分が総司令官に選ばれたのだ。
そこで華麗な裏切りを決めて、敵のキュロスを勝利に導き、アケメネス朝ペルシア建国の一翼を担ったのである。

ここでこの台詞の登場です
キュロスという男は、かなりの度量だった。
アステュアゲスには何も危害を加えず、死ぬまで自分のもとに置いたのだ。
彼はペルシアを侵略したリディアを返り討ちにして征服した時も、リディア王クロイソスを殺さず、参謀として遇している。
ハルパゴスとメディア王のその後
ハルパゴスはその後も、キュロスの片腕として活躍したようだ。
彼がヘロドトスの『歴史』に初登場するのは、リディアの首都サルディス近郊で、キュロスが前述のクロイソスと対峙した時のこと。
キュロスはリディアの騎馬部隊が予想以上に精強なことに恐れを抱いていた。
するとハルパゴスが、ラクダ騎兵を編成してこれに当たらせるという策を勧める。
馬はラクダの体臭を嫌うからだ。
と、この策が大当たり。リディアの騎馬部隊はキュロスのラクダ部隊と遭遇するや否や戦わずして四散してしまった。
この策は後年、ローマや十字軍を相手にも採用され、戦果を挙げている。
騎馬隊にはラクダ騎兵――これ、中東で戦うときの豆知識。
またキュロスは、当初、対イオニア(小アジアのエーゲ海沿岸部)戦線の司令官にマザレスという男を任命していたが、彼が病死すると後任にはハルパゴスを指名。
ハルパゴスは相手を街に追い詰め、城壁の前に土を盛って攻略する“盛り土”作戦でイオニアの諸都市を征服したと伝えられている。
【参考】
『ヒストリエ(1)』岩明均:講談社(→amazon)

