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【ゴールデンカムイ門倉のルーツは?】
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第七師団とスキー
ちょっと門倉からは離れるのですが、補足説明を。
単行本2巻の第8話で、スキーが登場します。
ロシア式のものとされていて、野田先生がこう解説しています。
——リアリティを追求している、と。
野田 でも、あまりこだわりすぎると話の展開が縛られてしまいます。スキーはこの時代にはまだ日本に普及していませんでしたが、ロシアにはすでにあったので、貿易が盛んな小樽には入ってきててもおかしくないはずだ、とか自分に言い聞かせて描いたり。もっとも、スキー板に「ロシニョール」とかブランド名が入っていたら、ツッコまれてもしょうがないですけどね。(このマンガがすごい!WEBより引用)
当時の日本でスキーが発達していないという点はその通りです。
日本におけるスキーの普及は『ゴールデンカムイ』開始後。
1911年(明治44年)、新潟県高田市に、オーストリア人の青年士官であるレルヒが伝えたとされます。
しかし、第七師団がスキーを知っていても、そこまでおかしくはありません。
アイヌにもスキーはありました。
お抱え外国人でも楽しむものがいました。
そして1895年(明治28年)、日清戦争後、松川敏胤大尉が戦利品として日本にスキーを持ち帰りました。
1902年(明治35年)には「八甲田雪中行軍遭難事件」が発生すると、その悲報を受けて、ノルウェー王・ホーコン7世がスキーセット2台をお見舞いとして贈呈しています。
イタリア駐在日本武官も、陸軍省にスキーを送っているのです。
スキーを導入しなければ――そう思ってもおかしくありません。
それでは第七師団はどうでしょうか?
北海道ですから、もう真っ先にスキーを習いたいところでしょう。
1903年(明治36年)。
第七師団札幌月寒第25連隊に、ノルウェー式スキー3台が届きました。
つまり、鶴見あたりがこう思っていてもおかしくはない。
「これからはやはりスキーだ!」
ノルウェー式とロシア式という違いはありますけどね。
ただし、このときの第七師団において、スキーが定着するまでには至りません。なかなか難しかったのです。
資産家や外国人がスキーを導入するものの、定着はレルヒ(ハンガリー王国の軍人)を待つ他なかったのでした。
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日本にスキーを定着させたレルヒは「旭川の雪質がいい」という話を聞きつけると、興味津々になりました。
そして1912年(明治45年)、ついにレルヒの願いが叶います。
旭川に着任し、スキー指導を始めたのです。
北海道スキーもまた、レルヒによって始まりました。
『ゴールデンカムイ』の鶴見配下は、結果的に元気に生存できたのは、鯉登と月島のコンビといったごく少数派。反逆者として手痛い目にあっても、この二人はどうにかするようです。
鯉登ならば、こう言っても何の違和感もありません。
「月島ァ! スキーをレルヒ殿に習うぞぉ!」
高い道具も彼ならホイホイと、月島の分なら買えます。
20世紀に突入すると、アルペンスキーは新たなリゾートとして人気の的となります。
鯉登ならば、月島を連れてのスイス旅行くらいやってのけるかもしれません。
スキーリゾート地で曲芸めいたパフォーマンスをする鯉登と、見守る月島。実にいいですね。
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土方組と第七師団の戦い
門倉に話を戻します。
日清戦争のあと、スキーを持ち帰った松川敏胤大尉は、仙台藩出身です。
レルヒからスキーを習った、第七師団所属の三瓶勝美は、会津藩出身です。
『第九』の普及で有名な松江豊寿。
彼は1911年(明治44年)、第七師団長高級副官副官であったという経歴があります。
会津藩出身です。
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門倉の言葉を振り返ってみましょう。
第七師団の構成員も、旧幕府軍子孫が多い。
つまり鶴見配下である第七師団内にも、土方の生存を知れば心が揺れる者がいるかもしれないわけです。
土方だって、斬り捨てる中に会津藩士の子孫がいたら、平常心を保てない可能性はあります。
アシリパの父・ウイルクにせよ。キロランケにせよ。
土方組にせよ。
鶴見以下の第七師団にせよ。
全員がそのまま反政府同士で手を組めば、もしかすると一致できるのかもしれません。
そこまでいかずとも、自分たちは明治政府から弾かれた同士だと悟り、手をにぎり合うこともできるかもしれない――こう書いてきて、思い当たるところがあります。
杉元一行も、第七師団も。
幕末以来の因縁を持つ者が多いにも関わらず、北海道開拓使のミッシングピースがあるのです。
それが、奥羽越列藩同盟に参加した士族子孫です。
他の登場人物ルーツも踏まえてみましょう。
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◆新政府「薩長土肥」
薩摩(鹿児島県):鯉登父子、花沢幸次郎・勇作父子(尾形の父および異母弟)
長州(山口県):有坂(モデルの有坂成章の出身地から)
土佐(高知県):該当者なし
肥前(佐賀県・長崎県):該当者なし
◆旧幕府にゆかりがある
会津(福島県):該当者なし
仙台(宮城県):該当者なし
庄内(山形県):該当者なし
米沢(山形県):該当者なし
長岡(新潟県):鶴見(推定 ※月島の佐渡島は幕府天領)
水戸(茨城県):尾形(推定)
駿河(静岡県):二階堂(推定)
推定ばかりで申し訳ありませんが、藩と廃藩置県の都合ですのでご了承ください。
一番そうであれば面白い可能性で考慮しております。
こうしてみてくると、やはり会津と仙台の空白は引っかかります。
前述の通り、この二藩は初期北海道開拓者の二大ルーツです。
以上の要素からしまして、結論から言いますと。
本命:会津藩士子孫
対抗馬:仙台藩士子孫
大穴:それ以外
このあたりでしょう。
入植初期にやってきた、開拓者と屯田兵の一世世代。
慣れない土地で暮らし始め、幕末以来の苦難を我が子に語り継いできた。薩長に負けてはならぬと言い聞かせて来た。そんな人々。
チャラくて運が悪く、政府側の監獄たちからは「狸」と呼ばれ、侮られてきた門倉。
そんな門倉が、武士の誇りを炸裂させるミッシングピースとして戦ったら、それはもう熱い展開ではありませんか。
彼個人として素晴らしいというだけではなく、奥羽武士末裔開拓者のプライドをも刺激する、それこそ熱い展開になりかねません!
ハリウッド西部劇に主演した門倉
門倉は完結後、キラウシ、ソフィア一味の生存者であるマンスールとともに、アメリカに渡ります。
日本から来た侍、アイヌ、アメリカ先住民が金塊を奪い合うサイレント西部劇の主演を務めるも、映画は大コケしたそうです。ただ、現代ではカルト作品として愛されているとか。
無茶苦茶な映画ではあるものの、このプロットで門倉のルーツが会津だと示唆されたようにも思えるのです。
歴史上初の、アメリカにおける日本人コロニーはどこからか。
会津ルーツとされます。会津戦争敗北後、藩に出入りしていたプロイセン人スネル兄弟が会津藩士たち37名をカリフォルニア州に移住させました。
そのころ、カリフォルニア州はゴールドラッシュに沸いていました。
日本から茶葉と蚕を持ってゆけば、産業として根付くかもしれない。そんな狙いがありました。
かくして、会津藩士による「ワカマツ・コロニー」を築かれました。
しかし、日本と比較するとあまりに乾燥した気候です。
スネルは資金調達のために去ってゆき、戻りませんでした。会津藩士たちは帰りを待ち続けるも、一人、また一人と去ってゆきます。
結局、このコロニーは崩壊し、忘れられた存在となってしまいました。
時は流れまして、大正4年(1915年)――「おけい」という若い女性の墓が発見されました。
スネルに雇われ、異国の地で若い命を散らした彼女こそ、アメリカ日系移民女性の一人目だったのです。
門倉がこの話を伝え聞き、知っていてもおかしくありません。
それを基にしてに入れ込み、西部劇を作るとしたら、ありではないでしょうか。
ちなみにこの「若松コロニー」出身の少女コリス・サトーが、和月伸宏先生の西部劇漫画『GUN BLAZE WEST』に登場しております。
西部劇に会津ルーツの武士が出てくることは、発想として“あり”なのです。
このあと、歴史はアジア太平洋戦争に突入します。
その過程で、日系人は強制収容されてしまいます。門倉たちはその前に帰国したか。それともアメリカで耐え忍んだのか。そもそもそれまで生きていたのか。
想像をめぐらせてみるのも、興味深いものがあります。
門倉と同世代の会津藩士には、柴五郎がいました。
彼はアジア太平洋戦争敗北を悟ると、切腹を試みます。
しかし老齢であったためか死にきれず、その歳の暮れに衰弱して亡くなりました。
門倉世代の戊辰戦争負け組とは、日本史上に残るほどの浮沈を経験した世代でした。
負けたどん底から這い上がるも、また別の奈落へ落ちていったのです。
門倉という人物はコミカルに描かれております。
彼らの世代がどんな感慨を抱いて生きていたのか。そこを考えると、さらに見えてくる像もあるのではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
野田サトル『ゴールデンカムイ 18巻』(→amazon)
北海道新聞社『北海道の歴史下 近代・現代編』(→amazon)
好川之範『北の会津士魂』(→amazon)
宮地正人『土方歳三と榎本武揚: 幕臣たちの戊辰・箱館戦争』(→amazon)