門倉はどこ出身?

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この歴史漫画が熱い! ゴールデンカムイ

『ゴールデンカムイ』門倉利運は会津藩士か仙台藩士か?そのルーツを徹底考察!

「典獄というのは歴代…福岡藩とか長州藩とかの出身者がなるもんでね
つまり明治新政府の人間だ
いっぽう看守は地元の人間が採用される
戦争によって北海道に流れ着いた氏族の成れの果て
屯田兵も囚人もみんな元はそんなもんよ
看守ってのは昔から典獄よりも 囚人たち側の人間が多かったのさ
俺の親父は土方さんと共に戦った旧幕府軍だった」

※『ゴールデンカムイ』第127話より引用した門倉の言葉

『ゴールデンカムイ』18巻表紙は、ちょっと意外かもしれません。

網走監獄看守部長であった門倉とその相棒のキラウシです。

さて、この門倉。

実は永倉新八を差し置き、土方組では三人目の表紙となりました。

一人目は土方本人(3巻・14巻)、二人目は牛山(6巻)。

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あれ?

実は結構重要な人物なんじゃないの?

そう思った方もおられるのではないでしょうか。

7月7日は、そんな門倉利運(かどくらとしゆき)が生まれた日。

もちろん物語上での話ですが、門倉の背景にあるかもしれない歴史を考察してまいりましょう。

 


父は土方の戦友だった

まずは門倉の紹介から。

土方組が幕末以来の活躍であるため、相対的に若く思えます。

しかし、杉元組はいうまでもなく、実は第七師団よりもかなり年齢が上です。

網走監獄でも7年目。そこそこキャリアが長いわけです。

仕事ではやる気がない。だからこそ、犬童の目をかいくぐった。しかし、それもフェイクであったかもしれません。

彼の父、実は土方歳三と戦った旧幕府軍の一員でした。

その父がよほど土方と親しかったのか。

看守の職を捨てても構わない。土方のためならばついていく――そう言い切っていたのです。

だからといって、特に強いわけでもない。

それどころか運が悪い……そんな彼のことをちょっと考えてみましょう。

 


函館戦争の勝ち組と負け組

彼自身は、おそらく40代です。

慶応3年(1868年)、つまりは明治維新前後の生まれと推察できます。公式ガイドブックでは、出生地に個人ごとの地理認識が反映されています。第七師団の兵士はじめ、徴兵されたことがある人物は都道府県名を用いています。

門倉の場合、土方、永倉、牛山、家永カノたちと同じく、律令国制の「陸奥」となっております。

当人は、幕末の記憶がギリギリあるかないかというところでしょう。周囲の環境も、「陸奥生まれ」という認識を培うようなものであったと想像できます。

父は、土方(1835年、天保6年)のプラスマイナス10歳としまして、文政年間から弘化年間あたりで、問題はここから!

こうした旧幕府軍は、箱館戦争のあと、どういう生き方をしていたのか?

箱館戦争そのものは、旧幕府軍の敗北です。

土方の戦友は全員負け組と言えるわけ、さすがにそう単純なものでもありません。

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実は、箱館戦争を戦った中にも、様々な事情はありました。

箱館戦争で死ぬ気だったかどうか?

生かされると思っていたのか?

ここは重要な点です。

死ぬ気であった代表格の筆頭こそが、土方その人です。

関東の豪農に生まれ、俳諧を趣味としていた土方歳三。

新選組を率いていたとはいえ、その才能を明治で生かせるかとなると、到底そうは思えません。

新選組への恨みを募らせた攻撃側も、彼の命を惜しむはずがないのです。

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その正反対の立場であったのが、榎本武揚です。

彼の才知は、殺すにはあまりに惜しい――新政府もそこは意識していました。

勝海舟や榎本は、その才知を惜しんだ新政府でも順調に出世を遂げております。

福沢諭吉がそのことを、著書『痩せ我慢の説』で「ゲスの極み!」と攻撃するほどでした。

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さて、ここで考えたいことがあります。

門倉の父が、そのどちらでもなかったということ。

彼が戦死したかどうかは、現時点では不明です。

しかし、土方ほど宿敵扱いされるわけでも、榎本ほど大出世したわけでもない。

彼の息子は、看守というそれなりの地位で、狸のふりをして生きてきたわけですから、その父も、世間からすればその程度の認識だったでしょう。

門倉父子とは、箱館戦争で辛酸を舐めた。けれども、そこまで大物ではない幕府側。そういう生い立ちだと推察できます。

 


具体的にどこの藩士なのか?

では、門倉の父とは、具体的にどんな立ち位置であったのか?

そのルーツを絞ってみたいと思います。

◆土方戦友の子孫

→土方の戊辰戦争転戦ルートからすると、

【会津→仙台→函館】

となります。北海道入植士族でも、この進軍ルートに合わないものは除外できます。

◆北海道に入植した

→幕府側の藩についた藩士子孫であり、新選組隊士、旗本、幕臣は除外できるでしょう。

可能性としてゼロではないものの、そこまで高くはありません。

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この条件を満たし、かつ入植した人数が多い藩となりますと、

・仙台藩およびその支藩

・会津藩

が、ツートップとなります。

人数、入植時期でも、もっとも早いのです。

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奥羽越列藩同盟のリーダーであった仙台藩。

「京都守護職」として、新政府首脳部の憎悪を集めていた会津藩。

さて、どちら?

◆仙台藩

門倉の性格がそうかもしれません。

北海道移民からは「仙台出身者はつきあってられない!」という、割と身もふたもない評価があるほどでして。

戊辰戦争でも他の藩から「ドンゴリ(ドンという音が聞こえただけで五里逃げる=弱虫)」と、陰口を叩かれたという話も……。

大藩意識が抜けずに、ノホホンとしているマイペースさがそう思われたようです。

これは嫉妬もあるののでしょうが。

そんな趣旨のことを、他ならぬ仙台出身者である故・菅原文太氏もおっしゃっております。

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◆会津藩

土方との因縁が何より深い。

新選組は、会津藩の支配下にあった組織です。

会津戦争で降伏せずに、土方とともに戦った藩士も多かったものでした。中でも土方と会津藩士・秋月登之助とは、盟友と言えるほど親しかったとか。

会津藩は新選組と明治以降も縁があります。明治以降、新選組隊士であることよりも、会津藩士であることを重視して生きた大物がいます。

斎藤一こと藤田五郎です。

あの永倉新八と並び、新選組最強候補の剣士です。史実で真面目に守衛さんだった斎藤が、土方の生存を知ったらどう思ったことでしょうか。

劇中当時、史実の斎藤は東京女子高等師範学校で庶務掛兼会計掛をしております。

真面目な勤務態度、親切な人力車誘導で慕われておりました。

そんな生真面目な斉藤は、『ゴールデンカムイ』には結局登場しませんでした。土方の遺言も榎本武揚に託されています。

明治になってから政府に仕えたため、福沢諭吉から罵倒された榎本。

屈辱と引き換えに、第2代総理大臣を務めた黒田清隆に重用されました。

影響力を踏まえれば、一民間人に過ぎない斉藤と、大物政治家の榎本ではスケールが異なりますから、そこは仕方ないのでしょう。

なお、最終巻の土方歳三の青年時代回想シーンには、写真によく似た斉藤らしき顔が見えます。

ちなみに、明治になってからの永倉新八VS斎藤一というカードは『警視庁草紙』で実現しております。

斎藤一のみが登場していた『るろうに剣心』でも「北海道編」では永倉新八が登場しました。

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さて、結局どちらか、はっきりとされないまま完結したようで、実は最終回で明らかになったようにも思えます。それは後述します。

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