本寿院

夫の徳川家慶(左)と息子の徳川家定/wikipediaより引用

幕末・維新

13代将軍家定の生母・本寿院~嫁の篤姫との関係は対立ではなく良好か

明治18年(1885年)2月3日は12代将軍・徳川家慶の側室であり、13代将軍・徳川家定の母である本寿院の命日です。

大河ドラマ『西郷どん』では泉ピン子さんが演じていたのをご記憶されている方もいらっしゃるでしょうか。

劇中では、いかにもステレオタイプな意地悪姑というポジションで登場しており、確かに史実の本寿院と篤姫も対立していました。

しかしそれは、嫁が気に喰わないとか、そんなしょーもない理由ではありません。

二人の関係は、単なる対立というより、むしろ目的が重なる部分もあった。

しかし、幕末の政局や混乱でわかりにくくなっており、いわば誤解されやすい女性でもあります。

では本寿院とは一体どんな人物だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 


シンデレラガールだった本寿院

そもそも本寿院とは、どんな女性か。

生まれは文化4年(1807年)で、父は跡部惣左衛門正寧(諸説あり)。元々の名は「おみつ(美津)」でした。

彼女の人生に転機が訪れたのは文政5年(1822年)のことです。

15才になって西ノ丸大奥へ出仕を始めるため、姉の浜尾のもとへ泊まりに来ていたおみつは、ある偶然に見舞われます。

第12代将軍・徳川家慶の御中臈おちゅうろう候補のお目見え(面接)が行われたのです。

御中臈とは、将軍の側室候補にあった大奥の役職。もしも選ばれれば一気にスターダムも夢ではありません。

このとき、面接を受けるはずの一名が欠席しました。

担当女中は、そこで浜尾に妹を貸してくれと頼み、現れたおみつ(本寿院)を襖の陰から眺めていた家慶が気に入り、側室となるのでした。

わかりやすく言えばシンデレラガールだったのです。

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もちろん、このとき家慶には、他にも側室はおりました。

シンデレラが本物の妃となるには、さらなる幸運が求められまして……。

それから約2年後。

文政7年(1824年)、彼女は西ノ丸大奥にて政之介を出産します。

後の第13代将軍・徳川家定です。

紛れもなく将軍様の生母。このことにより彼女には十人扶持が与えられました。

 


無事に息子・家定は成人したが

あらためて彼女の経歴をスッキリ整理してみましょう。

時系列に沿って簡単な年表に記させていただきます。

文化4年(1807年) 誕生

文政5年(1822年) 西ノ丸大奥に出仕

文政6年(1823年) 将軍家継嗣・徳川家慶の寵愛を受ける

文政7年(1824年) 家慶四男・政之介(のちの家定)を出産、「お部屋様」と呼ばれるように

文政9年(1826年) 六男・春之丞出産

文政10年(1827年) 春之丞夭折

文政11年(1828年)七男・悦五郎出産

文政12年(1829年) 悦五郎夭折

家慶は、14男13女という多くの子に恵まれたものの、成人できたのは四男・家定のみ。

そのため、その母である本寿院も他の側室とは別格の扱いとなります。次期将軍生母として「御年寄(老女)上座」に出世をしたのです。

出自すらハッキリしない女性が、ここまで昇り詰めるためには、いくつも重なりました。

・将軍家継嗣である徳川家慶の目にとまる

・無事に妊娠&出産

・出産した男児が成人する

・成人した男児が最年長で、将軍後継者となる

子供が無事に成人する――それが当たり前なのは現代だけで、江戸時代は夭折する子が多かった。

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たとえば西郷隆盛の敬愛する主君・島津斉彬も子供が次々に亡くなっております。

しかし、そこから先は苦難が待ち構えておりました……。

 


唯一成人した家定も子ができず……

嘉永6年(1853年)。

黒船来航の衝撃さめやらぬ19日後に、家慶が死去します。

そして、本寿院の子・家定が将軍に即位。

すでに青年の第13代将軍の徳川家定ですから、立派に政務を行わなければなりません。

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しかし、黒船来航後でドタバタの幕府を切り回すには、将軍様とはいえ、いや、将軍様だからこそ【鋼のメンタル】が必要とされます。

残念ながら家定にはそこまでの能力はなく、代わって切れ者の老中・阿部正弘が奔走します。

ドラマ西郷どんでは藤木直人さんが演じておりましたね。

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家定の将軍としての器もいろいろと言われるところですが……残念だったのは幕府の対応。

阿部が程なくして急死すると、混乱に陥ってしまいます。

おまけに家定には、国の舵取りよりも、徳川家のためにやらねばならないことがありました。

お世継ぎを作ること、です。

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