伊達宗城/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末の名君と名高い伊達宗城〜政宗子孫の藩主は心中測れぬ傑物だった!?

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文政元年(1818年)8月1日は、宇和島藩八代藩主・伊達宗城(むねなり)が生まれた日です。

幕末の名君と名高い人物であり、「幕末の四賢侯」※1の一人にも数えられております。

姓からお察しのとおり、血筋を辿れば戦国一のお騒がせ大名・伊達政宗につながり、つまりは最初に伊達氏を名乗った朝宗まで遡れますので、仙台藩だけでなく宇和島藩も鎌倉以来の名家ということになりますね。

では、藩主になってからの本人の足跡を追ってみましょう。

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※1 幕末の四賢侯
福井藩第14代藩主・松平慶永松平春嶽
土佐藩第15代藩主・山内豊信(山内容堂)
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬
宇和島藩第8代藩主・伊達宗城

 

26歳で藩主となった伊達宗城、日本初の蒸気船を製造させる

26歳で藩主の座を引き継いだ宗城は、まず他の藩と同様、火の車だった藩政を立て直すために奔走。
木蝋もくろう(漆の実から採れる蝋)の専売化や石炭の埋蔵調査などを行い、藩の収入をより豊かにしました。

また、宗城のスゴイところの一つに、人を見る目が優れていたという点があります。

このころ長州から大村益次郎を招いており、蒸気船の製造を命じて、日本人だけで初めて西洋と同じ船を作らせました。

益次郎を選んだのは
「医者ならオランダ語が読めるから、西洋の技術書も読めるだろう」
という理由だったとか。
そりゃそうですけども、結構な無茶ぶりですよね。

この辺の思い切りの良さというかウルトラCな思考回路は、さすが政宗の子孫という気がしなくもありません。

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ついでに言うと、このとき蒸気機関を作ったのは宇和島城下の提灯職人だったそうで。史上稀に見る無茶振りです。ギネスブックのイグノーベル賞版とかあったらぜひ載せるべき。

とはいえ、その一方で日本初の女医・楠本イネも保護していますから、目の付け所は確かなんですよね。

日本初の女医・楠本イネ 父はあのオランダ人医師・シーボルトです

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一橋慶喜が将軍になれず、釣られて失脚

さて、宗城は別に地元で無茶苦茶ばかり言っていたわけではありません。

傾き始めた幕政に関しても積極的に意見し、島津斉彬らと並んで「四賢候」と並び称されました。
が、外から口を出したような形ですから、幕閣からのウケはあまり良くなかったようです。

十三代将軍・徳川家定の後継には一橋慶喜(後の十五代将軍)を推し、あいにく徳川家茂が十四代になったため、家茂の就任時に隠居謹慎を言い渡されてしまっています。

このとき七代藩主・宗紀が宗城を養子に迎えた後にもうけた子・宗徳に家督を譲っていますが、藩政の実権は依然として宗城にありました。

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というか幕府の「お前気に入らないから隠居しろ」(超訳)っていうテンプレな対応もどうなんだという気がします。
実質が伴ってなかったら意味ないですよね。

 

重要なポストに就いては、それをアッサリ投げ捨てて

やがて、家茂を将軍に推した井伊直弼が【桜田門外の変】で幕政どころかこの世からも去ると、謹慎を言い渡された大名達も再び動き始めます。

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その頃は既に開国した後でしたので、各地で外国人とのトラブルが起き始めていました。

とりわけ有名な【生麦事件】について宗城は「賠償金は薩摩に払わせるべき」としています。
が、その一方で薩摩藩主・島津久光とは協力して公武合体を計画しているのですから、何を考えていたのやらよくわかりません。

たぶん斉彬の代から交流があったからなのでしょうけども。
「これはこれ、それはそれ」と考えるタイプだったんですかね。なるほどわからん。

宗城の真意は、維新が始まってもやっぱりサッパリです。

一応、新政府側についているのですが、戊辰戦争には消極的で、参謀を辞任。
元をたどれば同じ家である仙台藩を責めたり攻めたりする気になれなかったのでしょうか。

明治時代に入ってからは日清修好条規を結んだり、外国の来賓を接待するというそれなりに重要な役目をひきうけているのですけれども、これも短期間で自ら辞任しています。

 

そのとき仙台の伊達藩主・慶邦は何を思っていた?

明治十四年(1881年)、には63歳で世界周遊中のハワイ国王・カラカウア(最後のハワイ国王・リリウオカラニ女王の兄、世界で一番最初に日本を訪れた国家元首)を接待しているので、やる気がなかったわけではないっぽいです。

ちなみにカラカウア国王からは気に入られたようで、このとき返礼として勲章を授与。
今も宇和島で保管されているそうですね。

宗徳の代(宗城存命中)に宇和島伊達家は伯爵家になりました。

が、仙台伊達家を上回ったことは宗城としてビミョーだったかもしれません。
これはもちろん維新のときに味方だったか敵だったかという基準だからなのですけども。

その辺について当時の仙台藩主・伊達慶邦のほうではどう思っていたのか? 宗城はどうだったのか? という問題については日記があるわけでもないので、神のみぞ知るというところですが……。

はてさて、今頃あの世でどんな会話をしているのでしょう。

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【参考】
国史大辞典
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon link
伊達宗城/Wikipedia

 



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