増田宗太郎/wikipediaより引用

幕末・維新

増田宗太郎は諭吉のハトコ~西郷に惚れ込み西南戦争で共に散る

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増田が残した言葉はこちら。

「一日先生に接すれば一日の愛があり、三日接すれば三日の愛がある」

この”先生”というのは西郷隆盛のことです。

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つまり、どこかのタイミングで増田と西郷と膝を突き合わせて話すようなことがあり、その人格に惚れ込んだからこそ苦楽を共にしようと決めたのでしょう。

 

城山の戦いで戦死か、西郷自刃後に斬首の最期

西南戦争の終盤に西郷が解隊を宣言した後も、数百名が付き従っていたといわれています。

その中に増田の姿もありました。

もともと身分が高い人ではなかったので、最期ははっきりしていません。西南戦争の最終局面・城山の戦いで戦死したとも、西郷の自刃後に捕らえられて斬首されたともいわれています。

お墓は中津市の安全寺と、鹿児島市の南洲墓地とにあります。

安全寺のほうでは奥さんと一緒のお墓だということなのですが、誰が供養したとか、子供の有無など伝わっていないようです。地元の方ならご存じでしょうか。

学のある人なだけに、どこかに日記なり手紙なりが残っていてもいいように思うのですけれど……そういう話もないみたいですね。彼の生家の建物はなくなってしまっていますし。

せめて、西郷が増田をどう評価していたかがわかればいいのですが。もし史料が出てきたら、もっと研究を進めていただきたいものです。

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長月 七紀・記

【参考】
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon
増田宗太郎/wikipedia

 



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