久坂玄瑞/wikipediaより引用

幕末・維新

久坂玄瑞 幕末一のモテ男が25才で夭折したのは松陰の遺志を継いだからこそ?

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
久坂玄瑞
をクリックお願いします。

 

「奉勅攘夷」

このころ、長州藩にとっては甚だおもしろくないことが起こっていました。

文久2年(1862年)、島津久光が兵を率いて上洛。

西郷隆盛が「無謀」だと反対した計画ですが、幕末でこれほどインパクトを与える行動を与えた例は他にありません。

島津久光はなぜ西郷の敵とされたのか? 薩摩の名君71年の生涯まとめ

続きを見る

京都を抑えた久光は、大きな圧迫感と存在感でもって、幕末政治の表舞台に立ちます。

この上洛により、元一橋派の一橋慶喜松平春嶽も政界に復帰しました。

徳川慶喜(一橋慶喜)は家康の再来とされた英邁? ラスト将軍77年の生涯

続きを見る

松平春嶽(松平慶永)幕末のドタバタで「調停調停また調停」だった生涯63年

続きを見る

久光の上洛の直後に「寺田屋事件寺田屋騒動)」が起こります。

この事件で久光は【自分の藩の者であっても、朝廷に背く者は断固処理する】ことを示したのです。

孝明天皇はじめ朝廷の久光に対する評価は、この果断によって一気に高まりました。

寺田屋事件(寺田屋騒動)で起きた薩摩の惨劇!1862年久光vs新七

続きを見る

同年、久光の幕政改革案によって設置された京都守護職として、会津藩主・松平容保が上洛。苦しい状況の中、再三辞退した挙げ句、ついに上洛することになってしまいました。

容保は、政治的には愚直なところがあり、同時に誠意あふれる性格です。孝明天皇は、生真面目な容保のことを、ことのほか気に入りました。

が、これは、長州藩にとっては大変おもしろくありません。

朝廷にとってナンバーワンは自分たちだったのに、薩摩と会津が割り込んできたように思えたのです。

こうなったら、さらなる過激な攘夷を行って自己アピールするしかない!

かくして藩をあげて、勅命を奉じて攘夷をすること、すなわち「奉勅攘夷」がモットーになりました。

 

暴走する「攘夷」

文久2年(1862年)。
このままでは薩摩や会津に負けてしまうと、長州藩過激派は焦りました。

もう、こうなったら、さらなる攘夷アピールしかないんじゃ! そんな暴走状態に陥ってしまったのです。

外国公使暗殺(計画のみで未遂)。
イギリス公使館焼き討ち。

徳川家茂が上洛すると、根回ししてしつこく攘夷を誓うように画策します。

下関からは、通りがかる外国船を片っ端から砲撃。民間商船でも容赦しなかったため、国際法に照らしてもこれは大問題です。

かなりの危険行為で、外国に戦争を仕掛けられてもおかしくはありません。

こうした無謀な「小攘夷」(短絡的なヘイトクライム)は、国家を危険にさらすだけの愚行とも言えます。

案の定、アメリカとフランスから逆襲を受け、長州藩はとんでもない状況に陥ります。

こうした状況を打破するために、高杉晋作が急遽、結成したのが「奇兵隊」でした。

「奇兵隊」は武士以外の起用した隊であることから、高杉や久坂は身分にとらわれない平等の意識があった、とされています。

この点については保留が必要です。

武士以外が隊員とされたのは人員不足によるものでした。高杉にせよ、久坂にせよ、生涯武士としての誇りを持ち続けていました。

当時の武士としては「わしら武士が、民を率いてこそじゃ」という思いがありました。

これは藩を問わず、そんなものでした。

現代的な身分平等思想があったかどうかは、別の話です。

奇兵隊/wikipediaより引用

さて、この奇兵隊。
外国勢との戦争が終わるとさらに行動を始めます。

関門海峡を越えて、さらなる攘夷のために、小倉藩領にまで砲台を築き始めたのです。

長州藩に巻き込まれた小倉藩とすれば、砲台建設はたまったものではありません。勝手に砲撃されて外国船に攻撃されたらば、被害を被ってしまいます。

当然ですが、小倉藩は「止めてくれ」と訴えました。

が、長州藩は取り合いません。

「攘夷に協力せにゃあは、不甲斐ない連中じゃ。勅を得て砲台建設の許可を、朝廷から得よう」

かくして、長州藩過激派の意を汲む公卿により、小倉藩に攘夷を命じる勅令が出されてしまうのです。

あまりの暴走に驚いた幕府からの詰問使が、長州藩にやって来ます。

その使者は、斬殺されてしまいました。

 

なぜ「攘夷」にこだわるのか?

ここで、何か気になってきた方がいると思います。

「攘夷でアピールするっていうけど、当時の人は攘夷のデメリットに気づかないの? そんなにノリノリだったの?」

そうではありません。

「攘夷なんて野蛮、最低最悪」と冷静に考えている人もいました。

「攘夷をダシにして自己アピールをしている」と喝破している者もいました。

幕臣の江間政発は「幕末の攘夷とは、反対派を叩き潰すための看板である」と回想。

五代友厚は「攘夷なんてしていたら、清やインドのように国が駄目になる」と指摘しております。

五代友厚(才助)49年の生涯まとめ! 西郷や大久保に並ぶ薩摩藩士の実力とは

続きを見る

当時、会津藩の家老であった山川浩となると、さらに辛辣極まりありません。

彼の著書『京都守護職始末』から引用してみましょう。

『京都では諸藩脱藩の武士などが)外国人を夷狄禽獣(いてききんじゅう)と呼び、嗷々(ごうごう)として鎖国攘夷を口にするが、さて一つとして確固とした定見があってのことではなく、はなはだしいものは昔の元寇とくらべて神風の霊験を頼むものさえある。』

【意訳】当時の京都では、脱藩浪士が外国人をケダモノ扱いして、やたらとうるさく鎖国攘夷だと叫んでいたけど、そんなものには一つとして確固たる定見なんてない。酷い奴は、元寇の時の神風を期待するオカルトレベルだった。

それが、山川の指摘です。
山川は尊王攘夷派に苦しめられた会津藩士であり、しかも性格的に思った事をズバズバ言うタイプですので、そこは差し引いたほうがよいかもしれませんが。

まるでマンガ! 元会津武士・山川浩の西南戦争は凄まじき戊辰リベンジ

続きを見る

のちに長州藩の盟友となる薩摩藩は、島津斉彬よりさらに前の、斉興の代で攘夷は無理であると悟っておりました。

外国人殺傷事件「生麦事件」の結果、薩英戦争に突入してしまいますが、そのあとは完全に攘夷からは距離を置き、むしろイギリスと手を組んでいます。

生麦事件~そしてイギリス人奥さんは頭髪剃られ 薩英戦争で友情生まれる

続きを見る

確かに戦争で打撃は受けた。しかし、貿易のチャンスを得たメリットは大きいもので、WIN-WINの関係を築くわけです。

薩摩藩の考え方は合理的です。

たしかに藩のトップであった島津久光は、異母兄の斉彬とは異なり、西洋の文物を好んでいたわけではなく、明治維新後も亡くなるまで髷を結っていたほどです。

そうした好悪の感情と、藩の利益を切り離すことができました。

薩英戦争で意外に少ない薩摩の被害 イギリスと仲良くなった理由とは?

続きを見る

攘夷に益がないとなれば切り替え、丁寧にイギリスの使節をもてなしています。

戸惑いつつも、代表のハリスと握手をしているほどなのです。

一方、長州藩過激派は違います。

松陰先生は攘夷のために生きて、幕府の開国に反対して、そうして幕府によって殺されてしもうたんじゃ。今更攘夷を辞めたら、先生の死が無意味になってしまう!」

彼らの掲げる理想は吉田松陰のもので、既にこの世の人ではないのです。

考えが、変わることはありません。

それと攘夷には、長州にとってメリットもありました。

◆民衆の反幕府感情を増幅させる

攘夷の結果、外国人が殺傷される

被害者の出身国から、幕府が多額の賠償金を請求される

賠償金のために増税、反幕府感情が増幅される

◆民衆の人気取り

攘夷の結果、外国人が殺傷される

「やったッ、さすが長州さん!! 弱腰幕府にできない事を平然とやってのけるッ! そこにシビれる! あこがれるゥ!」

民衆や尊王攘夷派の間で人気が高まる

攘夷には長期的な視野で見るとマイナス点ばかりです。

賠償金に関しても、ブーメランとなって明治政府以降に持ち越される羽目になっております。

ただし、
【幕府の屋台骨を傾け、倒すこと】
に限って考えると、メリットはあったわけです。

 

「八月十八日の政変」

孝明天皇は、だんだんと焦り始めていました。

身に覚えのない勅令が出されている。

「天皇陛下に逆らうんか!」と、頼んでもいないのに勝手な行動をする者がいる。

なぜこんなことが?
天皇は、悩みました。

孝明天皇/wikipediaより引用

実は、長州藩と息の合う攘夷過激派の公卿たちが、勅令を出していたのです。

その結果、上洛した将軍家茂が実行不可能な攘夷の約束をさせられたり、孝明天皇の意図だとして外国船砲撃が行われたり、大変な事態に陥っていました。

孝明天皇の深い悩みも知らず、久坂は久留米藩の真木和泉とともに、ある計画を画策していました。

「大和行幸」です。

天皇自ら神武天皇陵、春日社(春日大社)、伊勢神宮に参拝して攘夷祈願を行い、「攘夷親征(攘夷のために天皇自ら戦う)」の機運を盛り上げようという計画でした。

これを受けて、幕府はプレッシャーを感じるはずでした。

天皇自ら出てくる前に攘夷をせねば、政権を譲ることになるかもしれない――そう思うに違いない、と久坂と真木は考えたわけです。

この読みは、正しいと言えます。

幕政の中心にいた松平春嶽は、この時期、こう考えています。

「このままでは政治の命令が幕府と朝廷の二カ所から出ることになってしまう。朝廷から幕府に政権委任してもらうか、幕府が朝廷に政権を返すか選び、命令系統を統一せねばならない。さもなければ国が破綻しかねない!」(「政令帰一論」)

春嶽は家茂に政権放棄を迫り、逼塞処分を受けることになります。

もし久坂らの狙い通り大和行幸が実行に移されたら?

幕府も春嶽の言葉通り、そこで政権を返上したかもしれません。しかし、他ならぬ孝明天皇の我慢が限界に達しました。

天皇は、信頼出来る側近の中川宮(久邇宮朝彦親王)に嘆きます。

「誰ぞ、武で君側の奸をのぞく者はおらんやろか……」

この思いが、長州藩に敵意を抱く薩摩藩と、京都守護職・会津藩に伝わりました。

天皇の側近、長州藩の突出に不快感を抱く諸藩(藩主が京都所司代をつとめた淀藩、徳島藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩)が結託し、アンチ長州包囲網が形成されてゆきます。

こうして文久3年(1863年)8月18日深夜、薩摩と会津の兵に警護された御所から、以下の勅旨が出されました。

・大和行幸の延期
・国事参事、国事寄人の廃止
三条実美以下攘夷派公卿20名の参内禁止

長州藩は、御所堺町御門の警備任務を解かれ、都から撤退するほかありませんでした。

「既に西へ帰るよう決められてしもうた。わしらの藩の勤王の道は、これでもう終わりなんじゃ……」

久坂はそう嘆きました。

長州藩は2千人の兵士と、三条実美ら失脚した7人の公卿とともに都を追われるほかありません。

勅をふりかざして政局をリードしてきた長州藩が、勅によって追い払われてしまったのです。

彼は、妻の文にこの事件をこう伝えました。

「18日に、いかにも悔しいことだが、悪人どもが禁裏を包囲して、おまけに堺町御門の警備を解いてしもうたんじゃ。けしからん、憎たらしいこと、本当に残念なことじゃ」

この「八月十八日の政変」は、公武合体派が長州藩を追い落とした事件とされていますが、その背後には孝明天皇の意志があったことは重要です。久坂には認められないことだったでしょうが。

どうもこのあたり、久坂はじめ尊王攘夷派は、孝明天皇を意志ある生身の人間というより、自分たちの言動を後押ししてくれる便利な概念として見ていたのではないかな、と思わなくもありません。

 

悪いのは「薩賊会奸」である

立ち塞がる逆境。
しかし、これでめげるような久坂ではありません。

長州側の見解は、こうでした。

「わしらは孝明天皇の叡慮である攘夷を忠実に行っただけじゃ。功こそあれ、罪はない。悪いさあ、陛下をたぶらかせた薩摩と会津じゃ」

彼らはリベンジを誓いました。

積もった恨みを晴らすがごとく、「薩賊」「会奸」と下駄に書いて踏みつけて歩いた者もいたとか。

久坂は、京都で長州藩に同情的な皇族や公卿に協力を打診しました。

金払いがよく、粋な遊びを好み、色街中心に豪遊した長州藩士は、町の人々にも大人気でした。

彼らにすれば、長州藩は憎い異人を追い払う正義の味方です。久坂は、その中心にいる、悲運のイケメンプリンスといったところでしょう。彼らはひそかに長州藩士にエールを送っていました。

とはいえ、いくら町人が長州藩を支持しようと、孝明天皇が動かせなければ無駄なのです。

長州藩では、朝廷に弁明の使者を送ろうとしますが、会津藩の反対により、伏見で止められてしまいます。

追い詰められた中で、久坂は養子に粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)を迎えました。

久坂も文もまだ20代前半で、実子を持つことは望めたでしょう。

しかし、それもその余裕があれば、の話。久坂は、自身の命運を予感していたのかもしれません。

 

沈む薩摩船と「上関三士」の死

長州藩では、薩摩への憎悪が募りに募っておりました。

「八月十八日の政変」の件もありますが、理由はそれだけではありません。

攘夷のトップリーダーは、かつて長州藩でした。

ところが薩摩藩が、生麦事件と薩英戦争を起こし、その座を奪ってしまったのです(薩摩側はそんなことを競ったつもりもないでしょうが)。

そんな最中、長州藩は、薩摩藩がイギリスと密貿易をしていることを嗅ぎつけます。

当時は南北戦争の最中であり、イギリスはアメリカから綿花を輸入できなくなっていました。

そこで、薩摩産綿花を買い付けることにしたのです。

「薩摩というさあ悪い連中じゃ。攘夷と言いながら、イギリスと貿易をしちょるじゃないか。化けの皮を剥がしちゃる」

文久3年(1863年)末。長州藩は外国船だと勘違いしたとバレバレの嘘をつき、薩摩船「長崎丸」を砲撃して撃沈します。

「まさか薩摩の船たぁ思わだった。外国船じゃと思うた。攘夷のつもりじゃった」というわけですね。

当時の船舶イメージ(画像はオランダ製軍艦の開陽丸)/Wikipediaより引用

この事件で、薩摩藩士28名が死亡しました。

単に藩士が亡くなった――というわけではなく、航海術に長けた者が亡くなってしまい、薩摩藩は困ることになります。

藩内はむろん、久光も激怒。

しかし、ここで怒りを表明すれば、密貿易の件が明るみに出かねません。耐えるほかありませんでした。

そんな最中、別の事件が発生します。

元治元年(1864年)2月、周布・別府浦に停泊中の、薩摩商船が砲撃を受けて沈没したのです。

しかも、貿易商であった船主の姿は消えていました。

それから数日後――。
大阪に、船主の首が晒されました。

斬奸状によれば【外国との密貿易を行い天皇の意に背いたため、成敗した】とのことです。

首の前では、長州藩士の山本誠一郎と水野精一が切腹しており、発見時には事切れておりました。さらにそのあと、高橋利兵衛という男が、周布の寺で切腹しているのが発見されます。

商船砲撃および船主殺害は、この3名の仕業でした。

後に「上関三士」として、靖国神社に合祀される3名ですが、ここまでが表向きの話でして。

この話の裏には、策略がありました。

薩摩商船砲撃犯人は、実のところ不明でした。そこで久坂ら、藩の指導部は、薩摩を非難し、長州に同情を集める、一石二鳥の妙案を思いつきます。

藩主導の下、【命を捨てる】ということは伏せられたまま、「首を晒すための」実行部隊が集められました。

水野が名乗り出て、1人では足りないため山本も説得。

「この首を大阪に晒して来んさい」

そう命を受けた2人は、大阪に向かいます。

そして首を晒した2人が帰ろうとすると、おもむろにその足を止められるのです。

「ここで腹を切りんさい」

藩の非情な命令に対し、水野と山本は驚き逃れようとしますが、追いかけられて出来ないと悟り、腹を切りました。

山本はなかなか死のうとしないため、無理矢理介錯、つまりは殺害されました。

この策略は、久坂の読み通り当たりました。

「なんちゅうこっちゃ、薩摩は勝手に密貿易しとったんや!」

「穢らわしい夷狄相手に金儲けかいな、えげつないわ~」

「それに引き換え、長州のお侍さんは、たいしたもんやな。正義のために腹を切る。これぞ義士やで!」

大阪の人々は、薩摩藩の卑劣さに怒り、上関三士と長州藩に同情を寄せたのです。切腹現場には、忠臣の遺徳を偲び、民衆が押し寄せました。

かように久坂はじめ長州藩は、人心掌握術に長けておりました。ゆえに京都でも大阪でも大人気だったのです。

長州としても、この一件で大衆の心を掴んだことを確信したのでしょう。

この時期、島津久光殺害予告を大阪で配布しました。

しかし偉いのは、殺害予告された久光。

後世の作品では【短気・狭量・冷酷・愚昧】と散々な評価を受けがちな彼ですが、こうした挑発にぐっとこらえる器量を持ち合わせていたのです。

本当に悪評通りの性格ならば、ガチギレしていてもおかしくはないところ。

島津久光/wikipediaより引用

一方、久坂は、純粋過ぎて命を落とした青年志士というイメージがあります。

それだけが、彼の本質ではありません。

マキャベリズムも持ち合わせ、時に冷酷に振る舞う。そして適切に人々の心を引きつけ、世論を動かす。

そんな智力を、持つ男でした。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-幕末・維新
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.