安政の大地震(安政江戸地震)/wikipediaより引用

幕末・維新

安政の大地震(安政江戸地震)は倒幕に影響を与えた? 幕末に頻発した天災

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安政の大地震(安政江戸地震)
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黒船来航前後で全国災害ラッシュ

江戸時代は「コメからゼニへ」で貨幣経済が浸透し、「大坂から全国へ」で地方産業が興隆しました。

それが結果的に、停滞感を産んでしまったという、皮肉な状況。世直し願望の機運が高まるこのころ、大災害がしばしば日本列島を襲いました。

その中心が1855年安政の大地震(安政江戸地震)です。

と言っても、この「安政の大地震」という名称には、少し補足が必要になります。

まずは以下の災害年表を御覧ください。

・1847年(弘化4年) 善光寺地震 M7.4

・1853年(嘉永6年) 小田原地震 M6.7

・1854年(嘉永7年) 伊賀上野地震 M7.0~7.5

・駿河湾から熊野灘を震源とする地震、紀伊水道から四国沖を震源とする地震 M8.4

・1855年(安政2年) 安政江戸地震 M7.0~7.1

・1856年(安政3年) 八戸沖を震源とする地震・津波 M7.5

・1857年(安政4年) 芸予地震 M7.0程度

・1856年(安政5年) 飛越地震 M7.0~7.1/信濃を震源とする地震 M6.0程度

1847年の善光寺地震から1856年の飛越地震まで。実に9回もM7規模の巨大な揺れが起きているのです。ほぼ年に一度のペースになりますね。

特に、後半5つの地震(1855年~)にご注目ください。

この安政年間に連続で発生した地震群を「安政の大地震」と呼ぶこともあれば、あるいは1855年の地震を単発で「安政の大地震」とか「安政江戸地震」と呼びます。

ややこしいですね……。

ドラマ西郷どんの原作・あらすじでは「安政の大地震」という言葉を使うようですから、それに準拠して説明いたします。

【安政の大地震】
・M7.0規模
・別名は安政江戸地震
・1855年
・震央は新川河口付近の直下地震
・倒壊家屋2万戸
・死者2万人

当時の江戸は100万都市との見立てもあり、現代と比較するのはかなり難しいですが、犠牲者・行方不明者は東日本大震災と同規模となります(関連死を含めて約2万人)。

もちろん歴史的な影響も小さくありません。

この揺れにより、水戸藩だけでなく橋本佐内や西郷隆盛らの思想にも影響を与えた藤田東湖が、倒壊家屋によって圧死したのは前述の通り。

藤田という思想の柱を失った水戸藩の政治は大いに乱れ、あの「桜田門外の変」やら内ゲバやら、幾度も凶行が繰り返されます。

もしも地震がなかったら、歴史は大きく変わっていたことでしょう。

有能な老中であった阿部正弘の寿命が縮んだ一因も、黒船来航と地震、パンデミックが重なったためとされています。

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頭脳明晰で、なおかつ人々をまとめるのが上手な調整役・阿部の死は、幕末の動乱を悪化させた、なんてコトも囁かれております。本当に大きな痛手でした。

 

幕末パンデミック「コレラと麻疹」

黒船来航以来の政治不安。

度重なる地震。

それだけでも大変ですが、当時は伝染病まで流行しました。

コレラです。

その世界的流行は1817年のインドから始まったとされており、5年後の1822年(文政5年)には、日本でも感染が発生しました。

日本国内でのパンデミック(大流行)は、1856年から。つまり地震の翌年ですね。

江戸では当初の1ヶ月で約12,000人もの人が亡くなり、文久元年(1861年)までの4年間で死者は10万人を超えました。大坂では、死者3万人超と目されております。

当時の人々は、まじないのような民間療法に頼らざるを得ない状況。

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ちなみに第13代将軍・徳川家定や、薩摩藩の名君・島津斉彬の死因も、コレラであるという説があります。

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不幸は続きます。

コレラの大流行が一段落した文久2年(1862年)、今度は麻疹が大流行するのです。

麻疹は20~30年周期で流行を繰り返しており、その周期に当たったワケですね。これまた江戸だけでも12,000人が死亡したとされています。

今度は将軍になったばかりの第14代将軍・徳川家茂徳川慶福)、その妻である和宮も罹患しました。

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ちなみに、同時期に予防手段が確立した病気もあります。

「天然痘」です。

イギリスの医師・ジェンナーの牛痘による予防接種発見が1796年のこと。その方法が、嘉永2年(1849年)には日本に伝わっていました。

安政5年(1858年)には、江戸と大阪に種痘施設ができていました。地方でも、開明的な人物は種痘の有効性を認めていました。

たとえば、会津藩家老・山川重英(山川浩・山川健次郎の祖父)。彼は、種痘の有効性を確信しており、孫娘にも接種させていました。

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そこで藩の上層部にも勧めたのですが、御殿医らの反対に阻まれてしまいます。

後に松平容保の正室・敏姫が天然痘で亡くなると、

「だから言ったべした。種痘さえしておけば、死なせねえで済んだものを……」

と、後悔していたと言います。
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