お由羅騒動(お由羅の方)

幕末・維新

幕末薩摩で起きた哀しき内紛・お由羅騒動|狙われたお由羅の方はどうなった?

2024/10/27

幕末の薩摩と言えば、倒幕を最もリードした雄藩。

西郷隆盛や大久保利通は言うに及ばず、数多の有力者を出したことでも知られ、いかにも【一枚岩】というイメージもありますが、実は結構ドタバタしております。

その最たる出来事が【お由羅騒動】でしょう。

幕末をテーマにした小説やドラマなどでは、必ず出てくるお家騒動であり、

・島津斉興(藩主)

・お由羅の方(斉興の側室)

・島津斉彬(嫡男)

・島津久光(由羅の子)

という薩摩ド真ん中の方たちを中心にトラブルが勃発。2018年の大河ドラマ『西郷どん』でも触れられておりました。

慶応2年(1866年)10月28日はお由羅の方の命日。

一体どんな騒動だったか、振り返ってみましょう。

 


江戸出身で庶民の娘 斉興の寵愛は深く

お由羅の方は、江戸出身の庶民の娘といわれています。

父の職業は大工・八百屋・船宿など諸説あってハッキリしていません。

江戸の薩摩藩邸へ奉公に出ていたところ、藩主・斉興に見初められて側室になりました。よくある話ですね。

島津斉興/Wikipediaより引用

とはいえ、正室がいる屋敷に側室を置くわけにも行かないので、お由羅の方は薩摩に住むことになりました。

参勤交代のたびに同行させられていたそうですから、斉興の気に入りようがわかります。

当時の交通事情を考えると、殿様のお気に入りになって生活が保証されたとはいえ、江戸生まれの庶民だったお由羅が頻繁に長旅をさせられたのはちょっとかわいそうな気もしますね。

江戸にずっといても、親兄弟とはほとんど会えなかったでしょうけれども。

 


斉興の正室が亡くなり藩内が真っ二つ

寵愛の甲斐あって、お由羅の方は斉興の子供を三人産みました。

内訳は娘が一人、息子が二人。

衛生・栄養状態の悪さから乳幼児の死亡率が高かった時代なので、無事に成長したのは斉興にとって五男である島津久光のみです。

島津久光/wikipediaより引用

ちなみに、斉興には正室・弥姫(いよひめ・嫁いでからは周子かねこ)との間にも、ほぼ同じ時期に子供を作っています。公平に接したつもりですかね。

にわかに雲行きが怪しくなったのは文政七年(1824年)のこと。

この年、正室の弥姫が32歳で亡くなってしまいます。

弥姫は嫡子・島津斉彬(なりあきら)を産んでおり、そんな彼女が亡くなったことで島津家内部のバランスが崩れ、後々の騒動に発展したとの見方もあります。

斉興の側室で息子を産んでいて、さらにその息子が無事に成長している組み合わせが、お由羅&久光親子しかいなかったからです。

身分の低さから正式な後室(二人目の正室)扱いはされなかったものの、お由羅の方は家中で「御国御前」と呼ばれ、実質的には正室同然に扱われたとか。

確実に彼女自身の言動だといえるものが伝わっていないようなので、本人はあまり前に出るタイプではなかったのかもしれません。

しかしこうなると、家臣たちが「次の跡継ぎは誰だ? 斉彬か、久光か」で割れてしまうのも自然の流れでして……。

人々の思惑が絡んで、ややこしい事態【お由羅騒動】へと発展してしまうワケです。

 

家督を譲られないまま斉彬40才

お由羅騒動とは、

島津斉彬(母は正室 弥姫)

島津久光(母は側室 お由羅の方)

の両者どちらを次の藩主にするか? で、揉めた薩摩藩内の御家騒動です。

では、斉彬派と久光派には、それぞれどんな人物が関わっていたのでしょうか。

【久光派】

・斉興
「斉彬は、お祖父様(斉興の祖父・島津重豪)の影響を受けすぎていて藩主にすれば借金が増えるだけだ」

・家老の調所広郷
「若様は蘭癖(外国趣味)に偏りすぎている。せっかく私達が頑張って財政の心配をなくしたのに、またぶり返されたらかなわない。久光様に跡を継いでいただいたほうが安心できるのだが……」

【斉彬派】
・若手藩士A
「斉彬様は英明な方でれっきとした嫡男なのに、お由羅と久光がいるせいで、40歳になっても家督を継げないのだ。なんておかわいそうな!」

・若手藩士B
「調所のヤツ、俺たちにばかり負担を押し付けて無理やり黒字を生み出したくせに、手柄ヅラしてやがる。アイツが推す久光なんて、藩主にさせてたまるか!」

・幕府の老中首座 阿部正弘
「外国との折衝が必要になってきた昨今、外様大名で海外に関心を持つ人物がいればありがたい。斉彬は英明な人物だし、幕政に良い意見を出してくれるに違いない。すぐにでも家督を継いでくれれば……」

こんな感じで

「斉興・調所」
vs
「斉彬・若手藩士」

という構図となっておりました。

島津斉彬/wikipediaより引用

本来は「斉彬が嫡男」なのですから、さっさと跡を継がせればよい話のように見えますが、斉興と調所が彼の「蘭癖」による「浪費」を恐れていたんですね。

薩摩は、島津重豪の代で急増した莫大な借金をようやく返せるメドがついたのに、ここでまた財政悪化したらタマラン、というワケです。

それで斉興が家督を譲らないまま、嫡男だった斉彬は40歳になってしまいました。

当時は「跡継ぎが元服する=代替わり」がセオリーでしたので、外部から見ても異様な状態でした。しかし……。

 


自分たちの密貿易を幕府に訴える大博打

「正室生まれの長男を、あいまいな理由で廃嫡しようとするとロクなことがない」のは江戸時代のテンプレ。

それでも、現役の藩主である斉興が存命なので、無茶はできません。

下手をすると「お家騒動→改易」の華麗なコンボが決まってしまいます。まぁ、この頃の幕府に、薩摩を改易に追い込んだり、その後処理をする余裕もないのですが……。

ともかく、そんなこんなで業を煮やした斉彬派たちは、一世一代どころか島津家としても史上初レベルの大博打に出ます。

なんと、琉球でやっていた薩摩藩の“密貿易”を老中・阿部正弘に密告、その責任を取る形で斉興と調所を失脚させようとしたのです。

密貿易は、江戸幕府が始まってすぐの頃からやっていたので、まさに「公然の秘密」だったのですが、それをわざわざ表沙汰にしようというのは自殺行為にほかなりません。しかし……。

久光派の調所が取り調べを受け、程なくして急死してしまうのです。

調所広郷/wikipediaより引用

死因は不明ながら、一人で責任を負うために毒を飲んだと言われており、この場合は間違いなく斉興をかばうためでしょう。

そこまでして斉彬の家督相続を防ぎたかったわけです。

 

斉彬では次の跡継ぎ問題も抱えて

最大の目標である斉興隠居が叶わなかったために、問題はさらに長引きました。

斉興自身がこの一騒動で「調所の死を無駄にしないためにも、絶対斉彬なんかに家督は譲らないし、ワシの跡継ぎは久光決定!」と、はた迷惑な決意を新たにしてしまったのです。

そしてお由羅の方も、我が子・久光が藩主になればいろいろオイシイわけですから、密かにそれを願っていたと思われます。

斉彬派もそこには気付いていました。

島津斉彬/wikipediaより引用

ここでキーになるのが、「斉彬の子女の多くが夭折しており、成人したのが娘三人だけ」&「久光の子女には成人した者が多かった」ということです。

正確に言えば、久光の子供でも夭折していた者はいたのですが、跡継ぎの男子が「いる・いない」では雲泥の差が生じます。

もしここで仮に斉彬を次の藩主にしますと、近い将来にもう一度、後継者問題が起きることは目に見えてます。

婿養子を取るにしても「それなら久光に」となるのは明らかでした。

だったら最初から斉興→久光の順に継がせるほうがスムーズですよね。

 

久光やお由羅たちを殺そうとして

それでも正室の長男かつ、見識の広い斉彬が藩主にふさわしいと考える者は少なくありません。

そして斉彬派はこんな怖いことを考え始めます。

「斉彬様のお子様ばかりが早く亡くなったのは、お由羅が呪いをかけていたからだ!」

少しずつ医学が発展していたとはいえ、江戸時代はまだまだ「呪詛(呪い)」の力が信じられていた時代でもありました。

ドラマなどではよく強調されますが、実際にお由羅の方が斉彬の子供を呪っていたのかは定かではありません。

まあ、そもそもコッソリやるものですしね。

斉彬派の苛立ちは外部にも伝わっており、そのうち「斉彬派が久光派を襲撃して、何が何でも斉彬を藩主にするつもりだ!」という噂が立ち始めます。

そして嘉永二年(1850年)12月、ついに事件へ。

斉彬派の数名が「久光・お由羅の方・その他久光派重臣の暗殺計画を立てた」という罪状でとっ捕まり、すぐに切腹を命じられたのです。

更には、直接関わっていなかった斉彬派のうち、50人ほどが蟄居や流罪になってしまいます。

これを恥として、自ら命を絶った者も多かったとか。

 

幕府が斉興に“茶器”を贈って引退勧告

騒動のため、藩内で孤立した斉彬が、家督を継ぐことはもはや絶望的に見えました。

しかし、まだ味方は残っていました。

斉彬派の一部は、斉彬の大叔父にあたる福岡藩主・黒田長溥(ながひろ)を頼って脱藩します。

長溥は、島津家から黒田家に婿養子に入った人であり、十一代将軍・徳川家斉の正室である高台院の弟なので、実家にも幕府にも顔が利きます。

徳川家斉/wikipediaより引用

当然、斉興は長溥に「ウチのモンが世話になったな^^ こっちに返してくれる?」(超訳)と言いましたが、長溥は拒絶しました。

さらに長溥は、実弟である八戸藩主・南部信順(この人も島津家から南部家へ婿養子に行った人)と一緒に「すみません、実家でこれこれの経緯があってもうどうしようもないので、上様のご裁可をいただけませんか」と幕府へ報告したのです。

直接頼んだのは上様=十二代将軍・徳川家慶相手ではなく、老中首座の阿部正弘。

この手の騒動を収める方法はいくつかありますが、阿部正弘も徳川家慶も「島津斉興を隠居させたほうがいい」と考えたようです。

そこで家慶は、斉興に茶器を送り、暗に「そろそろ歳だし、これからは隠居してゆっくり茶でも楽しむといい」と示しました。

武家というより公家や宮中で行われていそうなやり取りですね。

 

そもそも兄弟仲は悪くない?

さすがに将軍の命令では斉興も逆らいきれず、隠居して家督を斉彬に譲ることになります。

「最初からそうすればいいじゃん」とツッコミたくなってしまいますが、話がここまで大きくなったからこそ、幕府も動いたのかもしれません。

この一連の騒動を「お由羅騒動」というのですが、お由羅自身がどこまで関与していたのかは不明です。

処分もされていませんし、天寿を全うしています。

もしも「密かに我が子の藩主就任を祈っていた」くらいで、陰謀には全く関与していなかったとしたら、イメージだけで諸悪の根源扱いされていてかわいそうですね……。

というか、そもそも斉彬と久光の兄弟関係は決して悪くありません。

久光は勉強も得意なアタマの良い人物で、斉彬も信頼しており、後に彼が江戸に出向いたときは、薩摩藩内の藩主代行のようなことを久光に頼んだりしています。

そんな書状も残っております。

 

西郷にも大久保にも大きく影響

それでも、お由羅騒動が与えた影響は小さくありません。

西郷隆盛や大久保利通など、後々討幕や明治政府を作っていく人々にも大きく関係しています。

精忠組(誠忠組)

言わずとしれた西郷隆盛(左)と大久保利通/wikipediaより引用

例えば、隆盛の父・吉兵衛は、切腹になった赤山靱負(あかやま ゆきえ)の介錯を務めた後、その様子を隆盛に詳しく聞かせ、切腹の際に血がついた衣も見せたのだそうです。

これによって、隆盛は斉彬の家督相続のため奮闘するようになったとか。

大久保家では父・利世が琉球館(琉球王国の出張機関・鹿児島と中国福建省に1つずつあった)の仕事を罷免された上に流罪という、重い処分になっています。

利通もまたクビを切られ、一家で困窮してしまいました。

隆盛がこの間、大久保家を援助していましたね。

幕末作品の見どころの一つで、このあたりは大河ドラマ「篤姫」や「西郷どん」でも扱われましたが、さすがに「青天を衝け」では渋沢栄一が主役ですので遠すぎますね。

以下、西郷や大久保の記事も併せてご覧いただければ幸いです。


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【参考】
芳即正『島津久光と明治維新』(→amazon
お由羅の方/Wikipedia
お由羅騒動/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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